#89 茶封筒に入った千円札@小学校がんばって
東京に帰る前の最後の晩になって、おじいちゃんはまた見当識障害の症状を発症してしまった。それは物忘れというレベルではなく、近日中に病院に受診したほうがいいだろう。悲しいことに家にいながら、「そろそろ帰らないと」と言って聞かなかった。
そして、おじいちゃんはようやく落ち着きを取り戻し寝てくれたのだが、おばあちゃんは一睡もできなかったと言っていた。それで、俺たちは帰る時間までおじいちゃんを連れて畑に行って野菜の収穫をしたり、散歩をしたりした。いつも以上に体力を使えば、夜ちゃんと寝てくれるのではないかという期待を込めて、だ。今日の午後には俺たちは発たなければならない。そうなると、おばあちゃんは今晩一人になってしまう。
「トマト食べるか?」
「うん。いただくね」
「ありがとうございます」
今日もトマトをくれた。おじいちゃんは麻友菜がトマトにかぶりつくところを嬉しそうに見ている。丹精込めて育てたトマトを美味しく食べてくれることが嬉しくて仕方ないのだろう。
それからしばらく散歩をした。暑いから、道中水分補給を忘れずにしながら。もちろん、おじいちゃんの無理のない範囲で。
散歩が終わり、午後には帰宅する俺たちは昼食を食べ終えて、荷造りをはじめることに。
「あっという間だったね」
「ん。そうだな」
後ろ髪を引かれているのだろうか、麻友菜の表情はどこか浮かない気がする。次に会えるのは冬かもしれないし、来年かもしれない。それにおじいちゃんのことも心配だろう。そうなると、麻友菜の気持ちは理解できなくもない。
「麻友菜、また俺も来ていいか?」
「うんっ! 当たり前じゃん」
荷造りが終わり、おじいちゃんとおばあちゃんに別れを告げる。
「あのさ、おじいちゃん」
「どうした? 麻友菜?」
「次来るときまで元気でいてね?」
「ああ、麻友菜も小学校がんばってね」
「小学校か。うん。わかった」
おじいちゃんはそう言って、麻友菜にビニール袋を手渡した。どうやらお菓子の詰め合わせらしい。帰りに食べろってことなのだろうか。おそらく、小学生の頃の麻友菜にそうやってお菓子をあげていたのだろう。
おばあちゃんは苦笑していた。指摘しても理解できないかもしれない。まるでスイッチの入った顔をしているおじいちゃんには言っても無駄だから、言わしたいようにさせているのかもしれない。
「おじいちゃん、わたしの結婚式までちゃんとがんばって元気でいなきゃダメだからね?」
「麻友菜はダンスの才能があるから、将来楽しみだね」
「才能……か。うん。ありがとう。おじいちゃん」
おじいちゃんの目には麻友菜がどう映っているのかわからないが、DVDの中で踊るまだあどけない麻友菜を眺める、若いおじいちゃんの姿が俺にも見えた。同じだった。認知症になっても愛情は忘れないものなのかもしれない。
その姿を見て、俺はなぜか小谷小夜のことを思い出してしまった。映像や写真は残ってないが、最期に会った“生みの親”も似たような顔をしていたなと不意に思い出したのだ。
「また来るねっ!」
「またいつでもね」
おばあちゃんはそう言って手を振った。おじいちゃんはなにも言わずにニコニコしながらこっちを見ているだけだったが、麻友菜のことが可愛くて仕方ないような、幸せに満ちた顔をしていた。
駅まではシンジさんが送ってくれて、改札を抜けてから炎天下の誰もいないホームのベンチに麻友菜と二人で座る。色々な人に優しく親切にしてもらったからか、俺も多少の寂しさを覚えた。俺でそうなのだから、麻友菜はもっと感じているはずだ。俺は麻友菜の手をそっと握る。麻友菜も握り返してくれた。
「おじいちゃん、畑仕事するときちゃんとポカリ飲めるかな」
「そうだな。心配だな。だが、おばあちゃんもいるし大丈夫だろ」
おじいちゃんが手渡してくれたコンビニ袋には、歌舞伎揚やら氷砂糖、それにミニどら焼き等、まるで町内会で配るようなチョイスのお菓子が入っていた。お菓子の袋に紛れて、中に茶封筒が見えた。
「それは?」
「これね」
麻友菜が茶封筒を手にして裏返すと、“まゆなへ”と震える手で書いたような文字が書かれていた。麻友菜は中から千円札を取り出し、「やっぱり」とつぶやく。
「小学生の頃、帰りに必ずくれたんだ。お小遣い」
「千円をか?」
「うん。中学生になったら五千円で、最近は一万円札だったけど、また戻っちゃった」
「ん。残念だったな」
「ううん。そんなことないよ。これは使わないで取っておくんだ」
「そうか」
麻友菜は千円札を封筒に戻し、バッグから取り出した手帳に封筒を大事そうに挟んだ。電車が来るまでの一〇分間、しばらくひぐらしの声に二人で耳を傾けた。
電車が来て乗り込み、窓から外の景色を眺めていると、ふと視界に老夫婦の姿が見えた。おじいちゃんとおばあちゃんが堤防の上で俺達の乗る電車を眺めていた。暑いだろうに、けれど幸せそうな顔をしている。俺達に気づいているのかどうかは分からなかったが、電車が通り過ぎてもしばらくこっちを眺めているのが見えた。
「麻友菜?」
「うん。気づいてないよね」
「いや、どうだろうな」
麻友菜は座席に中腰に座り、懸命に手を振ったけれど二人には見えていなかっただろう。それでも麻友菜は手を振った。二人の姿が小さくなるまでずっと。
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