#80 オレンジジュース@山崎吹雪の影響力
麻友菜の部屋にはじめて入ったのは、帰る間際のことだった。
俺が麻友菜の部屋を見てみたいとか、そういうことを口にしたわけではない。昨日はリビングで過ごしたし、風呂に入って寝るまでの間、麻友菜の部屋に行く機会がなかっただけ。それで朝食をとってから、麻友菜がせっかくだからと案内してくれたのだ。
麻友菜の部屋は案外シンプルで、もっと女子らしい部屋を想像していたために少し意外だった。
「そういえばいつもビデオ通話写っているのはこの壁か」
ラインでは背景を変えられるものの、麻友菜の場合いつも背景は白い壁。ベッドに寝そべっても同じ壁が背景に映る。それでも部屋の全景を見たのははじめてで新鮮だ。
「うん。殺風景でごめん。でもシンプルなほうが好きだから」
「ぬいぐるみとかが多いのかと思ったが、そういうのはないんだな」
「少しはあるよ。ただ掃除したときに仕舞っただけで」
唯一目に付くものは、机の脇に置かれた腰丈の本棚の上の写真立てくらいだ。小学生の麻友菜が友だちに囲まれて嬉しそうにピースサインをしている。その反対の手にはトロフィーが握られていて、なにかで賞を獲ったらしい。
「あ、それ、ダンスのコンクールで優勝したときのやつ」
「すごいな。見ていいか?」
「うん。隣りにいるのが莉子ちゃん」
「早川莉子か?」
「そう。かわいいでしょ?」
「そうか?」
自分をイジメていた奴をかわいいと言ってのける麻友菜の心の広さには、感服せざるを得ない。嫉妬をするときはあんなにも心が狭いのに。
だが、こうして小学校で麻友菜にダンスで負け続けて、中学になって陰険ないじめをしていた早川莉子も今では麻友菜とすっかり和解をしている。最近話を聞かないが、もしまたなにか麻友菜にちょっかいを掛けてきたら、女子だろうと全力で潰しにかかるつもりだ。今のところ、双子の姉妹の宮崎優愛からも特に情報は入って来ない。きっと大人しくしているのだろう。
今度ラムダに納品に行ったときにでも聞いてみるか。
「こっちは?」
その隣の写真立ての写真には、古い家屋の前で高齢の男女が写っている。かなり田舎で撮影されたように見える。家屋の背後には山が見て取れた。
「母方のおじいちゃんとおばあちゃん。一年に一回しか会えないんだけど、昔からおばあちゃんっ子だったんだよね」
「そうか。ずいぶんと品のある感じだな」
二人とも高齢ながら背筋が伸びていて、服装はどこか上品な感じがする。
「おばあちゃんって、昔女優していたんだって。おじいちゃんと出会って結婚を機に引退したらしいよ」
「女優か。なるほどな。麻友菜は隔世遺伝しているのかもな」
「隔世遺伝?」
とはいえ、弓子さんもきれいな人だから隔世遺伝ではないのかもしれない。ただ、麻友菜の演技力や舞台で臆しない強心は祖母の影響なのではないだろうか。青空青春コンテストではあれだけの観客を前にして、あれだけのことをやってみせたのもきっとそうに違いない。いくらダンスをしていて舞台慣れしていても、緊張しないわけがない。
「簡単に言えば祖父母から孫に遺伝するものだ」
「そうかな」
「いや、思いつきで言っただけだ」
「そうだ。今年の夏は春輝も一緒に行こうよ」
「どこにだ?」
「お母さんの田舎」
「……俺が行ってどうする?」
「すっごく良いところなんだよ」
「まあ、そうだとしても俺が行ったら大騒ぎになるだろ」
「ならないって。春輝のことはもうみんな知ってるし」
「そうなのか?」
「うん。去年帰ったときに話した」
それから麻友菜としばらく話して、帰る時間になり、麻友菜に引き止められながらもようやく麻友菜の家を後にした。
しばらく麻友菜と一緒にいたからか、確かに後ろ髪を引かれた。離れ離れになるのは寂しいと麻友菜は口にしたが、それは俺も同じ。ラインで通話をしながら駅に向かい、電車に乗る前には通話を切った。
その足で母さんとの待ち合わせ場所に向かう。なんでも昼に食事会があるらしく、母さんに付き合って欲しいと言われたのだ。今までそんなことを言われたことがなく、今回はじめてのことで少し面倒くさいのだが、母さんの頼みとあれば仕方ない。
目黒駅まで電車に乗って、ロータリーで停まっているワンボックスを見つけて近づくと後部座席のスライドドアが開いた。
「春輝来てくれてありがとう。助かる」
「ん。いいよ。母さんの頼みなら別に」
「荷物後ろに積みなさい」
「ん」
指示されたとおりにスラックスにジャケットを着てきたし、革靴も履いてきた。麻友菜の家に泊まった際の荷物をトランクルームにしまい込んで、母さんの隣の席に座る。目黒駅からなら歩いたほうが早いのだが、それでは格好がつかないからと敢えて黒塗りのワンボックスに乗って欲しいということだった。はじめはうちまで迎えに来ると言っていたのだが麻友菜の家に泊まる手前、家に帰るのも面倒だし、どうせ電車に乗るなら目的地に一番近い目黒駅を指定したのだ。
目黒には我邪園という、日本絵巻が壁や天井に描かれた豪華絢爛なホテルがある。ホテルの中には滝が流れており、室内に日本庭園が広がっているらしく、圧巻の造りだということを聞いたことがある。
ホテルの前のロータリーに車が停まると、大げさにも三〇人ほどのスーツの男女が出迎えてくれた。今日の会食に呼ばれた人たちなのか、あるいは主催者なのか分からないが、やけにペコペコしているな。会話を聞いていると中にはどこかの会社のお偉いさんもいるらしく、その人達が母さんに頭を下げているところを見ると、母さんの立場がどれほどのものなのか分かる。
「並木先生、よくいらしてくれました」
「いえ。先生はよしてください。板谷先生」
「並木先生こそ。ささ、こちらに」
政治家の集まりか。ずいぶんと厄介な場所に呼ばれてしまったな。その政治家本人が母さんをわざわざ迎えに来たらしい。しかしなぜそんな席に俺を呼んだのか。俺を同席させる意味がわからない。なんのメリットもないだろうし、第一、俺はまだ高校生だ。意図が全く理解できない。
ホテルの中は聞いた通りのきらびやかな雰囲気で、アトラクション的に見れば面白いし、海外の人なら記念撮影だけでも満足できそうだ。今度麻友菜を連れてきたい。麻友菜に着物を着てもらって撮影をしたら、きっとすごい写真が撮れるだろうな。
「こちらは並木先生の御子息さんですか?」
「ええ。息子の春輝です」
「並木春輝です。常々母がお世話になっております。本日は若輩者ながら同席させていただきますが、なにゆえ不慣れなものですゆえ、粗相のないよう努めてまいります」
簡単に挨拶をしてお辞儀をすると、「立派ですね」と周囲の人達が感嘆の声を上げつつ、なぜか褒められた。別に普通の挨拶をしたまでなのに、褒められる意味が分からない。それとも、それが社会通念上の一般的なやり取りなのだろうか。こんな高校生に気遣いなど不要なのに。
「さすがは並木先生の御子息。将来が楽しみですね」
「ありがとうございます。私の自慢の息子ですので、今後ともご贔屓にしてくださいね」
「いやいや。こちらこそ。春輝くん。よろしく頼むよ」
調子の良さそうな政治家のおっさんは、そう言って俺の肩をたたいて笑った。
会食は和室で行われるらしく、靴を脱いで畳の席に上がる。いかにも芸者が出てきそうな雰囲気で、長方形の部屋はとんでもなく広い。中心に長テーブルが置かれており、母さんは上座を用意されているらしい。俺はどこに座っていいのか分からず下座のあたりに立っていると、近くにいた政治家の秘書らしき人が母さんの隣の席に案内してくれた。
「別に母さんのとなりじゃなくてもいいんだが?」
「まあまあ。今日春輝を連れてきたのは他でもない、あなたのためよ」
「俺の?」
「そう。二つ目的があるの」
席に着いて待っていると、襖が開いて偉そうなおっさんと見覚えのあるJKが入ってきて、みんな一斉に立ち上がった。
「貴崎先生!! お待ちしておりました」
「待たせたね。すまん。はじめてくれていても良かったのに」
「あら、先生お久しぶりです」
「おお、並木くん。よく来てくれたね。最近はご無沙汰だったから心配してたよ」
「お店の方に来ていただければいつでも顔を出しますわよ」
貴崎父と貴崎由芽だった。由芽は制服姿ではなく、上品なワンピースを着ているために一瞬誰だか分からなかった。ギャルJKも清楚な服を着るとイメージががらりと変わる。そして、案の定顔は冴えない。その後ろから遅れて元生徒会長の貴崎彩乃が入室してきた。貴崎彩乃は俺に気づいて、微笑みながら胸の前で小さく手を振る。こっちは由芽とは真逆で在校中よりも表情が柔らかく、男らしさ(失礼な表現だが)が抜けている。今の状態だと女子のファンクラブは解散しそうな雰囲気。美人姉妹だが、こうも姉妹で違うのは興味深い。
それにしても貴崎父はどこかで見たことのあるような顔をしている。どこかで会ったか?
いや、間違いなく会ったことがある。選挙のポスターか。違うな。もっと間近で見たはずだ。思い出せない。
貴崎父は母さんの向かいの席に座り、そのとなりに彩乃先輩。そしてその隣が由芽だ。由芽も俺に気づいたが、姉のように手を振るような余裕はないようで、一瞬目を合わせたがすぐに伏し目がちになった。
会席が始まって、まずは乾杯の音頭をさっきの板谷先生とかいう下っ端の政治家が取り、そしてなにやらプレゼンテーションがはじまった模様。どうやら都市開発に際しての出店計画に関する、要は陣地争いのような話だった。どこどこの駅前は複合ビルができるから、そのテナントを誰が仕切るかとか。大手の不動産の担当者が同席していて、時折説明を入れていた。割と有名な複合ビルの中の飲食店を、実は母さんもとい並木秋子が数店舗経営しているなんてことも初耳だった。今日は、こうして仲違いをしないようにうまく均衡を取るようにテナントに入る店舗を決めていく会議なのだと知った。
つまり、店を出すにしても裏では縄張り争いが絶えないということなのだろうか。
「貴崎先生、ではそこの駅前の再開発は間違いなく三〇年には着手するということですね?」
「ああ。間違いないだろうな。元々あそこは埋立地で地盤が弱い土地柄だから、それまでの耐震化構造でもない雑居ビルはすべて取り壊して再開発するとなれば名目も立つ。陳情書の件は倉持くんにお願いしてある」
「おお、さすがです。心強い」
一通り仕事の話を終えると、今度は母さんがなにやら俺の話を切り出した。
「この子は欲がなくて、私の経営の後は引き継がないっていうんですよ」
「なんと。では、春輝くんは将来なにをするつもりなのだね?」
「自分は料理が好きなので、自分の店を持ちたいと思っています」
「そうか。そんな安い夢でいいのか?」
「私には十分すぎるほどです。小さな店でも構わないので、二番街で料理店を出すのが夢です」
「二番街? 本気かね?」
嘲笑じみ返答だった。貴崎父が笑うと周囲の人達もどっと笑った。だが、母さんだけは真顔で、俺の膝に手を置いてから、スッと立ち上がる。
「それは二番街を馬鹿にしていると捉えているのでしょうか?」
「並木くん?」
「二番街は私の原点であり、今でも多くの店の経営に携わっております。経済規模でいえば都内でも有数。それを馬鹿にしているのでしょうか。今笑った方は答えていただきたい」
誰も答えなかった。むしろ、貴崎父をはじめとした出席者は母さんの静かな声に恐れをなしているのかもしれない。笑っていた者は特に顕著だ。顔が青ざめている。
「春輝は自慢の息子です。息子は欲深くなく、お金には無頓着で私の息子でありながら、誰に対しても偉ぶらない。そんな息子が唯一口にした“欲”は、将来の夢だったんです。自分の店を二番街で出したい。それも水商売ではなく、小料理店。私はこの子の親です。その夢に寄り添って、できるだけ力になりたいと思っています。その夢を馬鹿にするようなら、私はいくらでも戦います。もちろん、吹雪も息子のためなら」
「山崎吹雪……さん……?」
吹雪さんの名前で一気にその場が凍りついた。山崎吹雪の名前がどこまで浸透しているのか気になっていたが、まさかここまでとは。
母さんは俺のために怒ってくれている。それは何よりも嬉しかった。やっぱり俺は幸せだ。そんな母さんだからこそ、幸せになってもらいたいと思っている。だから、母さんの希望にはできる限り応えたい。
貴崎父の顔色が明らかに変わった。
「いえ、べ、別に並木先生や山崎先生を馬鹿にしているとかそういうことでは……」
「分かってくれればいいんです。春輝が店を構える際には、先生、お力添えをいただけるのですよね?」
「もちろんだ。春輝くん、これからがんばっていこう」
「はい。ありがとうございます」
別に俺は馬鹿にされたとか、侮蔑を受けたとか感じない。単に鈍感なのかもしれないが、誰に笑われても良いと思っている。分かってくれる人は分かってくれるし、理解できない者にまで理解をしてもらおうとは思っていない。
「しかし、春輝くんは優秀だと聞いたよ。由芽と同じクラスなのだろう?」
「はい。いつも由芽さんにはお世話になっております」
「成績も常に一番だと聞く。それに比べて、うちの由芽は。春輝くんに勉強を教えてもらいなさい。昔からなにをやってもダメで」
母親と同じだ。父親も由芽の良いところを理解しようとしていない。由芽は無表情のまま呆然とテーブルの上の皿を見つめている。おそらく心を無にしてなにも聞こえないフリをしているのだろう。
「そうですか? 自分が見ている限り、学校での由芽さんは明るく友達は多いですよ」
「友達が多くても仕方ないだろう。もっとなにか得意なものを一つでも持たないと」
「人脈づくりが必要なのは、貴崎先生のような代議士の先生では?」
俺がツッコミを入れると、由芽は我に返ったように顔を上げて俺を見た。
「ははは。そうだね。そのとおりだよ。だが、学校での友達と我々政治家の人脈づくりは違うのだよ。学生は勉強が性分だろう。それが基礎であって、友達は二の次じゃないか。なあ、由芽」
「はい」
なにを言っても無駄だ。こういう大人は自分の意見が一番正しいと思っている。勉強のできない子はなにをやってもダメ。自分の名前に泥を塗るような子どもはいくら叱咤をしても、嫌味を言っても良い。自分の子どもは所詮自分の所有物で、反論の余地などあるわけがない。だから、由芽には発言の権利などあるわけがない。そう貴崎父の顔に書いてある。
俺が言い返そうとすると、母さんは俺の膝に再び手を置いた。ここは我慢しろということなのだろう。それから酒も入り(もちろん、俺達未成年組はオレンジジュースだったが)、意見交換会と称してみんな席を自由に移動しはじめた。
「少し貴崎由芽さんと話してくる」
「それが二つ目の目的よ。春輝はもっと友達を沢山つくりなさい。学生時代の友達は将来の宝なの。だから、あの由芽さんの力になってあげなさい」
「ん。分かった」
同じ席でうつむいている由芽の隣に座り、「ちょっと外の空気を吸おう」と誘った。
「久しぶりじゃないか。並木くん元気か?」
「彩乃先輩。元気そうで」
「ああ。由芽をよろしく頼む」
「お姉ちゃん、なにを」
「私じゃ無理だ。もう私も由芽を庇いきれない」
「別にあたしは……」
「悪い。挨拶がある。並木くん、由芽を頼んだ」
「ん。分かった」
由芽を引き連れて襖を開けて外に出る。
俺が思っていたよりも由芽は重症のようで、病みきっていた。
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