ハンドラー0年生(2)

 私はオスカーにボールを見せる。しかし、オスカーは興味なさそうだ。しばらくオスカーの反応を待つ。ようやくオスカーは私を見た。私は思わず笑みを零す。

 オスカーは、私の手から器用にボールをひったくると、一匹……いや、一人ででそれを転がし始めた。オスカーが自分の鼻や前足を押し付けると、ボールはころころと転がる。

 私は二個目のボールを持つと、オスカーの前で動かした。しかし、オスカーは自分の元にあるボールで遊んでいる……。

 私はしぶとくオスカーの前でボールを動かしていた。遂にオスカーはこちらを向く。私が安堵したのも束の間。オスカーはうぜえんだよとでも言うように、吠えた。

 まるで反抗期の女子高生である。あ、男だけどね。

「……うん。ごめんね。予想はしてたんだ」

 横から声が聞こえ、私は石川監視官を見た。彼は少し青ざめた顔で、私に話す。

「彼、人のことそんな好きじゃないみたいで……。訓練士に全く懐かなかったんだよね……。でも、テストの点数は悪くなくてさ……」

 私はオスカーを見た。オスカーはこちらを気にも留めず、一人でボールを追いかけている。

 その横では、夏子とウラニアが楽しそうに遊んでいた。夏子がボールを投げたら、ウラニアは夢中で追いかけている。ウラニアは、常にはち切れんばかりに尾を振っていた。

 正直に言おう。めっちゃ羨ましい。

「オスカー……お前……」

 オスカーはこちらを見ると、牙を見せた。威嚇している。私はオスカーを見ると、にこやかに笑った……つもりである。しかし、宣戦布告みたいなのを内心叫んでいた。

 良いだろう。お前がその気なら、私は粘るぞ。お前が私に心開いてくれるその日まで、私は戦い続けてやる。

「あぁ、今まで牙なんか見せなかったのに。どうしたんだ、オスカー」

 石川監視官はオスカーを焦ったように見た。

「……よろしくね、オスカー」

 オスカーは牙を向ける。

 こうして、私とオスカーの戦いは幕を開けた。

 案の定というべきか、その日の訓練では、全く指示をオスカーは聞かなかった。しかし、テストの時だけは良い子ちゃんになる。ポテンシャルは高いらしく、テストの成績は悪くない。テスト終わると、全く遊んでくれないけどね。

「なかなか頑固だねぇ、オスカーは」

 横にいた夏子が励ますように、私に話しかけた。オスカーは目の前のボールに夢中である。彼の前にあるボールは、私からひったくったものだ。手持ち無沙汰になった私は、オスカーを観察するしかなかった。

 それが何度も続いて、私はオスカーのことをよく知ることができた。

 一つ。オスカーは人をあまり好きではない。人どころか、他のお犬様や猫様などにも容赦なく威嚇する。この威嚇行動が訓練センターの人を悩ませているのだろう。呼びかけにも反応しないが、たまにこちらを見ることもある。これは大きな一歩だろう。

 二つ。オスカーは基本ぼっちだ。どんなお犬様ともつるまず、一人を好む。餌や水なども抱え込むようにして摂取している。どうやら、他のお犬様に食事を邪魔されると思っているらしい。

 三つ。オスカーには拾い食いをする癖がある。それも、かなり酷い。何でも口に入れるのだ。例えば、地面に留まったカラスやハト、鳥の死骸、紐や紙……散歩中に傘を食べようとしたこともあるとか。

 これをまとめると、やはり元野良犬だったことがよく分かる。野良犬は基本一人で行動するため、誰かに頼る経験がない。猫やカラス、人が嫌いなのは、今までの経験故なのかもしれない。

「またやられたね」

 横から声がし、私は顔を上げた。そこには、石川監視官が立っていた。私は黙って頷く。

「職員さんのボールも取っているんですか?」

 石川監視官は私を見つめると、首を横に振った。

「まず、ボールに触りもしない。疑うようにこちらを見た後、三十分はボールの周りを歩いてる」

 私はオスカーを見た。


 石川監視官の言う通り、オスカーは夏子の持つボールに見向きもしなかった。他の職員さんが様々な玩具を持ってきても、オスカーは近づこうともしない。必ずと言って良いほど、私の持っている物を奪っていった。そんな生活が続いて、既に一ヶ月が経とうとしている。私自身、オスカーとどう接するべきか、悩んでいた。

「懐かれているのか、これは……」

「懐かれているというより、舐められてる気がするなぁ」

 石川監視官の言葉に、私は軽く項垂れた。オスカーはそんな私たちを尻目に、私から奪ったダミーを齧っている。ついでにダミーとは、タオルを硬く縛った犬の玩具のことだ。

「麻薬探知犬になれなかった訓練犬はどうなるんですか?」

「警察犬の訓練センターに行ったりして、他の職業犬になる子もいるな。あとは、各家庭に送られたりとか」

 私はオスカーを見た。オスカーは一人でダミーを齧っていた。

 どうしてオスカーが捨てられたのかは知らない。けれど、オスカーには可能性がある。その可能性を踏み躙った飼い主(とも呼びたくないけれど)が、どうしても許せなくなった。だからこそ、オスカーとの接し方が分からない。

 そこまで考えて、私は一つの結論に達した。

「オスカー……本当は……」

 私は呟いた。そして、飽きたオスカーが放り投げたダミーを手に取る。オスカーはそれを見るや否や、光の速さでこちらに走ってきた。私はダミーを強く持つと、オスカーに見せた。

 オスカーは乱暴にダミーに噛みつき、自分の元へ持っていこうとする。それを私は必死に拒む。側から見ればただの綱引きだろうが、こちらからしてみればガチンコ対決であり、ほぼ喧嘩である。オスカーはこれ以上ないほど鬼気迫った顔で、必死にダミーに噛み付いていた。

 しかし、こちとら毎日鍛えている訓練生だ。簡単にダミーは取らせない。それに――オスカーが取ったら、その瞬間、彼はは麻薬探知犬になれなくなるだろう。そんな気がした。

「頑張れ! みっつー!」

 夏子の応援が背後から聞こえる。周りにいた数人の同期も、こちらを見つめていた。オスカーと私はそれをモノともせず、ひたすらにガチンコ綱引きを続ける。今にもダミーが引きちぎれそうだが、その時は別のを使えばいい。

「オスカー……人と遊ぶのは楽しくないかもだけど!」

 息が切れてきた。けれど、オスカーもだいぶ疲れているようだ。当然だ。もう十分以上も引っ張り合っているのだから。そろそろ飽きてきてもいい頃だけれど、オスカーがダミーを離す気配はない。

 石川監視官は私たちを見ている訓練生を見ると、建物に入るように指示をした。オスカーは不特定多数の見ている前では、なかなか本音を出さないことを、石川監視官は知っているためだ。

 私とオスカー以外いなくなった訓練室で、私とオスカーはそれでも綱引きを続けた。さすが元野良犬ともあって、体力は凄い。

「私と遊ぶのは、楽しくないか!」

 私が叫ぶと、オスカーは迷うようにこちらに目を向けた。一瞬だったけれど、言葉が通じた気がした。

 オスカーの動きが少しだけ止まる。私はオスカーの尾を見た。そして、思わず小さな歓声を上げた。

 小さい動きだけれど……尾を振っているではないか。

「オスカー!」

 オスカーはダミーを離した。疲れたのだろう。私も疲れた。体力お化けだな、オスカーは。

「オスカー、どうだった? 私の動きは」

 オスカーは私を見る。その目にはもはや、疑いの色はなかった。ただ、少しだけ戸惑っているらしい。

「……それが楽しいってこと。おかしいことじゃないよ」

 オスカーは舌を出しながら、こちらに歩み寄る。私はオスカーを見る。

「これからもよろしくね、オスカー」

 オスカーは吠える。彼の黒い耳が大きく動いた。


 その翌日、腕を酷い筋肉痛が襲ったのは、オスカーには秘密である。

 そして――中間評価があと一ヶ月に迫っていた。

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