#73 カレーライス@桜並木の向こう側 前編




ヒロインの麻友菜をステージに残したまま、俺は舞台袖に戻ってきた。




影山樹の書いた脚本を基にしたミュージカルの練習はそれなりにしてきたつもりだが、まだまだ劇団『夜のとばり座』の人たちには遠く及ばない。それにもかかわらず、大根役者に毛の生えた程度の俺を主演にしても、誰一人文句を言わないあたり余裕のある劇団なのだろうな。



ミュージカルのストーリーは、端的に言えばある男女の人生を描いたもの。ミュージカルだからこそ歌とダンスで明るく演出できるものの、もしこれがただの小説や演劇だったなら、かなりの鬱展開だと思う。



ヒロインは翡翠という女子大生で麻友菜が演じている。対して、その相手は大地という男子大学生で俺の役。二人は大学四年生のときに出会い、恋をするところからストーリーがはじまった。大地はミュージカルのペアチケットを手に入れて、翡翠を誘うことに成功。そして、二人の関係が恋人になるまで、そう時間は掛からなかった。



二人の関係は大学を卒業しても続く。翡翠は文房具メーカーに就職し、大地は保険の営業職に就いた。すれ違いもあったが、順調に交際を続けてやがて大地がプロポーズをして成功。そして第一子の皐月という女児が誕生する。



現在、そこまでストーリーが進み、舞台上での二人は幸せの絶頂を迎えていた。



「影山」

「うん? なんだい、並木氏?」

「お前、嘘ついていたんだろ」

「……なんのことかな。ボクにはどれのことだかさっぱりだよ」

「まあいい。とにかく終わったら話してもらうからな」

「そんなことよりも集中したほうがいいんじゃないのかい?」



舞台袖からステージを見つめる影山の顔は、気のせいかもしれないが、いつもよりも翳っているように見えた。舞台上で皐月を演じる子役(夜の帳座の劇団員の娘らしく、まだ小さいのにしっかりしている)と翡翠に扮した麻友菜が手をつなぎながら音楽に合わせてクルクル回っている。



「ママのお腹には赤ちゃんがいるの?」

「そうよ。皐月の弟がいるのよ」

「皐月はお姉ちゃんになるの?」

「そうよ。皐月はお姉ちゃんよ」



麻友菜の演技も夜の帳座の劇団員並にうまい。表情の柔らかさは、本当に赤子が生まれる前の母親のような母性を感じるし、皐月に語りかける様子も本当に大切な人に対するそれだ。もし俺が麻友菜と結婚をして子どもが生まれたら、あんな感じなのだろうか。



ふとネモフィラの丘で見た光景を思い出してしまう。俺達にもあの老夫婦のように仲睦まじく手をつなぎながら歩く未来があるのだろうか。



「翡翠の運命は残酷だな」

「……そうだね」

「俺はお前のことを全然知らなかった。すまんな」

「なんで謝るのかボクには理解できないよ。これはあくまでも脚本だろう?」

「ああ」

「ほら、出番だ。行きたまえ」



舞台袖の暗闇に潜むように立つ影山の表情が見えなくなった。あえてだろうが俺から顔を背けて観客席を覗いている。観客席の中には見覚えのある顔があった。麻友菜が風邪を引いて病院受診をしたときに会った、影山樹と一緒にいた中年の人。



影山樹の母親だ。あの頃よりもだいぶ痩せているような気がする。



俺の次の出番は至極簡単だ。ただベッドに寝て動かなければいいのだから。舞台袖に用意されたベッドに寝そべると、黒子役の劇団員がステージまで押してくれる。キャスターのキュルキュルという音が耳障りだが、それも演出の一つだと影山は言う。不安を煽る描写なのだろう。



「大地さん……?」

「パパ?」



大地は保険の営業中に軽自動車を運転していたところ、飲酒運転の大型トラックに後ろから追突されてしまう。



大地は即死だった。



この話は影山樹がクリスマスパーティーのときに話した内容に近しい。いや、ほぼ同じだ。



「なんで、なんでこんなことに。わたしの大地さんを返して、ねえ、返してよ」

「ママ、ママァァァァァ!!」



何も言わないトラック運転手役の劇団員はただただ俯いている。そこに掴みかかる翡翠の背後で皐月(子役)が泣き叫ぶ演技をした。



一度幕が降りて第一部が終了する。



「麻友菜?」

「うん。ごめん、なんだか涙が止まらなくて」

「役に入り込んだからか?」

「そうかも。だって、もし春輝が同じ目に遭ったらなんて考えちゃったの。もし、わたしだったら生きていけないって思って」



役作りをする上で麻友菜は自分を翡翠に重ねたのだろう。そして相手役の大地を俺に見立てて翡翠の悲しみを体感したのだ。ボロボロ泣く麻友菜を抱きしめて背中を擦る。次のシーンまで泣いていたら、翡翠を演じられない。



「お取り込み中悪いんだけど、霧島氏いいかい?」

「うん。ごめんなさい」

「翡翠は皐月や葉太のためにも気丈に振る舞っているんだ。それでいて愛情深い。次のカレーを作るシーンは笑顔だけどどことなく儚げでお願いしたいんだ」

「うん。分かりました」

「脚本を読んで思ったんだが、どんなカレーだったんだ?」



影山は、まさかそんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。眉根を寄せて「え?」と反応する。翡翠がカレーを作って皐月に食べさせるシーンを挿入するということは、それなりに深い思い出があるのだと思うのだが。引っかかった俺が変なのだろうか。



「そうだな。玉ねぎの原型はあまりなくて、ジャガイモはホクホクで小さくなっていたし、ニンジンは口の中でとろけちゃう感じかな。あと鳥のモモ肉がたくさん入っていたよ」

「肉が沢山……か」

「……いや、たくさんでもなかったかも?」

「つまり、影山はカレーが好きなんだな」

「好きか嫌いかで言えば好きなほうだよ。その程度さ」



麻友菜はペットボトルの水を口にして飲み込み、それから思いっきりかぶりを振った。大道具と小道具の人たちの準備がそろそろ終わり、第二幕がはじまろうとしている。



「麻友菜……俺は大地と同じようにはならない」

「……うん。分かってる」



だが、そんなことは断言できない。大地だって自分が死ぬなんて思ってもみなかったはずだ。人の死に関してはいつ、どこで、どのようになんて予測は絶対につかない。運が悪かったと一言で片付けるのは簡単だが、翡翠の場合はそんな安い言葉では割り切れない。もちろん、皐月にとってもだ。



「でも、そうじゃないの」

「? そうじゃない?」

「うん。結婚してどんなに強固な関係になったとしても、いつか必ず別れは来るでしょ。それってなんだか悲しいなって。ずっと一緒にいたいのに別れなくちゃいけないなんて」



生きていて死なない人間はいない。まさか不死の身体を手にする日が来るなら話は別だろうが。それは俺も同じだ。麻友菜と付き合って、もし結婚をしてもいつか別れは来る。それは明日かもしれないし、七〇年後かもしれない。だが、それを恐れていてはやっていけない。



違うな。それを知っているからこそ人は人を愛せるのだと思う。大切な人に死んでほしくないという思いがあるからこそ、人は愛せるのだし、自分の死を知ったときにその愛の偉大さが分かるのだ。それを俺はあのとき知った。生みの親はそれを教えてくれた。



「……そんなこと心配するな。俺は今のところ健康そのものだ。それに運命は廻るんだろ」

「うん」



ステージの幕が上がり、第二幕がはじまる。



それから一二年の月日が流れた。皐月と弟の葉太は高校生になった。翡翠はカレーをつくり、皐月に食べさせる。皐月は「おいしい!」と喜び、翡翠は小さなお椀に入れた米にカレーを掛けて仏壇に供えた。



皐月は高校一年生にして文芸賞を受賞し、作家となっていた。小さい頃から図書館に通っては本を借りてきては読むことに徹していて、それが皐月のアイデンティティとなっていた。皐月は母思いで、いつか母を幸せにしたいと思っていたのだ。



「お母さん、ミュージカルのチケットをもらったんだけど一緒に行かない?」

「なんのミュージカル?」

「桜並木っていうやつで、十数年前にやった復刻版なんだって」

「桜並木……」



ここで舞台の照明が落ちる。その瞬間、今度は俺が袖からステージに移動する。翡翠の回想のシーンでステージの中央のみにスポットライトが当たっていて、俺と麻友菜のセリフからはじまり、歌とダンスが披露される。



「翡翠さん、ミュージカルのペアチケットがあるんだ」

「まあ大地さん、なんのミュージカルかしら」

「桜並木っていう青春ミュージカルで、高校生の男女が離れ離れになってしまうストーリーらしいんだけど、すごく感動するって」

「観てみたいわ」



俺と麻友菜が椅子に座り、周りをダンサーが取り囲み踊り、後ろでは学生服に身を包んだコーラス部隊が美声を発する。あくまでも翡翠の回想なのだが、色鮮やかに描かれており、青空の背景に天井からは桜吹雪が舞い降りる。



「離れ離れになっても、きっとまた会える」

「きっと転校先に会いに行くわ」



桜吹雪の登場人物に扮した劇団員がそう言って抱き合って、また照明が落ちた。その間に俺は舞台袖に急いで戻る。なかなか忙しないのだが、ステージからなかなか戻る機会のない麻友菜に比べれば楽な方だ。ステージ上にいるだけで緊張による身体の強張りで疲労が溜まっていく。もちろん精神的にも。しかし、麻友菜の役者経験は少ないものの、舞台慣れしている。



「お母さん?」

「ごめんなさい。わたしはやめておくわ」

「お母さんは怖い?」

「え?」

「お父さんを思い出しちゃうのが怖いの?」

「そうよ。怖いの」

「でも、お父さんはまた観たいって思ってるよ。きっと」



結局翡翠は娘の皐月に誘われてミュージカルを観に行き、大地を思い出して泣いてしまう。その描写はまさに麻友菜の演技力の高さを物語っていて、舞台袖で見ていた劇団員も涙を流すほどだった。



翡翠はそして帰路につく。ここからはラストシーンだ。

翡翠と皐月、それに葉太の三人は桜並木を歩く。



「今日は誘ってくれてありがとう。皐月」

「うん。お母さんとお父さんのルーツを知れて良かった」

「桜並木のミュージカルを観て思うの。あんなふうに大地さんもミュージカルになって、劇中で生き続けられたらって」

「お母さん……」

「大地さんの生きた軌跡を歌と劇で残せたらなって。素敵だと思わない?」

「わたし、脚本書いてみるよ」

「ええ。いつか大地さんの人生がミュージカルになることを楽しみにしてるわ。たとえ大地さんの人生が短いものだったとしても。大地さんは確実に存在していた。わたしに宝物をくれた」

「宝物?」

「そう。澄み渡る水のような愛情と、かけがえのない愛の結晶。あなた達よ」



桜並木の下で三人の家族は笑いあって、幸せな時間を過ごす。

皐月が翡翠の手を引き、桜並木を歩くシーンになる。三人は力強く生きることを誓って、今日も変わらずに幸せに過ごしている



なんとも腑に落ちない脚本だった。どこか影山樹らしくない。だが、拍手喝采でステージには幕が下りて、カーテンコールが鳴り止まなかった。









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