なな
十八回目の六月十六日。
萩野と行動を共にするようになってからは七回目になる。
ここまで回数を重ねると、次第に日付の感覚もよくわからなくなる。
最近では、タイムリープしてから一日目、二日目、そして萩野と別れる日が三日目。と、その程度の感覚で数えていた。
二日目の今日、僕は朝から支度をして大きな家の前に居た。
白い外壁に赤い切妻屋根。二階にはベランダと言うには整った、テラスのようなスペースまで見える。
住宅街にあっても目立つ外観は、小洒落たレストランのようだ。
門扉には『萩野』の表札が掛かっている。
思っていたよりも随分壮観なその家の前で、僕は萎縮してしまっていた。
一日目はいつも通り、萩野と仲良くなるところから始まった。
僕が萩野に日記を渡し、萩野がそれを読む。
そして、今まであったことを語らうだけの一日。
似たようなサイクルだけれど、全く同じということはない。
最初こそ同じような話になるのではないかと辟易していたけれど、萩野は喜怒哀楽の表現が豊かで、よくコロコロと表情を変えるため、見ていて飽きることがないのだ。
早く萩野の未練を晴らしたいと思う反面、ただ僕と萩野のことを語らうだけの日が三日に一回はあってもいいのではないかと思えるから不思議だ。
そんな一日目の終わり際、萩野はある提案をした。
それが、萩野家で一緒に過ごすことだった。
予定の時間になってしまったため、僕は恐る恐るインターホンを鳴らした。
鍵を開ける音と共に萩野が姿を見せる。
ゆったりとした淡いパープルのパーカーにサンドベージュのロングスカート。
栗色の長い髪もひとつに纏め、肩から胸元にかけて流れている。
いつもよりラフな格好なのは、室内で過ごすからだろうか。
「時間ぴったりだね」
「遅刻しなくてよかったよ」
僕はちょっとだけ隠し事をした。
遅れないように早めに来たものの、家の前で萎縮して気がついたら時間になっていた、なんて恥ずかしくて言えなかった。
「なんてね。そのカメラで見てたから、五分前には到着してこと知ってるんだ」
萩野はいたずらっぽく笑い、玄関の真上を指さす。
そこには防犯用の監視カメラがじっとこちらを向いていた。
「知っていたのに声をかけないなんて意地が悪いね。萩野は」
「渡利くんがそわそわしてるのが面白かったんだもん」
萩野は本当に意地が悪い。
僕の様子を見て楽しんでいたなんて。
恥ずかしさと萩野に対する講義の意を込めて肩を竦めると、萩野は口元を押はえてくすくすと笑った。
「ごめんね。次からはちゃんと声かけるよ」
「次からは時間ぴったりに来てすぐにインターホンを押すことにするよ」
萩野につられて僕も笑顔が零れた。
見られていたのは恥ずかしかったけれど、萩野が楽しそうなら道化になるのも悪くない。
「いらっしゃい。渡利くん」
「うん。お邪魔します」
萩野に促され、僕は萩野家に足を踏み入れた。
※※
外観もそうだったけれど、内装も落ち着いて洒落た印象を受ける。
ピカピカに磨かれたフローリングの床に汚れひとつない白い壁。家具やインテリアの色合いも雰囲気とマッチしている。
「綺麗なお家でしょ?」
キョロキョロと部屋を見渡していたことに気付き、萩野がそう声をかける。
「そうだね。すごくお洒落で素敵だと思うよ」
「でしょー!って、私が威張れることじゃないけどね。お父さんとお母さんの趣味なんだ」
「萩野のセンスの良さもご両親の賜物なのかもね」
遠回しに萩野を褒めてみると、頬を赤らめて微笑んだ。
子供は親を見て育つ、なんて言うけれど、萩野も仲が良く美的センスに長けた両親を見てきたおかげで今の萩野があるのだろう。
そういえば、その両親が見当たらない。
「ご両親は?」
「共働きだから昼間は居ないんだ。夕方には帰ってくると思う」
思わず体がびくりと跳ねた。
女の子の家で二人きり。
それもこんな美人なクラスメイトと。
クラスの男子が聞いたら羨ましがるのだろう。
まあ、僕と萩野に限って、人が羨むようなことは何一つ起こりえないけれど。
そうとわかっていても意識はしてしまう。
「渡利くんは何飲む? 好きな飲み物とかある?」
「特にはないかな」
「紅茶でいい?」
「うん。ありがとう」
無益な妄想を振り払い、できるだけ悟られないように言葉を返す。
萩野はキッチンでお湯を沸かし、茶葉を入れたポットに注いだ。
僕の家と違って食器も多種多様に揃っている。
「なんだか豪勢だね」
「普段はポットなんて使わないけどね。せっかくのお客様だから、ちょっとそれっぽくしたかったの」
脚の長いテーブルに置かれたティーセットは、確かに喫茶店らしさがある。
色鮮やかなクッキーを添えると、いよいよ優雅なティータイムだ。
「ほら、座って。荷物は適当に置いていいから」
適当に、と言われたものの、古ぼけたリュックサックが視界に入るとせっかくの雰囲気が台無しなので、僕は足元に荷物を置いて椅子に浅く腰掛けた。
カフェで対面した時とはまた違う緊張感がある。
あの時のような疎外感ではないものの、人の家にお邪魔することが今までになかったため、初めて尽くしな感覚に襲われている。
なんだか落ち着かない。
「緊張してる?」
萩野にも伝わったようで、眉をひそめて首を傾げる。
「少しね。人の家に来るのは初めてだから勝手がわからないんだ」
「自分の家だと思って寛いでいいんだよ」
「そう言うのは簡単だけど、実際にそうするのは難しいものだよ」
「それもそっか。私も渡利くんの家に行くと緊張しちゃうし」
「それこそ気にしなくていいのに。タイムリープの度に来てるんだから」
「私にとっては毎回初めてだもん。私も渡利くんみたいに全部覚えてられたらいいのになぁ」
萩野は不満そうに口を尖らせる。
これまで幾度となくタイムリープをしてきたけれど、萩野が記憶を保っていたことは一度もない。その予兆もない。
いつかきっと。そう思ってもやはり未来のことを覚えているなんて非現実的なことはそうそう起こりえない。
それこそ、悪魔のような非現実的な存在の介入がなければ。
「私も記憶が残ってたら、渡利くんともっと仲良くなれるかもしれないのに」
「そんなことをしなくても、僕は今でも充分過ぎるほど仲が良くなったと思うけどね」
「えっ、そうかな」
萩野はぱちぱちと目を瞬かせる。
何を驚くことがあるのだろうか。
「そうだよ。僕は既に何十日も萩野としか会話してないからね。お互いのことも少しずつわかってきたし、友達と言ってもいいんじゃないかと思うけど」
「ま、まだ足りないの!」
萩野は顔を真っ赤にしてそう反論した。
友達と言うにはまだ早かったかな。
誰かと手を繋いだり、誰かの家に行くことなんて僕にとっては初めてのことばかりだ。
なんなら、傍から見ると友達以上の関係な気がしなくもない。
それでも足りないなんて、萩野は案外そういう定義に厳しいのかもしれない。
萩野の新たな一面に内心ほくそ笑んでいると、萩野はふうっと息を零して「羨ましいなぁ」と呟いた。
「羨ましい?」
「今までの私は渡利くんとたくさん楽しい思い出を残してて、日記を読む度に羨ましいなぁって思うんだ」
「今回も今まで以上の思い出を作ればいいんだよ。少なくとも、萩野の家に来るのは初めてだし。それだけでも僕にとっては一生忘れられない思い出だよ」
前回よりも今回を。今回よりも次回を。
より良いものに。より楽しいものに。
そうしていくことで、萩野の未練もきっと晴らせるように思う。
だから、今回は今までより萩野が楽しかったと胸を張れるような思い出を残してあげればいい。
幸い、萩野との時間を過ごしていくうちに萩野のことが少しずつわかってきた。
わかったつもりになっているだけかもしれないけれど、何も知らなかった最初の頃に比べると随分進歩したと思う。
会話を積み重ね、時間を共有し、相手のことを知っていく。
それがコミュニケーションの基本であり、僕が今まで拒んでいたことだ。
それでも萩野とのその時間に嫌悪感を抱かなくなったのは、一重に萩野の人柄のおかげだろうか。
「せっかく萩野の家に来たんだ。外ではできないことをしたいね」
「うーん。渡利くんの部屋ほどじゃないけど、私もあんまり物は持ち合わせないんだよね。娯楽とか全然無くて」
「萩野は手芸が趣味だって言ってたよね。萩野が作ったものを見てみたいな」
「えっ! それは、その……」
萩野はもじもじと煮え切らない態度を見せる。
「ダメかな? 萩野の気が進まないなら無理強いはしないよ」
「そ、そんなことはないんだけど……。その、人に見せるのは恥ずかしいなぁって」
「恥ずかしいものを作ってるの?」
「ち、違うから! まだ練習中なだけ!」
萩野がちらりと視線を逸らし、僕もそれにつられて萩野の視界の先に目を向ける。
リビングスペースの低いテーブルに置かれた編み物。
恐らく、僕が来るまで編んでいたものだろう。
僕はぬるくなった紅茶を飲み干して席を立った。
萩野の静止も聞かずに編み物をそっと手に取る。
暖色を基調とした長方形の編み物。
その先に転がる毛糸玉。
「もしかして、マフラー?」
「う、うん。まだ六月だけど、冬までには完成するかなって思って」
心臓が跳ねる。
その言葉に胸が苦しくなった。
萩野にその冬は来ない。
その事実が頭をよぎったからだ。
「えっと、渡利くんが来るって思うと落ち着かなくて、何かしながら待ってようと思ったの。それで、ずっと編んでたマフラーの続きを編もうかなって。万が一私が生きるようなことがあったらプレゼントしたいなって」
萩野は僕の心中を察してか、まくし立てるように言った。
萩野が気にしていないのに、僕がこうも気負ってしまっては萩野に余計な気を遣わせるだけだ。
僕の行いは決して許されることはないけれど、ここで空気を悪くしては本末転倒だ。
「プレゼントね。萩野にマフラーを貰う人はきっと大喜びだと思うよ」
萩野に話を合わせるように、萩野が傷つかないように、慎重に言葉を選んだ。
萩野は僕の隣に屈んで、僕の顔を覗き込む。
「渡利くんが貰ったら嬉しい?」
「嬉しいよ。萩野の贈り物なんて、一生の宝物になりそうだ」
そんな心にもないことを口にする。
起こり得ないもしも話なんて、想像するのは難しいんだ。
けれど、萩野は満足そうに微笑んだ。
「渡利くんが喜んでくれるなら、一生懸命作らないとね」
心臓がどきりと揺れる。
自意識過剰だとわかっていても、まるで僕にプレゼントするように聞こえてしまう。
あまり上手く感情を表現出来ない僕が喜ぶほどだから、誰が貰っても嬉しいはず。
きっとそういう意味で言っただけだ。
僕は自分の愚かさが恥ずかしくなって、編み物を元の場所に戻して再び椅子に座った。
その後も僕らはここに来る前に買ってきたパンで軽く昼食を挟みながら、ただただ会話に花を咲かせた。
なんの取りとめもない会話だ。
萩野が小学生の頃から手芸をしているとか、読書が好きで部屋には本が沢山あるとか、偶然にも僕らが同じ小説家が好きだったとか。
日記にすら残さないかもしれない。僕の記憶にも残らないかもしれない。そんな他愛のない話。
それでも、抱えていた緊張感は萩野と話しているうちに姿を消していた。
自分の家だと思って、とまではいかなくとも、心から笑って、自然な表情を見せられるようになっていた。
日が暮れた頃、玄関先から鍵が開く音が聞こえた。
いつの間にか長々と話し込んでいた僕らは、二人揃って時計を見て、また顔を見合わせる。
「帰って来ちゃったみたい」
「もうこんな時間だからね」
僕もそろそろお暇しよう。
萩野が家族と過ごす時間を奪うのは少し気が引ける。
そう思い立ち上がったと同時に、リビングの扉が開いた。
三十代前半くらいに見える顔立ちの整った背の高い男性と小柄でおっとりとした雰囲気の栗色の髪の女性。
見ただけで萩野の両親だとわかる。
特に、母親の方は萩野そっくりだった。
「おや。お客様かい?」
「あらあら。悠里ちゃんったら大胆ねぇ」
何やら妙な勘違いをしているであろう二人に対し、萩野は「違うからね!」と大慌てで事の経緯を話している。
話が纏まっていない萩野を見かねて、僕は間に割って入った。
「初めまして。はぎ……悠里さんのクラスメイトの渡利望です。勝手にお邪魔してすみません」
この二人も萩野さんだと気付き、慌てて言い直す。
萩野のことを下の名前で呼ぶのはなんだかもどかしい。
「あらあら。渡利くんも照れちゃってまあ」
「だから違うってば!」
邪推をやめない萩野母と顔を真っ赤にして否定する萩野。
そして、萩野母を咎めるように優しく小突く萩野父。
「やめなさい。あまり二人を困らせるんじゃないよ」
「はーい」
萩野に対してはからかう姿勢を崩さなかったのに、旦那さんに対してはやけに素直だ。
これも夫婦円満の秘訣だろうか。
萩野のお父さんは爽やかで優しい萩野そっくりの笑顔を向ける。
「悠里が人を家に招くのは初めてで、少し興奮しているんだ。悪気は無いんだよ。すまないね」
「あ、いえ。大丈夫です」
何が大丈夫なのだろうか。
萩野に初めて家に招かれた人物と聞き、鼓動は早くなっているというのに。
「余計なこと言わないでよ!」と頬を膨らませる萩野を宥めて、萩野のお父さんはにこにこと笑っている。
微笑ましい限りだ。
昔の記憶が蘇る。
僕が望んだ家族像がここにあった。
僕に見せるものとはまた違った笑顔の萩野を見ていると、嬉しくもあり、少し胸が締め付けられるようでもあった。
※※
悠一さんと真里さん。
萩野の両親の名前だ。
二人の名前を取って悠里と名付けられたのは想像にかたくない。
僕は、萩野の一家団欒の時間を奪わないように帰るつもりだったが、真里さんの計らいにより夕飯までお世話になることになった。
夕飯の支度をしている萩野と真里さんを横目に見ながら、僕は悠一さんと話していた。
内容は専ら萩野と僕の関係について。
真里さんを咎めはしたものの、悠一さんも僕という突如現れた謎の男に興味があるらしい。
悠一さんの立場になれば当然のことだとは思う。
愛娘が初めて家に連れてきた男が如何程の者なのか、父親としては放っては置けないのだろう。
それでも、踏み込んだ話をされることは無かった。
と言うより、僕らの関係に踏み込もうものなら、キッチンから「変なこと聞かないで!」と萩野の叱責が飛んでくるため、安易に踏み込めなかったのだろう。
僕らの関係についてはどうも説明するには難しいため、萩野の牽制には感謝する他ない。
「僕らは共犯者です」と紹介するのも可笑しな話だし、「悠里さんは数日後に死ぬので未練を晴らしてます」なんて両親の前では口が裂けても言えない。
代わりに僕は、両親のことと萩野の過去について聞いた。
料理が出来るまでの時間稼ぎと、萩野がどんな環境で育ったのか単純な興味。
得体の知れない僕に対して警戒するでもなく、悠一さんは質問に対して何でも答えた。
悠一さんと真里さんは夫婦で不動産屋を経営しており、この地域では割と有名らしい。
夫婦揃って帰宅したのもそのためだろう。
悠一さんは昔、建築家として活躍しており、萩野家の設計も本人が行ったと言う。
やはり萩野のセンスの良さは両親譲りらしい。
何より驚いたのは悠一さんが今年で四十二歳になるということだ。
若々しい見た目からは想像できない。僕の推測より一回りも上だった。
真里さんも今年で四十だと言うが、萩野の姉と名乗っても僕は信じただろう。
萩野も将来はあんな容姿になったのだろうか。
そんな想像を巡らせるが、すぐに消した。
萩野にその時は来ないのだから。
自分から切り出した話で落ち込みかけたところで夕飯が完成した。
タイミングが良かった。あのままではきっと悠一さんに余計な心配をかけるところだった。
「美味しいです」
大皿に盛られた唐揚げを食べ、素直に口から出た感想。
「お口に合ったみたいでよかったわぁ」
「真里の手料理は絶品だからね。私としても鼻が高いよ」
さらっと褒める悠一さんと素直に喜ぶ真里さん。
そして、少し不機嫌そうな萩野。
「どうしたの?」と声をかけると、萩野は口を尖らせる。
「なんでもない」
「真里の手料理が褒められて嫉妬しているんだよ」
「ちょっとお父さん! 言わないでよ!」
そんなことで母親に嫉妬してしまうのも、顔を赤らめて悠一さんを睨む姿もなんだか可笑しかった。
「いつもはパパって呼んでるのにねぇ」
「も、もうやめて!」
真里さんの追い討ちで、萩野は沸騰しそうなほど顔を真っ赤にして小さくなってしまった。
今まで知らなかった萩野の姿が赤裸々にされていくようで、少し同情してしまう。
あんなに声を上げる姿も、家でお父さんのことをパパと呼んでいる姿も、いつもの萩野からは全く想像できない。
そんな萩野の一面を知れただけでも収穫だったかもしれない。
どこで役に立つわけでもないけれど。
「僕は萩野がパパって呼んでいても気にしないよ」
「渡利くんまで……」
いつもの意地悪に対する小さな仕返しだ。
しかし、隣に座る悠一さんから「望くん」と呼ばれ、ぴくりと体が跳ねる。
萩野に対する仕返しがお気に召さなかったのだろうか。
「私たちも萩野だよ。今だけでいいから、名前で呼んではくれないかい?」
「そう……ですね」
言われてみれば。
いつもの癖で呼んでしまったが、ここでは個人を特定するために名前で呼ぶのが正しいと思う。
「悠里」
試しにそう口にしてみたけれど、やっぱりなんだかもどかしい。
萩野も耳まで真っ赤に染め、ぱくぱくと口を動かしている。
名前で呼ぶくらい大したことはないと思っていたけれど、慣れないせいか上手く言葉が出てこない。
微笑ましそうに目を細める悠一さんと真里さんから逃げるように、僕は唐揚げを口に放り込んだ。
出来たての唐揚げは思ったより熱くて、僕は噎せた。
「今日はもう遅いから泊まっていくといい」
悠一さんにそう言われ、上手い断り文句も思いつかなかった僕は、言われた通りに一晩お世話になることにした。
シャワーを済ませ、悠一さんたちに挨拶を済ませて宛てがわれた部屋で一息つく。
間取りが広い萩野家には年に数回親戚が集まるらしく、来客用に用意された寝室で寝ることになった。
普段は使われていないとのことだけれど、定期的に清掃されているらしく、部屋は清潔に保たれていた。
この部屋だけでも僕が住んでいるアパートの部屋よりは広い気がする。
ただ、寝室用に使われている部屋には物が少なく、僕としては落ち着ける部屋だった。
寝る準備をしていたところでコンコンと扉を叩く音が聞こえた。
ゆっくりと扉が開き、萩野が姿を見せる。
ピンク色のもこもことした可愛らしいパジャマ姿の萩野は、僕が荷物を纏めている姿を見て「もう寝る?」と首を傾げる。
「そろそろね。何かあった?」
「ちょっと眠れなくて。少しお話したい」
「いいよ」
僕は萩野に連れられ、テラスに出た。
テラスは萩野の部屋から繋がっていたため、部屋に入る時には少し緊張してしまった。
それに何だかいい匂いがした。萩野の匂いだと口にすると軽蔑されてしまいそうなので、本人には言わなかった。
テラスには二脚の椅子と小さなテーブルが並んでいた。
外は夜風が肌に当たり、少し冷える。
けれど、部屋の電気を消していることもあり、そこから見える夜空は星がきらきらと輝いていて幻想的だった。
僕らは二脚の椅子にそれぞれ腰をかけて、ぼうっと夜空を眺める。
「いい場所でしょ」
「そうだね。プラネタリウムみたいだ」
角度のついた背もたれは星を眺めるにはちょうどいい。
テラスが民家の少ない方向を向いているのも星が綺麗に見える理由のひとつだろう。
そこまで考えて設計していると思うと、悠一さんのセンスには改めて感心する。
「ここはね、私がお願いして作ってもらったの」
「そうなの?」
「星が見たいって言ったら、設計を少し変更して、私の部屋からいつでもここに出られるようにしてくれたの」
「愛されてるんだね」
「過保護すぎるところもあるけどね」
萩野は苦笑する。
僕に娘はいないけれど、唯一の愛娘にそんなお願いをされたら断れない気持ちはわかる気がする。
大切な人のお願いは叶えたくなるものだ。
恐らく僕が萩野に対してそうしているように。
「萩野は星が好きなの?」
「うん。大好き」
「どうして?」
萩野は空に手を伸ばす。
「渡利くんは知ってる? 私たちが見てる星の光はずっと遠い過去の光なんだよ」
「授業で習った気がする。遠い場所から地球に光が届くまでに時間がかかるから、僕らが認知するには何年も経過してるって」
「それって、すごく神秘的じゃない?」
「神秘的?」
萩野は伸ばした手をぎゅっと握る。
まるで星を掴もうとするように。
「あの光は何年もの時間をかけて私たちの目に届いてる。どれだけ遠い場所にあっても、私たちとあの星たちは繋がってるんだよ」
「詩的だね」
「ふふ、そうかも。星を見てると、どれだけ距離が離れていても繋がってるんだって思える。人と人。人と物。私と渡利くん。何だって同じなんだよ。遠い存在に見えても、その繋がりは切れないんだ」
「なるほど。そういう見方をしたことはなかったけど、確かにそうかもしれない」
現に僕と萩野だって赤の他人でしかなかったのに、今はこうして一緒に星を眺めている。
それはひとつのきっかけで始まった偶然かもしれない。あるいは、僕が悪魔と契約して萩野が死ぬことになり、僕が萩野を大切なものだと実感するまでの必然だったのかもしれない。
どちらにせよ、そこに小さな繋がりがあったからこそ、僕らはこうして隣で星について語らうような関係になっているのだろう。
「ずっと遠くにある星の光でも私たちの元に届いてる。だからきっと私の──」
そこから先は聞き取れなかった。
萩野の声が急に小さくなってしまったから。
けれど、もう一度その言葉を促すのも無粋な気がした。
「ごめん! 今のは忘れて!」
萩野は手を引っ込めて、恥じらうような笑顔で隠した。
きっと萩野は今の自分と星を重ねているのだろう。
いずれ萩野は遠くへ行ってしまう。
誰の手にも届かない場所へ。
それでも、萩野は誰かと繋がっていたいのだろう。
星の光が僕らの元へ届くように、萩野が死んでもその想いが大切な人の元へ届いてほしいと。
胸が苦しい。
その原因が僕にあることを萩野は決して咎めようとしない。
その優しさが僕を苦しめる。
いっそ、お前のせいだと言われた方が気が楽なのに。
けれど萩野はそうしない。
むしろ、僕に何かを残そうとしてくれる。
僕なんかを大切にしようとしてくれる。
だから、せめて僕がその光にならなければ。
萩野が悲しまないように。いつまでも誰かと繋がっていられるように。
それが僕にできるせめてもの償いだ。
「悠里の想いは必ず届くよ。どこへ行こうと、必ず誰かと繋がっているよ。僕がその架け橋になるから」
萩野と目が合う。
月明かりに照らされた萩野の目が潤んでいる。
「ありがとう。望くん」
萩野はその目を細め、そう言った。
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