第39話 心臓に悪いったらない

 

 午後九時を過ぎたころ。


「理央君、今日は無理言って悪かったね。予約のお客様が多かったから、助かったよ」

 

 一段落したところで、マスターが労いの言葉をかけてくれる。


「いいえ、用もなかったし大丈夫ですよ」


 マスターの言葉通り、目の回る忙しさだったっけど、役に立てたようで何よりだ。


「今日の賄い、何がいい? リクエスト聞くよ」


 来てくれた礼だよと、マスターとにこやかに会話をしているときだった。


 来店を知らせる、カウベルが鳴る。


「いらっしゃ──」

 ドアの前に立つ新城さんの姿に、振り向いたオレは硬直する。


「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」

 オレが疲れていると思ったのか、オーナーが対応してくれる。


 もう、来ないと思ってたのに……


 一時は頻繁に来ていた新城さんだったけど、鷹峰さんと再会した日を境に姿を見せなくなっていたからだ。


 オレは隠れるように、カウンター内からそっと様子を伺う。


 普通──だな。ストーカー、新城さんじゃなかったのかな? だとしたら、疑って悪かったかも。


 彼はマスターと穏やかに会話を交わしていた。以前感じた薄気味悪さはない。


 でも……ラストオーダー間近に来たってところが引っかかるんだよな。


 今までこんな時間に、新城さんが来たことはない。

 

 やっぱり、鷹峰さんにメールしておこう。用心に越したことはないし。


 ちょっとトイレにと言い置き、オレは奥に引っ込む。そして素早くリュックからスマホを取り出し打ち込んだ。


『急にバイトを頼まれて引き受けました。今、新城さんが来ています。特に嫌な感じはしませんでしたが、一応お知らせしておきます』

 文面を読み返し送信する。


 ふー、鷹峰さんに知らせるだけで、なんだかほっとするな。


 心に余裕が出て来たオレは、フロアに戻り新城さんの給仕に回った。


「理央君、久しぶり。最近なんだか急に仕事が忙しくなってね。なかなか会いに来られなくてごめんよ」


 会いに来られなくてって……怖い怖い怖い! 意味深すぎなんだけど。やっぱり怪しくないか⁉


「え──と、お疲れ……様です。お仕事大変なんですね。ごゆっくりお召し上がりください」


 顔が強張り、動きが鈍い唇から必死に言葉を発する。

 微かに震える手で、なんとかテーブルに料理を並べ、オレは厨房に逃げ込んだ。


 頼むから、早く食べて帰ってくれよ。


 新城さんが店内にいる間、オレは緊張を強いられた──というのに……


「またね、理央君」


 食事を終えると、新城さんは意外とあっさり帰っていった。拍子抜けだ。心臓に悪いったらない。


 よし! 新城さんは店を出て左に曲がったぞ。オレのアパートは、右方向だから大丈夫、大丈夫……


 自分自身を安心させようと、何度も頷く。


 バイト上がったら、自転車飛ばして早く帰ろう!


 オレは手早く閉店作業に取りかかった。


 ★★★


「お疲れ様でした。お先に失礼します」

「お疲れ、気をつけて帰ってね」

「はい」


 今日は忙しかったこともあり、いつもより後片付けに時間がかかってしまった。お陰で店を出られたのは、午後十時半を過ぎたころ。


「さて、帰るか」

 自転車の鍵を外し跨がるオレが、ペダルを踏み込んだとき──


「あれ? ペダルが軽い……し進まない?」

 自転車を降りてかがみ込むと、チェーンが外れていた。


「えー、なんだよ。ついてないなぁ」

 ぼやきながらも、チェーンをはめようと奮闘するがダメだった。


「はぁー。押して帰るしかないよな」

 あぁあ、手が汚れちゃったよ。


 店で洗わせてもらおうかな。でも、もう電気が消えてるし、諦めるしかないか。

 あ、そういえば、帰り道に公園があったかも。そこで洗えばいいんだ。


 オレはハンドルが汚れないよう気をつけながら、手首を使って自転車を押す。


「意外と店から近かったな」


 二百メートルほど歩くと、左手に公園が見えてくる。滑り台とブランコがあるだけの、小さな公園だ。

 オレは公園の入り口に自転車を止め、手洗い場を探す。


「おっ、あった──。うぅ……夜の公園ってなんか怖いよな」

 外灯はあるものの、シンと静かだ。


「わかる、わかる。人魂とか飛んでそう」

「それを言うなら、お寺の墓地だろっ」


 怖さを紛らわせようと、オレは独り漫談をしてしまう。


「うわっ、冷たい!」

 チェーンの油で汚れた手は、冷たい水ではなかなか綺麗にならない。


「まあいいか」

 ほどほどにして、リュックからハンドタオルを出そうとしたそのとき──


「これ、使って」

「ひぃ──」  


 突然肩に手を置かれ、全身に戦慄が走る。その弾みに、リュックが足元に落ちた。  

 心臓はばくばくと胸を押し上げているように感じるほど、脈打っている。


 オレは恐る恐る、壊れたブリキのロボットのように、小刻みに首を背後に回す。

 

 ──と、


「し、新城さん──。どう……して」


 そこにはハンカチを差し出す新城さんが、口角を上げ異様な笑みを浮かべて立っていた。




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