ろく

 翌日。三日目。

 このループの最終日。


 その日、僕は夢を見た。


 遠い昔の過去の夢。


 男女の怒号と物の割れる音。


 薄暗い部屋の中でそれを聞いている僕。


 今はもう手に入らない、過ぎ去った夢。


 怖くはない。悲しくはない。


 けれど、少しだけ寂しい。


 そんな夢を見たんだ。



※※



 昨日同様早起きをした僕らは、始発の電車に乗った。

 行先はもちろん、僕の生まれた故郷。

 遊園地に比べると短い道のりだったけれど、体感ではそれ以上に長く感じた。


 萩野はどうしてこの場所を選んだのだろう。


 以前、僕の家族構成について話した時、萩野は少し複雑そうな顔をしていた。

 多分、聞いてはいけないと思ったんだろう。

 別に話しても困ることではなかったし、もう過去のことだと割り切っていた。

 けれど、この場所に戻って来るとどうしても昔の記憶が蘇ってしまう。


 昔の楽しかった記憶が。




 二度の乗り換えを経て、ようやくその地に降り立つと、僕の淀んだ気持ちとは裏腹にやけに空気が澄んでいるように感じた。

 都会から田舎に来ると、そんな気がしてしまう。

 萩野もそう感じたのだろう。大きく息を吸い込んで、気持ち良さそうに目を細める。


「良い場所だね」

「何も無いけどね」


 よくある田舎の無人駅。

 目の前に広がるのどかな風景。

 ロケーションとしては悪くない。


 それでも僕の気は晴れない。


「渡利くんはどの学校に通ってたの?」

「ここから十分くらい歩いたところ」

「行ってみたい。ダメかな?」

「いいよ」


 行ったところで何があるわけでもない。

 僕の過去なんて掘り起こして何が楽しいのだろう。

 萩野は一体何を考えているのだろう。

 人の気持ちを汲み取ることが苦手な僕に、その答えは見つけられそうにない。


 萩野はごく自然に僕の手を握った。

 僕もそれが当然であるように、その手を握り返していた。


 僕らは並んで田舎道を歩いた。


「渡利くんって小学校はこっちだったんだよね」

「そうだよ。卒業と同時に上京したからね」

「理由は……やっぱり両親の関係?」


 萩野に家族構成を聞かれた時、少しだけ話した。

 僕の両親は離婚し、母親が家を出て行く時に僕もついて行った。

 やっぱり、というのは、恐らく日記にそう書いてあったからだろう。


「そうだよ。お父さんは少し暴力的で、お母さんはそれに耐えられなかったみたい」

「そう……なんだ。お父さんは今どうしてるの?」

「さあね。連絡先なんて知らないし、離れて以来一度も会ってないからわからない」

「渡利くんは一人のままでいいの?」


 僕のお母さんが死んだことについてもその時に話していた。

 二年前。病気に罹ったかと思えば、あっという間。

 母親について尋ねて来ないということは、そんなことまで日記に記していたのだろう。

 僕に気を遣ってか、はたまた暗黙の了解というものか。


 でも、萩野が気にする必要なんてない。

 僕はこれまで、寂しいと思ったことは無いのだから。


「うん。不便でもないから」

「そうなんだ」


 萩野はどこか寂しげに目を伏せる。

 どうして萩野が悲しそうな顔をするのだろう。

 その理由はわからないけれど、萩野の悲しげな顔を見ていたくなくて、僕は話を逸らす。


「萩野の両親は仲が良いの?」

「うん。私が居てもお構い無しで仲良くて、おしどり夫婦って感じかな」

「いいね。それが一番だよ」


 好きになったから付き合う。もっと好きになったから結婚する。

 それならば、その関係がずっと続くに越したことはないと思う。

 僕の両親が少し異質なだけだろう。


「私もあんな夫婦生活に憧れるんだ」

「そっか。そうだよね」


 萩野はそんな幸せを見て育ってきた。

 だとすれば、同じ幸せを彼女自身も求めていたはずだ。

 でも、萩野の未来は僕が奪ってしまった。


 その事実が僕の心を蝕む。


「あ、えっと……今のは言葉のあやと言いますか」


 そんな気持ちが伝わってしまったのか、萩野はパタパタと手を振る。


「私は今の時間だけで充分幸せだよ!」

「そうなの?」

「うん! 渡利くんが一緒に居てくれるだけで充分だよ」


 そう言った萩野の笑顔が眩しい。

 僕の心が焼けてしまいそうだ。

 この手を繋いでいるのが僕ではなく、萩野の好きな人なら。

 萩野に未来があったなら。


 萩野が今抱いている幸せは、妥協の末のものだ。

 その事実が僕の心を締め付ける。


 良くないな。

 僕が落ち込んでいると、萩野は心配してしまう。

 自分のことだけを考えておけばいいのに、余計なことに気を遣わせることになる。


 そんなの良くないとわかっていても、この場所に来ると、昔を思い出すと、どうしても気が落ち込んでしまう。


 昔のことだと割り切ったはずなのに。


「あ! あの学校?」

「そうだよ」


 僕を包み込む不安や負い目を振り払い、できる限り平静を装う。


 だだっ広い田舎道に不自然にそびえ立つ小さな学校。

 この地域唯一の小学校であり、僕の母校。

 その風貌は昔と何も変わらなかった。


 近くまで来るとよくわかる。

 色褪せていて古びた校舎。サッカーコートより小さいグラウンド。数匹のうさぎを飼育している小屋。

 そのどれもが僕の記憶と一致する。


「みんなここに通ってたの?」

「そうだね。小学校はみんなここだよ。中学からは別々になるけど」

「渡利くんの知ってる先生もいるかな」

「どうだろう。もう五年も前の話だからね」

「中に入れるかな?」

「OBだって言えば入れるかも」


 萩野の要望で校舎に入ってみることになった。


 係員に名前を告げると、しばらくして男性が現れた。

 この学校の教員らしいけれど、僕には見覚えのない人だった。

 許可証を首に提げて、その人の案内の元、校舎を見て回る許可が得られた。


「小学校ってこんなに狭かったんだ」

「ここが特別小さいのもあるけれど、五年も経てば僕らも大きくなるからね」

「成長したんだって実感があるね」

「そうだね」


 一通り見て回ってもめぼしいものは特に無かった。

 特に思い出なんて無いのだから当然だ。


「渡利? お前、渡利か」


 突如、男性の低い声に呼び止められた。


 その声の方を振り向くと、今度は見覚えのある男性が立っていた。

 顎髭を蓄えた短い髪の男性教員。

 確か名前は……。


「覚えてるか? 村山だ。六年生の時担任だった」

「お久しぶりです。村山先生」


 そうだ。確かそんな名前だった。

 新任でこの学校の教員になり、二年目で僕のクラスの担任になった人。

 こんな田舎の学校で可哀想だと思った覚えがある。


「少し老けましたか?」

「五年経てばお兄さんもおじさんになるんだよ。渡利も成長したな。こんな可愛い彼女を連れてくるなんて」

「ただのクラスメイトですよ」


 とは言ったけれど、手を繋いでいては真実であってもあまり説得力も無い。

 村山先生も照れ隠しだと思ったのだろう。がははと笑い、僕の背中を叩く。


 少し懐かしい。

 内気だった僕にもよく話しかけてくれて、親切にしてくれた数少ない人。

 ただ、若さゆえか、良くも悪くも元気でいつも一人突っ走っていた。

 見た目は変わっても中身は何も変わらない。

 僕もきっとそうだ。


 萩野も軽く挨拶をして、僕らは少し雑談をした。


 取り留めのない内容だ。

 僕の学校生活とか、上京してからの暮らしとか。

 あとは専ら萩野との関係について。



「今日はお父さんの墓参りか?」


 そんな話の中で、村山先生は突如そんなことを言う。


「墓参り?」

「違うのか?」

「お父さん、死んだんですか?」


 村山先生はハッとした表情を浮かべ、眉根を寄せる。

 言ってはいけないことを言ってしまった。そんな表情。

 それでも村山先生は、ゆっくりと言葉を並べた。


「ああ。二年前の今日。事故でな」


 知らなかった。

 お母さんだけでなく、お父さんももうこの世には居なかったのだ。

 二年前。母親が死んだ年だ。

 まさかあの時から既に天涯孤独だったとは知らなかった。

 だったら僕は、何のためにこの力を手に入れたのだろう。


 少しだけ寂しさを覚えた。

 だけど、僕以上に悲しんでいたのは萩野だ。

 口元を手で覆い、その目には涙を浮かべている。


 どうして萩野が悲しむのだろう。

 僕は別に悲しくなんてないのに。


「知らなかったならちょうどいい。せっかくだ。お父さんに会ってきてやれ。きっと喜んでくれるさ」


 死んだ人に会ったところで喜ぶのだろうか。

 そんな疑問を呈するよりも先に、村山先生はお墓の場所を教えてくれた。

 隣で話を聞いていた萩野も村山先生に強く同意したため、僕らは学校を後にして、急遽お父さんの墓参りに行くことにした。



※※



 お墓は学校からそう遠くない場所にあった。

 小さな墓地の一角に渡利家と書かれた墓石がひとつ。

 地元の人が墓参りに来てくれたようで、線香が添えられ、お墓も綺麗だった。


 手を合わせ、二年越しに冥福を祈る。

 萩野も隣で同じように手を合わせる。



「お父さん、どんな人だったの?」


 墓石を見ながら萩野が問う。

 どんな人、と言われても詳しいことはよく覚えていない。

 それでも僕は、記憶を必死にかき集めた。


「優しい人だったと思うよ。離婚する前は喧嘩ばかりしてたけど、それまでは仲が良かったんだ。お父さんもお母さんも優しくて、よく笑う人だった」

「そっか」


 萩野は眉を顰めて笑った。

 僕も萩野に続いて、抱いていた疑問を投げかけることにした。


「萩野はどうしてこの町に来たかったの?」


 萩野は少し場が悪そうに縮こまった。

 そして、きゅっと噤んだ口をゆっくりと開いた。


「……私は、渡利くんがお父さんと幸せに暮らせたらなぁって思ったんだ」


 萩野はそう言って、どこか悲しげに目を細める。


「僕が?」

「うん。渡利くんが一人にならないように、渡利くんが家族と幸せになれるようにって思って」

「気にしなくていいのに」


 優しい萩野は、僕の未来のことまで未練として残してしまうのだろう。

 でも、僕のことなんて萩野が考えることじゃない。

 萩野の未来を奪ってしまった僕のことなんて。


 僕の心情なんて知らない萩野は、項垂れるように深々と頭を下げた。


「ごめんね、渡利くん。こんなことになるなんて思ってなくて」

「仕方ないよ。まさかお父さんも死んでいたなんて僕も思っていなかったから」

「でも」

「萩野は気にしすぎだよ。僕は大丈夫。萩野が思っているよりもずっと平気だ」


 萩野の目元に溜まった水溜まりを空いた手で拭う。

 萩野が辛そうな顔をしている方が、僕にとってはずっと悲しい。

 そういう意味では、ここには来ない方が良かったのかもしれない。


「そろそろ帰ろうか」

「待って」


 萩野の手を引こうとすると、萩野がそれを呼び止めた。


「最後に、渡利くんが住んでたお家に行きたい」

「どうして?」

「渡利くんの楽しかった思い出を見つけるために」


 僕が住んでた家。

 そこにはあまり行きたくなかった。

 思い出してしまうから。

 もう手に入らない過去を。過ぎ去ってしまった思い出を。


「嫌だ」


 僕は初めて萩野に反発した。

 萩野の気持ちを考えるよりも先に、僕の感情が出てしまった。

 萩野もまさか僕が断るとは思わなかったようで、目を丸くする。

 萩野の未練を晴らすという契約を初めて破ったんだ。


 それでも萩野は「わかった」とだけ言って笑った。

 それが萩野の未練になるはずなのに。

 萩野は僕のわがままを受け入れたんだ。




 帰りの電車までは時間があった。

 元々電車なんて二時間に一本のペースでしか来ないのに、タイミング悪く前の電車が行ってしまった直後だったから。


 寂れた椅子に座って電車を待つ。


 その沈黙の中、萩野が口を開いた。


「ひとつ聞いてもいい?」

「いいよ」

「渡利くんの答えにくい質問かもしれないけど、いい?」

「できる限り答えるよ」


 わざわざそんな前置きをするのは、先程反発したことが尾を引いているからだろう。

 僕も答えると自信を持っては言えなかった。


 萩野は一呼吸置いて、質問を口にする。


「渡利くんはどうして悪魔と契約したの?」


 悪魔との契約。

 時間を戻す力を手に入れる代わりに、大切なものを一つ失うという契約。

 萩野の死を決定づけてしまった契約だ。


 僕は、時間を戻す力が欲しかった。

 欲求なんて特に持ち合わせていない僕が、唯一欲しかったものだったんだ。

 その理由もこの地にあった。


「僕は、仲が良かった頃のお父さんとお母さんに会いたかったんだ」

「喧嘩する前ってこと?」

「うん。お父さんもお母さんも僕のことを大事にしてくれた。いつも笑顔を向けてくれた。そんな二人にもう一度会いたかった」

「でも、戻れるのは契約の三日前までって」

「うん。僕はそんな縛りも聞かずに契約してしまったんだ。そんなことのために、萩野を犠牲にして」


 今思えばくだらない理由だ。

 会って喧嘩しないでと言ったところで、何が変わるわけでもない。

 あの頃には戻れないと知ってからも、この力を使って何か一つでもあの頃の思い出を掬おうと思っていた。

 だけど、出来なかった。たったの三日間で何が出来るはずもない。

 だから諦めた。楽しかった思い出も取り戻したい過去も全て記憶の奥底に閉じ込めた。


 そんなことのために死ぬことになった萩野にとっては、怒りが湧いても仕方ないと思う。

 けれど、萩野は怒らなかった。

 それどころか、真っ赤になった目元を潤ませて、萩野は立ち上がった。


「行こう、渡利くん」

「どこに?」

「渡利くんが住んでたお家に!」


 その目は涙を浮かべながらも固い決意を抱いていた。


「僕は嫌だよ。行ったら思い出してしまうから」

「だから行くの。忘れないために。悪魔との契約で取り戻せなかった、楽しかった思い出を取り戻すために」


 萩野は微笑み、有無を言わさず強引に手を引いた。




 半ば強制的に家の場所を聞き出され、ひたすら歩く。

 いつもは僕が歩幅を縮めて萩野に合わせているのに、今日は違う。

 前を歩く萩野と手を引かれる僕。

 萩野の身長は僕より小さいのに、その背中はなんだか大きく見えた。



 二十分ほど歩いて、ようやく目的地に着いた。


 僕の記憶と変わらないままの一軒家。『渡利』と書かれた表札はそのまま残されている。

 木造の少し古びたその家は、やはり僕の記憶を呼び起こしてしまう。


「ここが渡利くんのお家?」

「うん」


 大きいねー、と家を見上げる萩野。


「渡利くんはどんな子供だったの?」

「今と変わらないよ。ぶっきらぼうであまり話さないせいで、友達も居なかった」

「じゃあ今とは違うね」

「違う?」


 萩野は僕に向き合い、両手を取る。


「今の渡利くんは泣いたり笑ったりするし、私とたくさん話してくれるもん。それに、今の渡利くんには私が居るから」

「そう……なのかな」

「うん! 渡利くんも成長したんだね」


 萩野の優しい笑顔に当てられると、僕の体は萎んでしまう。思考はぐちゃぐちゃになってしまう。

 それなのに、心はどうしてか穏やかになるんだ。


 どうしてだろう。

 萩野の笑顔は魅力に溢れていて、その明るい態度は僕の心に何かを訴えかけてくる。


 萩野がそんなことを言うせいで、優しい笑顔を向けるせいで、僕はいつの間にか昔話をしていた。


「僕は、昔のお父さんとお母さんが好きだったんだ。優しくて、いつも笑っていて、僕の手を引いてくれる。今の萩野みたいに」

「幸せだった?」

「うん。幸せだった。だから、あの時の二人をまた見たくて、僕は悪魔と契約したんだ。萩野が犠牲になるとも知らずに。結局会えないとも知らずに」

「渡利くんは優しかったご両親のことを忘れたいの?」

「わからない。でも、思い出すと胸が苦しくなるんだ。だから、きっと忘れたいんだと思う」

「ダメ」


 萩野の手に力が篭もる。

 萩野は泣いていた。

 目元から零れた涙が頬を伝う。


「ダメだよ。渡利くんのその気持ちは、大切に想う気持ちだよ。幸せを望む気持ちだよ。だから、忘れちゃダメ。渡利くんにとって幸せな時間だった証だから」

「手に入らない幸せを望むと、こんなに苦しいの?」

「うん。苦しいし悲しいし寂しいんだよ。でも、それで忘れちゃうのは、もっと苦しくて辛いよ」


 僕が萩野と一緒に居る時に抱く気持ちも同じだろうか。


 胸が締め付けられて、苦しくて、手放したくなくて、でも、手に入らない幸せだから求めたくない。

 またひとりぼっちになってしまうのは嫌だ。

 けれど、手に入らないのなら、そんなもの──。



「今の渡利くんには私が居るよ」



 僕の心を詠むように、萩野は優しい声でそんなことを言う。

 萩野は両手を離し、そのまま僕の背中に手を回す。


「渡利くんが昔のことを思い出すのが苦しいなら、落ち着くまで私が一緒に居るよ」


 優しい温もりが全身を通して伝わってくる。


「渡利くんが一人になるのが寂しいなら、私はずっと傍に居るよ」


 僕を抱きしめる腕に力が篭もる。


「だから、渡利くんも昔のことを忘れちゃダメ。一番楽しかった思い出を忘れるなんて、とても悲しいことだから」


 萩野の表情は見えない。

 けれど、震える声が、力強く僕を抱きしめるその体温が、僕の心を強く震わせる。


 萩野は知っている。

 忘れることがどれほど辛いことなのか。

 僕も知っていた。

 心を蝕むこの感情を。


 記憶の中の両親も目の前の萩野も同じだ。

 大切なものだから、失いたくない。

 僕は、それをもう一度失うのが怖かったんだ。

 手を離せば離れてしまいそうで、目を背けば消えてしまいそうな、脆く儚い存在。


 ああ、ようやくわかった。

 僕にとって萩野が大切なものだと判断された理由。

 お父さんもお母さんも萩野もそうだ。

 僕に優しくしてくれて、笑顔を向けてくれて、僕のことを見ていてくれる。

 そんな存在だから、大切なものなんだ。


 僕は、萩野の背中に手を回した。

 ぴくりと萩野の体が反応する。

 小さくて、細くて、弱々しい。

 それでいて、寛容で、温かくて、力強い。


「萩野はどうして、僕に優しくしてくれるの?」


 ずっと抱いていた疑問。

 それに対して、萩野は少し恥じらいを見せながら答える。


「渡利くんが私に優しくしてくれたから」

「僕が?」


 僕にそんな覚えはない。

 体を離して、萩野と向き合う。

 萩野は顔を熟れたリンゴのように赤らめ、補足するように話を続ける。


「渡利くんが一度だけ話しかけてくれたこと、渡利くんは覚えてないんだよね?」

「……うん」

「修学旅行の時だったんだ。私、観光中に足を挫いちゃって。みんなは話に夢中で気付いてくれなかったんだけど、渡利くんだけは私に声をかけてくれた。大丈夫? って聞いてくれて、そのまま先生のところまで連れて行ってくれたんだよ」


 そういえば、そんなこともあった気がする。


 あの頃は──今もだけれど、僕は周りの人に無関心だったせいで、あの女の子が萩野だったんて知らなかった。

 なにせあの女の子は、それなりに可愛くとも、今の萩野のように垢抜けてはいなかった。

 それに、性格も今より少し暗くて、良くも悪くも普通の女の子だったから。


「あれは偶然だよ。僕が班に馴染めずに後ろを歩いていたから、偶然見つけただけ」

「ふふ、知ってる。でも、渡利くんは私に優しくしてくれた。私を放っておかなかった。だから、私はあの優しさに救われたのは事実だよ」

「たったそれだけで?」

「それだけ、じゃないよ」


 萩野はどこか懐かしむように目を細める。


「その日から、私は変わった。渡利くんにまた話しかけられたくて。優しい渡利くんと釣り合えるような人になりたくて。人に優しくするようにしたし、お洒落に気を遣うようにしたし、同じ学校に行くためにたくさん勉強したし、話しかけられた時のために人と話す練習もしたの」


 そして、今の萩野が出来上がった、と。

 可笑しな巡り合わせもあったものだ。

 僕が萩野のことを知るきっかけ、萩野が美少女として有名になるきっかけが僕にあったなんて。

 そう思うとなんだかむず痒い。


「僕と釣り合うどころか、僕にとって、他の男子にとっても今や高嶺の花だけどね」

「そんなことないよ。みんな……ううん。渡利くん自身も、渡利くんの素敵なところに気付いてないだけ」

「そうかな? 買い被り過ぎだよ」

「渡利くんは卑屈すぎるよ。渡利くんは素敵な人だよ。今もこうして、私の未練を晴らそうとしてくれてる。私なんて見捨ててしまえばいいのに、渡利くんはそうしなかった」


 それは少し違う気がする。

 僕が萩野の未練を晴らそうとするのは、萩野の未来を奪ったのが僕だから。

 せめてもの償い。自己満足でしかない。


 いや、萩野もきっとわかっている。

 わかった上で、そんなことを言っているんだ。


「私は、渡利くんの大切なものになれて嬉しいんだよ」


 理解していて、僕が傷つかなくて済むように、そんな優しい言葉をかけるんだ。


 やっぱり萩野はどこまでも優しい。

 目が眩んでしまいそうなほど、明るい笑顔を向ける。

 僕のことを大切に想ってくれる。


「萩野、ありがとう」


 そう告げると、萩野は僕の胸元に顔を擦り付けた。


 萩野の未練を晴らすつもりが、萩野に助けられたのは僕の方だった。


 ダメだとわかっている。

 萩野が大切だと自覚してしまうと、萩野は死んでしまう。

 それでも、一度気付いてしまえば、そうだと脳内で肯定してしまう。


 僕は、萩野が大切だ。


 僕のことを大切に想ってくれる萩野が大切なんだ。

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