秋桜

古邑岡早紀

秋桜


 また、コスモスが群れ始める。

 いったいあとどれくらいこのコスモスを眺めればあの人は帰ってくるのだろう。




「あら、どこからきたのかな?」


 私は人の気配を感じて、ついとそちらに視線を向けた。

 目の前にはかわいらしい女の子。小学1年くらいかしら?

 突然目の前に人が座っていたのでびっくりしたらしく、どんぐり眼を私へと向けている。

 ここらは結構うっそうとしていて、沼もあることから大人はあまり子供を近づけない。

 だから私はここにいつも座っているんだけど。

 とても静かで、とてもコスモスを堪能できるから。


「あ、え、ごめんなさいっ!」


 突然あやまりだしたその小さな訪問者に私は思わず笑ってしまった。


「あらやだ。そこであやまられたら、おねーさんだっていけないことしてるみたいじゃない」


「あの、だって、ママがこっちのほうは危ないからきちゃいけないよって」


「でも綺麗だからついきちゃったのね」


 確かにこの辺は変に人の手が入っていないせいか、コスモスが綺麗に咲いている。

 おそらくこの娘はコスモスを摘みにきたのだろう。

 私はその娘の顔を見て、それから手一杯のコスモスを見つめた。


「──コスモスは好き?」


「うんっ!」


 その一言で女の子は緊張が解けたらしい。いそいそと私のほうへと近づいてきた。


「おねーさんは、ここで何してるの?」


 それでも少しばかり離れて、私のことを観察している。


「コスモスを見てるのよ。お姉さんもコスモス、とっても好きだから」


「おねーさんは摘まないの?」


「うーん。お姉さんは歩けないから、眺めるだけしかできないの」


 その答えに女の子は一瞬にして表情を曇らせた。歩けない、という事実を女の子はどうとらえたのだろう。

 女の子は暫く考えて、それから私のすぐ隣に腰を下ろした。


「じゃ、舞子も見てる」


 それは女の子なりの気の使い方なのだろう。

 暫くこんな年の離れている子と話なんてしたことがなかったから、なんだか不思議だった。

 子どもは好きだ。愛らしく、心を和ませてくれる。

 私は反射的に自分のおなかをさする。

 

 一緒に見ている、といったものの、やはりコスモスを摘みにいろいろ見て回りたいのだろう。

 目があちこちをさまよっている。


「舞子ちゃん。いいよ。お花を摘みにいって。お姉さんに気を使わなくていいよ」


 その言葉に舞子ちゃんは迷いを含ませた表情を浮かべる。


「でも、おねえさん、ひとりになっちゃう」


 ひとり、という言葉がとても心に響いていた。


 ひとり。


 もう何年、私は孤独を感じてきただろう。


「──大丈夫。そのうちお姉さんのこと、迎えに来てくれる人がいるから」


 私は精一杯笑って、舞子ちゃんの気持ちに応えようとした。


「むかえにくるの?」


「ええ。迎えに来るわ。必ず」


 だって彼は約束した。

 迎えに来ると。人を呼んでくると。

 いつもここで逢って、いろいろと話した。

 彼のことが好きだった。

 彼も私のことが好きだったはずだ。

 いつも私を抱きしめて、心も身体も温かくしてくれた。

 だから、子どもができて、バレリーナの夢を諦めることになっても幸せだった。

 彼さえ、ここにいてくれれば。


 私の元に、ただいてくれるだけで。


「じゃ、それまで舞子もそばにいる」


 はっと我に返ったとき、舞子ちゃんは私のそでをきっちりとつかみ、私を見つめていた。

 優しい子だな、と思う。

 私の様子がおかしいことを察してそばにいてくれる。

 本当に優しい。


「舞子ちゃん、そのコスモス、どうするの? 誰かにあげるの?」


 ふと間を持たせる意味もあって私は聞いてみた。

 舞子ちゃんは少しばかり複雑な表情を見せた。


「……パパに、あげようと思って」


「そう。きっとパパ、喜ぶわよ」


 しかしそんな私の返答とは違って、舞子ちゃんは少しばかり沈んだ顔をした。


「そうだといいんだけど。──パパ、なんだかコスモス嫌いみたいなの」


 コスモスの花束を握る小さな手に、力がこもっているのが端で見ていてもわかる。


「どうして? 舞子ちゃんみたいなかわいい子からお花もらったら、パパだってとってもうれしいと思うけど」


 しかし私の言葉は舞子ちゃんの心を解かしはしなかったらしい。


 以前舞子ちゃんの表情は曇ったままだ。


「前にパパのはっぴょうかいのとき、コスモスをあげたらパパ、すっごいおこって」


「発表会?」


「うん。パパ、バレエのせんせいなの。舞子にもバレエをおしえてくれるけど、おしえてくれるときだってそんなにおこったことないのに、そのときはとてもおこって、……あとでパパ、ごめんねっていってくれたけど、すごくこわかったの」


 よほど怖かったんだろう。舞子ちゃんは一言一言つぶやくたびに小声になっていった。


 私はそんな舞子ちゃんを黙って見つめていた。


 黙って。


 少し茶色の髪。子供にしては大きな瞳。そして口元のほくろ。


「──ね、舞子ちゃん。パパのお名前言える?」


 なぜそんなことを聞くのだろうといった瞳で、それでも素直に舞子ちゃんは答えた。


「きたざわだいすけ」


 きたざわ、だいすけ。


 一瞬息を止め、それからゆっくりと吐いた。


「おねえさん?」


 黙りこむ私を心配してか、舞子ちゃんは私の手に触れながら顔を覗き込んだ。


「きっと……」


 私はゆっくりと言葉を吐き出す。


「きっと、舞子ちゃんがたくさんきれいなコスモスを摘んだら、パパだって喜んでくれるわ」


 めいいっぱいの笑みを浮かべて、私は舞子ちゃんを元気づけた。

 舞子ちゃんは途端に子供らしい純真無垢な笑みを浮かべる。


「ほんとうにそうおもう?」


「ええ」


 それに私も笑って答える。


 この子はかわいい。


 この笑顔でわかる。きっと両親に十分に愛されて育ったのだろう。誰が見てもつい微笑み返してしまう、そんな子供。


「じゃ、舞子ちゃんにお姉さんの秘密の場所を教えてあげようかな」


「秘密の場所?」


 秘密、という言葉に舞子ちゃんは明らかに惹かれていた。


 それは大人も惑わす甘い誘惑の言葉。


「そう。本当はお姉さんともう一人の男の人の秘密の場所なんだけど、舞子ちゃんだけに特別に」


 私はちょっと左よりの叢を指差した。


「あそこに白いコスモスが見えるでしょう? あの先にとてもきれいなピンク色のコスモスが咲いているの」


「このピンク色より?」


「そう、舞子ちゃんの持っているコスモスより淡い、でも力強いピンク色。きっとパパも気に入るわよ」


私は舞子ちゃんへと笑いかける。


「お姉さんは歩けないからもうそこにはいけないけど、舞子ちゃんなら大丈夫」


 私の言葉に舞子ちゃんはすっくと立ち上がった。


「舞子、とってきていい?」


「ええ。あの白いコスモスをめざしていけばすぐわかるわ」


 舞子ちゃんがうずうずしているのがわかる。


「じゃ、おねえさんのぶんもとってきてあげる!」


「ありがとう、舞子ちゃん」


 私はかけだす舞子ちゃんに手を振った。

 舞子ちゃんは元気よく叢を分け入っていく。






 その先は、叢で気がつかないけれど、少し崖のようになっている。

 もしそこで足を踏み外せば、すぐ下の沼に落ちるだろう。

 おそらくそう簡単には──いいえ。十中八九、上れない。

 大人の私でさえ、ぬかるみに足を取られ、もがき、そのまま沼に沈んでいったのだから。


 幼い女の子が助かる確率は少ない。


 ねえ、あなた。


 私、あなたが迎えに来てくれるまでずっと待っているつもりだった。

 でももう、独りも飽きたわ。

 あの時あなたは私の大切なものをすべて奪っていった。

 私の夢も、愛情も、子どもも、──命までも。


 だったら。


 今度は私がいただく番。

 まずはあの子をもらいましょう。 

 私の子供の変わりに。


 それに。


 あの子を手に入れたら、あなたも私を迎えに来てくれるでしょう?


 

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秋桜 古邑岡早紀 @kohrindoh

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