#92 翡翠の勾玉@クララの夢と決意


春輝と夕飯の準備に取り掛かることになった。



クララちゃんの料理の腕は絶望的なために、春輝からは「料理中は絶対に俺の領域に入ってくるな」と念を押されてしまった。それで仕方なく、クララちゃんはキッチンの隣に位置するリビングで座椅子にもたれ掛かっている。



「あたしだけ仲間はずれかよ。でも、こうして見てると二人は肩を並べているのが一番しっくり来るじゃんか」

「褒めているのか、拗ねているのかどっちかにしろ」

「春輝は絶対に自分に比肩する人じゃないと無理だから、まゆりんのこと大切にしなよ」

「わたし、春輝と対等にできてる?」



どう見ても春輝の基本スペックが高すぎて、わたしが見劣りしているような気がしてならない。料理だってはじめからできたわけじゃないし、春輝の教えがあったからこその今の腕前なんだよね。



「できてるよ。まゆりんだもん」

「俺にはもったいないくらいだ」

「そうかな……わたし全然だよ」

「そんなわけないだろ。さて、改さんには洋風なトマト料理を振る舞うとするか。麻友菜、勝手は違うがいつもみたいに頼む」

「うん。任せて。あれ、和食じゃないんだ……?」

「改さんはむしろ常に和食しか食べていないからな。トマトリゾットにしようと思う」



わたしのおじいちゃんが作ったトマトを、春輝は袋いっぱいリュックサックに入れてきた。スーパーで買うトマトよりも甘みが強く、なかなか食べられないから食べさせてあげたいって春輝が言っていた。おじいちゃん聞いたら喜ぶだろうなぁ。



「クララは改さんに呼び出されたんだろ?」

「うん。いつもよりも圧が強かったんだよね〜〜〜。お盆だからっていうのもあるかもだけど」

「クララちゃんになにか話したいことがあるとか?」

「また翡翠のことかな」

「えっ? 翡翠?」

「ああ、クララは翡翠を勧められてるんだ」

「翡翠……重いんだよなぁ」



翡翠を勧められているという言葉の意味が謎すぎて、わたしには理解不能。よくよく聞いてみると、この神社には先祖代々伝わる社宝というものがあるらしい。それが翡翠の勾玉で、祭事に使用する由緒正しいものなのだとか。



それを勧められるとは、いったいどういうことなのだろう。



徐々に料理が完成に近づき、キッチンはわずかにスパイシーな香りに包まれる。ガーリックの匂いもほどほどに、食欲をそそられてお腹が鳴りそうになった。リゾットの他にチキンソテー、オニオンスープを作り、料理開始から三〇分経ったところで改さんが私服姿でリビングにやってきた。



「良い匂いだな。春輝が来ると、料理が楽しみだ」

「おじいちゃんって普段なに食べてるの?」

「最近は配食サービスがあって、地域の人が届けてくれるんだよ」

「ふーん。寂しくない? 誰か友達でもできればいいのに」

「もう慣れたよ」



クララちゃんと改さんはそんな話をしていた。吹雪さんを育てた人がこんなに当たりの優しい性格をしていることには正直面食らったけど、筋が通っているところは吹雪さんにそっくりな気もする。



「できました。改さんの口に合うといいのですが」

「春輝の作ったものなら、なんでも美味いよ。クララ、ワシはな、てっきり春輝と結ばれるものだと思っていたのに。それでここを継いでくれたら、なにも心残りはないのになぁ」

「ちょっとおじいちゃんっ!! まゆりんの前でダメだよ、そんなこと言っちゃ」

「大丈夫だよ〜〜〜。わたしもクララちゃんとはじめて会った時、そう思ったくらいだもん」



あの頃のクララちゃんは、春輝がすべてという感じの顔をしていたと思う。クララはヤンデレだ、とレッテルを貼ったくらいにクララちゃんは必死だった。それが今はこんなに落ち着いて、本当の意味で可愛くなってしまった。改さんだけじゃなくて、おそらく周りのみんながそう思っていたのだと思う。春輝はクララちゃんと結ばれて、将来は結婚するものだと。



偶然にもわたしと仲良くなったことによって、その可能性が限りなく薄くなってしまった。クララちゃん自身も、現在は春輝のことを恋愛対象としてではなく、家族愛の対象として見ている。これで本当に良かったのかどうかは分からない。わたしはホッとしているけど。



食卓にトマトリゾットとチキンソテー、それからオニオンスープを並べて全員でいただきますをする。トマトリゾットを口に入れた瞬間、芳醇なトマトの香りが鼻を抜けていく。さすが春輝。もはやどこのお店よりもおいしいんじゃないかってくらいに極めていた。



「クララ……ワシはここを譲ろうと思う」

「またその話? あたしはやらないよ?」

「違う……まったくの赤の他人だよ」

「え……?」

「吹雪もクララも継がないなら、やりたい人間にやらせるしかないだろう?」

「翡翠の後継者がいるのですか?」



春輝は立ち上がってそう訊くほど、衝撃的な話だったらしい。クララちゃんも唖然としてスプーンの持つ手が止まってしまうほど驚いている様子。



「やる気があれば譲ろうと思う」

「もし、そいつが悪いやつで、翡翠を売ろうとしていたら? おじいちゃんが守ってきたものが一瞬でなくなっちゃうよ?」

「……だが、そうするしかないのも事実だろ。クララ、改さんの考えも理解しないとな」

「そうだけど……うん。あたしが継がない限りそうなっちゃうんだよね。あーモヤる」



大人気のモデルが神社の神職を引き継ぐとすれば、大騒ぎになるんだろうな。クララちゃんは芸能人だから、引退となれば影響は計り知れない。今すぐに神社を引き継ぐわけではないだろうけれど、将来的に神主になるとなれば、メディアもこぞって押し寄せるなんてこともあるかもしれない。



「クララと吹雪には承諾してもらわないといけないからな」

「クララはそれでいいのか?」

「……分かんないよ」



食事を食べ終わって三人で洗い物をし、それからお風呂に入ることになった。



「お風呂見たら驚くよ、まゆりん、一緒に入ろ」

「うん。ヒノキのお風呂とかなの?」

「入ってみるまでのお楽しみ。ほら、春輝も行くよ」

「先にいけ。俺はやることがある」

「ふーん。じゃあ、まゆりん行こう」

「うん」



春輝は写真の現像をすると言っていた。こんなところに来てまで現像なんてしなくてもいいのに。でも、考えてみたら、改さんに写真を渡したいのかなとも思う。そういうところが春輝らしい。



長い廊下を進んで行くと引き戸があり、外に通じているみたいだった。外廊下になっていて、その先は離れになっている。離れはどうやら脱衣場のようで浴槽がどこにも見当たらない。



「うひょー、まゆりん相変わらずスタイル良すぎ。春輝にヌード撮ってもらいなよ」

「えぇぇ、それは気が引ける。そういうクララちゃんだって、すごいじゃない」

「筋トレして引き締めるところは引き締めてるかんね。まゆりんみたいにおっぱい大きくないけど」



クララちゃんはわたしの背後に回って、何を考えたのか後ろからわたしを抱きしめた。



「きゃあッ!?」

「あ~~サイコー」

「ちょ、クララちゃんっ!?」

「この張り」

「や、やめっ」



百合展開とか望んでいないのに。クララちゃんは変態のように「うへへ」と笑いながらわたしの身体をまさぐり、完全にわたしで遊んでいる。くすぐったいのと恥ずかしいのが同時に来て、思わず座り込んでしまった。



しかし、今度はわたしを押し倒して、


「春輝にどう可愛がられているのか、クララちゃんも知りたいなぁ」


と舌なめずりをした。まあふざけているだけだろうけど。本当にクララちゃんは。



しばらく堪能されてしまった。クララちゃんを拒絶したところで、いよいよ脱衣場の戸を開けた。そこには日本庭園の中にぽつりとある秘湯のような露天風呂から湯気が上がっている。もちろん洗い場も設えており、高級旅館さながらの光景が広がっている。



「はぁ~~~~気持ち良い~~~」

「夏の露天風呂はさいっこうだかんね」

「そうだねぇ~~~」



クララちゃんと二人で並んで湯に浸かり、足を伸ばしながら岩場を枕代わりにして見上げた夏の空は東京とは違っていた。コスメのブラックのアイシャドウに輝くグリッターのような満天の星空。キラメキがエモくて、春輝と行った去年の旅行を思い出した。



「この星を見ていたら、やっぱりちっぽけだなぁ」

「ちっぽけ? なにが?」

「翡翠を継ぐとか継がないとか。あたしはね、ずっとモデルをやっていくものだと思ってた」

「わたしは……自由でいいんじゃないかって思うよ。昔は色々と囚われていたけど、今は自由でいいんだって思ってる」

「どういうこと?」

「わたしは将来なんて、大学に行って良い仕事をして結婚をして、当たり前の人生を送るものだと思ってたの。でも、春輝と出会って変わっちゃった」

「普通の人生はみんなそうじゃんか? あたしだってモデルなんてやってるから、少し特殊だけどさ」

「そうだね。わたしの夢は……、春輝の隣でお料理することだから」

「まゆりんはそれでいいの?」

「うん。いつか一緒にお店を出して、和気あいあいと楽しいお店で幸せに過ごしたいの。ほら、スローライフってやつ?」

「実際はそんなにうまくいかなそうだけど……春輝のお店って二番街に出すんでしょ?」

「うん。多分……毎日戦争みたいな感じになっちゃうんだろうね」



それでも現にわたしは二番街で色々な経験をしてきた。まだ一年足らずだけど、怖いことも幸せなこともいっぱい経験した。今は知り合いも多いし、それなりに楽しく過ごさせてもらっている。そう、春輝と同じようにわたしも二番街が好き。人が好き。



秋子さんも、吹雪さんも、クロさんも、ヤマさんも。ミー君も。



春輝も。



そんな人たちがふらりと立ち寄れて、おいしいって言ってもらえるようなお店を春輝と二人でできたら最高じゃん。



「それでも夢は夢だから」

「夢か……」

「クララちゃんはクララちゃんの気持ちを曲げる必要はないと思う。人生一回きりだし」

「そうだよなぁ。まゆりんありがと。少し見えてきた気がする」



きっと、クララちゃんはモデルを続けたいのだと思う。



この神社が山崎家の手を離れてしまうということは、きっとクララちゃんにとって寂しいだろうけど、こればかりはクララちゃんの意思だ。



翌日、朝からクララちゃんに散歩に誘われた。神社の朝は木漏れ日が綺麗で、朝露と湿気の混じった苔の匂いがして、すごく気持ちが良い。



「パパが忙しいときはここによくお泊りしてたんよね〜〜〜」

「思い出の場所?」

「そそ。まゆりんにもあるでしょ」



おじいちゃんに畑に連れて行ってもらって蝶々を追いかけたことや、釣りに行ったこと。それからスイカをその場で切ってくれて丸かじりしたこと。どれも大切な思い出で、大切な場所。クララちゃんにとって、ここはそういう場所なんだろうな。



「このしめ縄に掴んで木登りをして怒られたなぁ」

「クララちゃんもなかなかだったんだね」

「パパの子だもん、それはね」



それからクララちゃんの思い出を聞きながら参道や裏参道を歩いた。ここが赤の他人のものになってしまうのは、なんだか切ないな。



「あたし……パパに電話する」

「うん」



そう言って、クララちゃんは鳥居により掛かり、スマホを取り出した。先に戻ると伝えて、わたしは屋敷に戻ってきた。そして、クララちゃんは戻るなり改さんのもとに行き、わたしと春輝を呼び出した。



その手に持っていたのは書類だった。



養子縁組。



クララちゃんは山崎吹雪の娘として法律上の親子となることを決心した。今までそうしなかったのにはなにかしらの理由があるらしいけど、ここに来てそうした理由は一つしかない。



「あたし、この神社を継ぐ。翡翠の後継者になる」

「クララ……いいのか?」

「うん。あたしモデル辞める。神主になるために修行するから」



クララちゃんの決心は固かった。







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