第3話 まだ怒っているだろうか……

「作業の進行具合はどうだ?」


 新店舗オープンに向け、私は店長の小山こやまさんに尋ねた。

 彼は四十代半ばで、書店立て直しのために抜擢ばってきした、企画力のある優秀な人材だ。


「お帰りなさい、鷹峰たかみね常務。順調ですよ。書籍も八割方、棚に収まっています。常務のほうは、周辺の視察、どうでしたか?」


 出店に向け、ある程度は市場調査済みではあった。それでも、町の日常を自分の足で歩いて感じたかった私は、一時間ほど周辺を歩いてみた。


「学生の通学路に面しているのはいい。参考書などの品揃えを充実させた甲斐があるな」


 近くに幼稚園などもある。絵本の読み聞かせなどのイベントで、集客を高めていく予定だ。


「それから、すぐ近くに古本屋があるが……」


 競合店になるだろうかと寄ってみたのだが、まさかあんな言葉を浴びせられるとは思わなかった。

 何が彼女を、あそこまで怒らさせたのだろう。


 最低、と言われるほどのことを、したつもりはないんだが。


 ただ落とした本を拾っただけ。 

 正直、まったく分からない……


 勤勉である私にとって、分からないことをそのままにしておくことは、堪えられなかった。


「君の意見を聞かせてほしいんだが──」


 私は古本屋での出来事を、彼に話して聞かせる。


「常務……それはまずいですよ」


 話を聞いた小山さんは、眉尻を下げ呆れ顔だ。


「何がいけなかったのだろうか?」 

って言ったことですよ」


 彼曰かれいわく、男同士の恋愛を描くBL小説は、同じBL小説好き同士ならともかく、大っぴらに他人には知られたくない人が大半だという。しかも、男性相手ならなおさらで、見て見ぬ振りをしてあげるべきだと諭された。


「常務もエッチな雑誌を手にしているところを、女性に見られたくないでしょう?」


 にやけ顔で言われるが、私にはピンとこなかった。

 見たこともなければ、見たいと思ったこともないからだ。そんな私に、小山さんは男心について懇切丁寧に語ってくれた。


 この人、こんなエッチなもの見るなんて──と思われたら。蔑むような目を向けられたら……


 卑猥なものほど、周囲の反応に敏感になるものだという。もちろん、気にしない人もいるだろうが。


「なるほど。書店とは、奥が深いんだな」


 セルフレジの話が出たのは、そういう客のためでもあったのかと合点がいく。


 まだまだ自分は、書店に対して勉強不足だったと痛感する。


 とはいえ、そもそも私は鷹峰グループ入社以来、ずっとホテル部門を任されていた。業績悪化を立て直し、今や予約を取るのも困難と言われるほどの人気ホテルにまで押し上げた経営手腕は、あの若さでと賞賛されている。


 そんな私が、書店部門を任されることになった経緯。


 それは半年前のことだった──


 父である鷹峰グループ社長から「社の一大事だ、相談したいことがある。すぐに帰国してくれ」と、海外へ長期出張していた私に連絡が来たのだ。


 もちろん私は急遽帰国し、すぐに社長室に赴いた。余程よほどのことがあったに違いないと。


 ──ところが。


 神妙な面持ちの私とは対照的に、父はにこやかにソファーに座るよう促してきた。


「相談とは、なんでしょうか。いったい何があったんです?」

 

 私は今後の鷹峰グループを、背負って立つ身だ。社の一大事とあらば、なんでもする覚悟で問うたというのに……


恭一郎きょういちろう、お前も来年で三十歳だ。そろそろ結婚を考えてはどうだ?」


 身構える私に返された言葉は、理解の範疇はんちゅうを越える想定外のものだった。


「は……? まさか、そんなくだらない理由で私を呼び戻したんですか?」


 あり得ない。倒産の危機かと気が気ではなかったというのに。


「何がくだらないだ! お前は、鷹峰グループの跡取りなんだぞ!」


 それを口火に、「恋人はいないのか」だの「お見合いしろ」だの長々と言い募る父にうんざりした私は、すっとソファーから立ち上がった。


「時間の浪費は止めましょう。話がそれだけなら帰らせていただきます」


 冷めたトーンで言い捨て、父を見据える。そんな私に観念したのか、

「まあ……座ってくれ」と呟いた父は、「鷹峰書店を立て直してほしい」、そう本題を口にしたのだった。


 あの日から、経営を立て直すために奮闘ふんとうしている。今回の新店舗は、既存の古い数店舗を閉店させ、新たな試みをするためのものだった。


 そうでもしなければ、赤字続きでいずれ全店舗閉店せざるを得なくなる、そう判断してのことだ。


 私としては書店経営撤退も、一つの決断だと意見を述べた。しかし父には、書店に対して並々ならぬ思い入れがあるという。


 そもそも、今の鷹峰グループがあるのは、一冊の本との出会いからだったと懐かしそうに父は語った。


『偶然手に取った、たった一冊の本が、その人の人生を大きく左右することもある』


 そう熱き思いを打ち明けられたが、要は潰したくないと泣きつかれたようなものだ。

 気持ちは分からなくもないが、私にとってもホテル経営は心血を注いできた仕事だ。海外へも新たなホテル建設地を決めるために赴いていたのだから。


 途中で投げ出したくない。やり遂げさせてほしいと訴える私に、父はこう言った。


『引き受けてくれるなら、今後、結婚に関して一切の口出しはしない』

 と。


 その交換条件は、私にとって至極魅力的だった。


 もともと私は、恋愛に対してまったく興味がない。女性に惹かれたこともなければ、好意を寄せられたいと思ったこともない。結婚すら、する必要性を感じていないほどだ。


 近親者から言わせると、稀な思考の持ち主であるらしいが、私は結婚相手以外の女性と交際する意味が見出せないし、時間の無駄だと思ってしまう。

 そんな時間があるなら、知識や教養を身に付けることのほうが、私には有意義に思えた。学んだことは、仕事に生かされているし、これからも学ぶことを絶やすつもりはない。


 そんな私にとって、正に最適な交換条件だったわけだが、父にしてやられた感は否めない。癪ではあったが、後から撤回しないことを念押しして、引き受けることを了承した。


 引き受けたからにはやり遂げる。


 根っからのガリ勉気質の私にとって、学ぶことは苦ではなく喜び。新たな知識を得ることに好奇心を掻き立てられる。


 魅力のある書店にするために必要なことを、もっと模索しなければ。


「小山さん、もう一度、ジャンル別の売り上げパーセンテージ見込みについて検討しよう」


 それから、専門用語というのか、流行の本で使用されている単語などを知りたいと告げる。

 

 そう、腐女子という言葉も、実は知ったばかりだった。


 ふと怒らせてしまった女性の顔が浮かんでくる。


 彼女は来てくれるだろうか、鷹峰書店に。


 今後、あの女性に会う機会が訪れるなら……今日のことを謝りたい。とても傷つけてしまった。あのとき、熱心に本を選んでいる女性がいるのを見て、どんな本かと近づいてみたのだ。書店にとっての、なんらかの参考になるかと。


 まさか、裸の男同士が抱き合っている表紙の本を持っているとは、思いもよらず固まってしまったが。


 まだ怒っているだろうか──


 私はあの女性が書店に来てくれることを願った。

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