#71 浴衣@一泊旅行中編



まさかあんな乗り物で気分が悪くなるとは思ってもみなかった。

麻友菜に幻滅されたと思ったが、意外にもそうでもなかったらしい。俺の弱点を知れてよかったと喜んでいる様子からして、弱点だらけの俺のことを麻友菜は買いかぶりすぎだろうと思う。



麻友菜が膝枕をしてくれて、少し横になっていると気分もだいぶ落ち着いてきた。



「風邪で看病してくれたときのこと思い出しちゃった」

「バレンタインの日あたりのことか?」

「うん。立場逆転だよね。弱っている春輝見てると守ってあげたくなっちゃうっていうか」

「……俺の場合はそこまでじゃないぞ?」

「顔真っ青だった人の言うセリフじゃないよ?」



麻友菜は俺を見下ろして微笑んだ。



三〇分くらい経って、ようやく観覧車に乗る運びとなる。平日で人も少ないために並ぶようなことはなく、すんなりと観覧車に乗り込んで麻友菜と向かい合って座った。徐々に高度が上がり、やがてさっきまでいた古民家やチューリップの咲いているたまごの森、それからネモフィラの咲く丘が見えてくる。



「うわ〜〜〜景色が神じゃん」

「思った以上に絶景だな」



午後の澄んだ日差しの光が差して、かなり眩しい。その光を直視しないように俺が横を向いて景色を見ていると、麻友菜が身を乗り出してきて俺の頬にキスをした。



「? いきなりどうした?」

「春輝がいけないんだもん」

「ん? 意味が分からないんだが」

「瞳に光が入って、水晶みたいですごくキレイで」

「いや、だからどういうことだ?」

「なんて説明していいのか分からないんだけどね」



麻友菜は俺の隣に座って今度は唇にキスをする。俺も応えるように麻友菜を抱きしめた。



「わたし、こんな素敵な人と付き合っているんだって思ったら、キスしたくなったの」

「……ん? どういうことだ?」

「今日一日振り返って、付き合いたてのカップルを見て、プロポーズに遭遇しちゃって、それで赤ちゃんと三人で来ている家族、それから中高年の夫婦、最後に老夫婦を見ていたら……なんだか自分と重なっちゃって」



このまま破局せずに運命をともにするとしたら、間違いなく俺たちの辿る末は最後に見た老夫婦の姿だ。理想の結末と言える。もちろん、俺も目指す未来はそこだし、麻友菜も同じなのだろうと思う。



「それは分かる」

「だから、なんとなく春輝との出会いから今までを思い出しちゃって。考えても春輝の欠点がなにもないの。それに気持ちが覚めるどころか、ずっと好きって気持ちが不変ってすごいことだなって」

「それでキスがしたくなったと?」

「うん。ダメ?」

「ダメではない。俺も気持ちは同じだからな」



今度は俺からキスをした。強く抱きしめて。ちょうど観覧車が円の一番上に来たときに窓ガラスに反射する光が麻友菜の横顔をわずかに橙色に染め上げる。



「麻友菜エキスが足りないな」

「あ。それわたしのパクリじゃん」

「俺はサキュバスじゃないぞ」

「ねえ、春輝」

「ん?」

「いつまでこうしてイチャイチャしていられるかな」

「別にいつまでだってできるだろ」

「うん。そうだよね。もしクラス別々になっちゃっても、気持ちは変わらないよね?」

「変わるわけないだろ。そんなに弱気になるな」



麻友菜の頭を撫でながら、再び華奢な身体を抱きしめる。麻友菜の感触も香りも愛おしくて観覧車が地上に着く寸前までそうして体温を共有した。



海浜公園を出る頃にはすでに午後三時を過ぎていた。春休みということで麻友菜はお泊り旅行をすると言って弓子さんに許可をもらっている。ちなみに海浜公園から温泉まではかなり遠く、まずバスで駅まで向かい、そこから常磐線で水戸に着いてからローカル線を乗り継がなくてはいけない。



それで、ローカル線に乗ったのは俺も麻友菜も何気にはじめての経験で、車窓の外の景色に二人して感嘆の声を上げた。



「すごく綺麗~~~青々としてるね」

「ん。奥多摩を想像していたが、ちょっと違うな」

「うん」



そして車両には誰も乗っていない。驚くほどに利用者がおらず、もはや俺と麻友菜の貸し切りだった。座席の外をじっと眺めて、麻友菜はキャッキャとはしゃいでいる。まるで小学生のようだが、気持ちは分かる。進めば進むほど綺麗な田舎の風景になっていく様子は飽きない。



「ねね、春輝」

「ん?」

「電車の旅もなかなかいいね。高校卒業したらもっと遠くに行こう?」

「気が早いな」

「うん。こういう景色もっと見たいなって」



人混みの嫌いな麻友菜は、静かな田舎が好きなのだろう。かくいう俺もそうなのだが、実際に見るのと住むのではだいぶ違いがある。例えば、食材を買うにしても東京のように近場に足を運べばなんでも揃うような環境ではない。生協などで運んでもらうか、車で遠出をしなければ食材一つ買えない環境では移住もなかなか難しいと思う。



だが、たまにリフレッシュに来る分には最高だろう。



「旅行ならいいかもな」

「うん。秘境の温泉宿とか行ってみたいよね」

「そうだな。今年の夏にでも計画して行ってみるか」

「うわ~~~楽しみになってきた」



水郡線に乗ること一時間ちょっと。日本三大名瀑の一つに数えられる滝が有名な場所で山間部の奥久慈に位置する。駅からタクシーに乗って五分。驚くことにコンビニ一つない。だが、風光明媚な渓流の見える旅館はテンションが上がる。



本日宿泊する旅館は清潔感があって、田舎ながらも意外にもモダンな造りだった。チェックインを済ませて(那須にグランピングに行ったときも同様だが、これは親権者の同意が必要で、俺は母さんから、麻友菜は弓子さんからそれぞれ同意書に同意のサインをもらってある)、まずは部屋に入る。



「プレミアムって名前が付いているだけあって、確かにプレミアムだね」

「そうだろうな。バイト代貯めておいて良かったな」

「ほんとに。驚きの広さと奥ゆかしさと、大正ロマンなんですけど。本当によく見つけたよね、わたし」

「ん。偉い偉い」



部屋に入ってすぐに麻友菜の頭を撫でてやると、麻友菜は嬉しそうに「えへへ」と笑った。そして大仰な仕草で手を広げて俺を抱きしめてくる。そして、俺から離れたかと思うと、麻友菜ははしゃいで小躍りをするようにくるりとその場で回った。



「この部屋好き。あ〜〜〜無駄に筋トレとかしたくなってくるね」

「よく分からないが、テンションが上がることはわかった。筋トレはしなくていい」

「冗談だって」

「冗談じゃなかったら怖い」



もっとも、テンションが上がる理由はモダンな部屋の造りだけではない。麻友菜が窓に張り付いて外を見ている。その視線の先にはテラス。そして、なんと部屋付きの露天風呂。緑豊かな渓谷を見下ろしながら温泉に入れるという贅沢な造りに、麻友菜は「早く入りたい」と心を踊らせている様子だった。



「でも、まずは大浴場に行きたくないか?」

「うん、いこいこっ! でも混浴じゃないんだよね?」

「間違いなく混浴ではないな」

「温泉から出ても、春輝待っていてくれるよね?」

「分かった」

「先に部屋に戻っちゃダメだからね?」

「ん。大丈夫だ」



さっそく温泉に向かい、渓流のそばに造られた露天温泉を堪能する。川のせせらぎの音を聴きながら温泉に浸かると気持ちがいい。確かにこれなら麻友菜と一緒に入りたかったな。別に変な意味ではなく、話をしながら楽しみたかった。



ああ、そうか。俺ははしゃいでいる麻友菜の姿を見るのが好きなんだ。麻友菜が幸せだと俺も気分がいい。幸せになれる。元気な麻友菜の姿に癒やされているんだった。忘れていたわけではないが、このわずかな一人の時間に思い知らされる。



クラスが別々になったとき、麻友菜との会話は確実に減ってしまう。考えてみたら寂しい。登下校中や昼休みには会えるだろうと思っていたが、この短時間で麻友菜のいない世界を思い知らされるのだから、別々の教室に属することを想像するだけで切なくなる。



温泉から上がると予想通り長風呂のようで、麻友菜の姿は見当たらない。家で風呂に入っているときも、二人で入ろうが一人だろうが麻友菜の入浴時間はかなり長い。そんな状況を思い浮かべながら湯上り処でスマホを見ていると、従業員らしき着物を着た若い女性に話しかけられた。



「お客さん東京の人ですか?」

「ええ。そうですが」

「やっぱり垢抜けていますね」

「……そうですか?」



垢抜けているとかまったくそんなことはなく、旅館の浴衣着用のために誰が着ても同じようになると思う。しかも、風呂上がりで軽く髪を乾かしてきたものの、まだ湿っている。どこに垢抜けている要素があるのかさっぱり分からない。



「ええ。こんなイケメンな人、なかなかいないですから」

「……いえ」

「ここ、見ての通り田舎ですもん。春休み使ってバイトしてますけど、水戸からここまで一時間以上掛かる上に話し相手もいなくてストレス溜まっちゃって」

「そうなんですか? もしかして高校生ですか?」

「そうですよ~~~。お兄さんもそうですよね?」

「ええ……」

「東京かぁ。いいな~~~あ、そうだ。今度東京に遊びに行くんで、一緒に遊んでくれませんか?」



もしかして地元女子高生にナンパをされているのか。恐ろしく強引で、グイグイくるタイプの子のようで俺は苦手だ。湯処のゴミ箱のごみ収集といった雑用係のようだが、どう見ても暇を持て余している。俺の他に客はいない上に、年齢も近いために話し相手(暇つぶし相手)にはもってこいだと思ったのかもしれない。



「春輝?」

「ああ、麻友菜」

「え? もしかして彼女さんですか?」

「はい。そうですが」

「そっか。悪いことしちゃいましたね」



地元バイトのJKはそそくさと逃げていった。



「……ナンパされてたでしょ?」

「いや……」

「暖簾くぐったあたりから話し声聞こえてきたもん」

「悪かった」

「別に春輝は何も悪くないじゃん。でもさ」

「……ん」

「ずるい。わたしの彼氏なのに」

「だから、悪かった。ごめん」

「これだから春輝は……。一人にするとこれだもん」



不機嫌なのかと思ったが、そうでもないらしく「行こっ」と俺の腕に自分の腕を絡ませて、麻友菜はすたすたと歩いていく。



「やっぱり同じクラスがいい」



麻友菜がボソっとつぶやいた。なんとも考えていることがタイムリーに似通っているあたり、俺と思考が重なっている。テレパシーで繋がっているんじゃないかと思うくらいに麻友菜と俺は以心伝心していることが多い。



「そうだな」



麻友菜は繋いだ手を強く握った。



「麻友菜」

「なに?」

「浴衣可愛いな。髪上げたところもすごく良い。うなじが好きだ。食べたいくらいに」

「食べたいってわたし食料じゃないからねっ?」

「麻友菜の首が細くて、なんていうか。食べたくなった。つまり食料だろ」

「食料って。春輝は人食い鬼かなにかの末裔なわけ?」

「実は隠していたが……」



俺の手を離して、麻友菜はわざとらしく「きゃ〜〜〜」と棒読みセリフを発して小走りで廊下を駆けていく。俺はその後を追いかける。割と本気で走って、後ろから抱きしめてうなじにキスをした。



「た、食べないで〜〜〜」

「骨の髄まで貪り尽くしてやる」

「ひぃ〜〜〜」



じゃれ合っていると廊下の向こうから別のお客さんが歩いてきて、こっちをガン見していた。慌てて俺と麻友菜は離れてなんでもなかったように装う。客が通り過ぎたところで、



「……危なかったな。本気で通報されるかと思った」

「ぷっ。あははは、春輝面白い〜〜〜」

「不審者だと思われただろ」

「いや、あのお客さん本当に鬼狩りだったのかも。それで怪しい鬼の気配を察して、お客さんに扮して様子を見に来たとか」

「そうか。それで浴衣の背中に刀を隠し持っていたんだな」

「うん。妖刀ムラサメの気配があったもん。良かったね。伝説の人食い鬼春輝が真っ二つにされなくて」

「ああ。危なかったな」



冗談を言い合ってまた二人で吹き出した。



「麻友菜のうなじが食べたいほど可愛いって話は冗談じゃないぞ?」

「じゃあ、夜いっぱい可愛がってくれる?」

「ん。分かった」

「その言葉約束だからね?」

「ああ」



その後、一度部屋に戻ってから夕飯の会場に向かう。食事が美味くて有名らしいから、俺も麻友菜も割と楽しみにしていた。渓流、田舎、滝、ロマンあふれる旅館と言えば、食事が美味いと相場が決まっている。と、誰かのインスタに書いてあった。



食事処に行ってみるとどうやらビュッフェ形式らしく、普段から外食をしない俺からするとあまりこういうのに慣れていない。予想通り麻友菜も同じだったようで、他の客の見様見真似で並んでいる料理をトレイに乗せていくとつい取りすぎてしまう。天ぷらに蕎麦、うどん、にぎり寿司、刺し身、それから牛肉。



「おいしい~~~」

「天ぷらも揚げ方がうまいな。サクサクだ」

「茨城って蕎麦が有名なんだって」

「常陸秋蕎麦か」

「そう、それ。シーズンに食べてみたいよね」

「ん。また来ればいい」

「うん、また来よう。今度は人食い鬼と、人食い鬼に拾われた捨て子のヒロインがなぜか食べられずに育てられて旅しているっていう設定で」

「どこかで聞いたことのあるような設定だな」



ビュッフェ形式の料理を作るときの勉強にもなった。特に盛り付け方だ。ただ皿に乗せればいいというわけではなく、いかに綺麗に見せるかも料理のうちだと思っているが、ビュッフェは料理が少なくなったら、一度下げて大盛りにして出さなければならない。それをしなければ客に取られた皿はあまりにも貧相に見えて、金を出してまで料理を食べに来ているというプレミアム感が希薄になるのだろう。



この旅館は度のタイミングで料理を見ても大盛りになっている。



「ああ〜〜〜食べすぎちゃったなぁ」

「つい取りすぎるな。だが、美味かったから満足した」

「うん。予想以上だったね」



料理を食べ終えて部屋に戻る。ここからはなんの予定もない。麻友菜と二人きりの時間だ。部屋に戻って食休みをし、しばらくすると麻友菜は俺の手を引いた。



「どうした?」

「夜はいっぱい可愛がってくれるんでしょ?」

「確かにそう言ったが」

「まずは、一緒に露天風呂入ろ?」



麻友菜は帯を解いて、浴衣を脱いだ。








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