#69 愛情シチュー@ミュージカル出演依頼



麻友菜のいない教室には懐かしさを覚える。

麻友菜と偽装交際をする前はいつもこんな感じだった。あの頃よりは話しかけられる回数も多くなったものの、それは麻友菜の影響が大きい。



高山や砂川さんからは話しかけられるが、それでも俺の口数はいつもより少なくなる。話す理由が何一つない。



昼休みはいつもどおり屋上の廃プールの更衣室で過ごそうと思う。教室にいても、話すのが面倒だからだ。麻友菜がいなければ、俺はあの頃と何一つ変わっていない。



東の階段を上っていると踊り場で見覚えのある女子が壁に背を預けて立っていた。そのメガネを掛けた小柄な女子は、俺が学校の中で一番面倒だと思っている子だ。



「やあ。並木氏じゃないか」

「他人の空似だろ」

「待てって。待ってくれよ」



俺が階段を上ろうとすると、後ろから両手で俺の腕をホールドしてくる。麻友菜よりも小柄で、同じくらいに華奢なために影山はそのまま持ち上がってしまう。まるで休日の公園でよく見る父親と幼児のようだ。



「うわぁぁ、何をする?」

「それはこっちのセリフだ」

「ボクは並木氏に話したいことがあるだけなのに」

「俺はない。じゃあな」

「待ってくれよ~~~お願いだ」

「断る」



影山はしつこく付いてきて、このままだと麻友菜との二人の秘密の場所である、屋上の廃プールの存在が影山に露見してしまう。そうなると毎日しつこく追いかけてくる可能性が高い。



「……分かった。それで要件はなんだ?」

「場所を変えて話したい」



三階の教室から階段を下ってくる三年生が多い。影山はこれでも四天王の一人にカウントされている美少女で間違いない。俺は四天王の一人の麻友菜の彼氏だから、その俺が影山と親密に話をしているとなるとそれなりに目立つ。三年生から向けられる視線が痛い。



「分かった」



結局体育館の裏というベタな場所を影山は指定してきた。俺が先に行き、影山が時間差で来る算段。その協力者として影山の弟が見張りをしてくれることになり、姉に強制的に使われる弟が不憫で仕方ないが、どうやらかなりのシスコンらしく本人は嫌な素振りを見せないあたりうまく使われているのだろう。



体育館裏は意外と綺麗で、アスファルト舗装がされている。災害時のための備蓄倉庫があり、納品するトラックが入ることがあるためだ。日当たりも悪くない。ただ、日は当たっていても今日はいつも以上に寒い。



「それで?」

「こほん。並木氏、頼みがある」

「またか。断る」

「先日のミュージカルの件なんだ」

「だから、それは麻友菜に直接言え」

「そうじゃなくて、君にお願いしているんだ」

「……ん? なんで俺が出なきゃいけない」

「そもそも霧島氏が恋人役をしないかぎり君は絶対に出てくれないだろうと思ってね」



影山は仰々しく右手を胸に置き、左手を空に掲げて顔を上げる。ミュージカルというよりは、まるでオペラのソプラノ歌手のような仕草だ。いちいち身振り手振りが演技っぽくて鼻につく。



「それに、この前の病院の件はなんだ? クリスマスパーティーのときの話は嘘なのか?」

「……それは悪かったよ。君の気を引きたかっただけ、なんて言ったら怒るかい?」

「正直どうでもいい」

「母は……本当は交通事故じゃなくて過労で倒れたんだ」

「そうか」

「知っての通り、ボクは作家を生業としているけれど、稼ぎはそこまで良くない。ボクと弟の学費を稼ぐだけで精一杯なんだ。生活費は家賃に水道光熱費、それから食費、通信費、その他諸々掛かるだろ。この物価高で東京で生活するにはキツすぎると思わないか?」

「なぜ私立に入ったんだ?」

「分かってるよ。ボクたちにとって、この学校が不相応なことくらい。だから、春になったら転校するつもりだ」

「弟と二人でか?」

「そうだよ。もう限界だ」



生活がままならないから転校する、か。私立であっても教育無償化が進められているが、その他にも意外と金はかかる。教育無償化とはあくまでも授業料が免除されるだけであって、施設整備費や積立金、交通費(定期代等)は問答無用に請求される。それも少ない額ではない。それがあるから綺麗な校舎を使えるし、最先端の機器を駆使して授業を受けられて、林間学校や修学旅行に行けるのだ。



それを考えると、何も言わず私立に入学させてくれた母さんには感謝しかないな。



「嘘じゃないだろうな?」

「交通事故の件は謝る。まさか母が過労で倒れたなんて言えるわけないだろ」

「そうか?」

「母が倒れるまで働いているのに、ボクと弟はのほほんと私立の高校に通っているなんて、人間性を疑われても仕方ない」

「そんなことないんじゃないのか?」



受けたい教育を受けるのに貧富の差があってはならない。理想論かもしれないが、本来はそうあるべきだと思う。特に、影山のような学年で常に三位以内をキープしている優秀な生徒なら、高度な教育を受けて然るべきなのだ。



「そんなことがあるのが社会というものじゃないか。金がなければ息を吸うことも許されないのが社会というもの。教育というものは昔から特権階級のための知的財産であって、貧しい者はそれすら所有することは許されない」

「ずいぶんと偏っているな。俺はそうは思わないが」

「そうかい? 人権、権利擁護を叫ぶなら、まずは貧困をなくすことからはじめなければならないだろ?」

「ん。人権とか権利とかは知らないが、貧困はなくならない」

「そうだな。君は随分とドライだね」

「それで、本題を話せ」

「うん。ボクは母に感謝の意を込めてミュージカルをしたい」

「そんなの自分の言葉で伝えれば伝わるだろ」



真心があれば、肉親なのだから伝わるはず。



「君の生みの親はボクの脚本の劇を観てどう思ったんだい?」

「……なかなか卑怯だな」

「本当はノンフィクションを書きながら、ボクの心を綴ろうと思ったんだ」

「それがなんでミュージカルになった?」

「ボクの母と父のはじめてのデートがミュージカルだったらしいんだ」

「ん。それでミュージカルか?」



なにも心の傷を抉らなくてもいいんじゃないかと思うが。感謝を伝えたいのか、死んだ父親の幻影を見せたいのか、今ひとつ分からない内容になりそうな気もする。だが、おそらく影山はなにか考えがあるのだろう。



「運命は出会い。そうなんだろう?」

「ああ。そうだな」

「“あなたがこの世界から消えても、僕はあなたを絶対に忘れません。僕はあなたの生きた証です。もしこの世界に未練があっても悲観しないで。きっと、また会えるから”」



『眠りの古城、廻る運命』で咄嗟にアドリブで言った俺のセリフだ。



「よく一言一句覚えているな」

「ボクはあの言葉を聞いて、君を主人公にしたかった。だから霧島氏を誘ったんだ。彼女がヒロインなら君が出ないわけにはいかないだろう? キスシーンなんてあったら発狂するんじゃないのかい?」

「……どうだろうな」



影山はやはり嫌いだ。人の弱みを握るのがうまい。



「今回は社会人サークルにお願いしてあるんだ。舞台も完璧だし、お金も取るつもりなんだ。もし出てくれるならちゃんと報酬も支払う。だから、頼む」



影山はそう言って地面に膝を付けて、そのまま土下座をした。いつになく真剣な顔で頭をアスファルトに擦り付ける。いったいなにが影山をそこまで突き動かすのだろうか。俺なんかよりも素晴らしい役者は沢山いる。むしろ、俺は演技が得意ではないというのに。



「訊いていいか」

「なんだい?」

「俺の何がいい?」

「君は悲しみを知っている。愛情を知っている」

「それくらい知っているヤツなんていくらでも」

「君じゃなければ……ダメなんだよ。ダメなんだ」



影山の声がかすれている。体を小刻みに震わせていた。土下座したまま顔を地面に付けて。



「演技……ではないな。俺は影山の事情は知らない。お前が何を考えているのか、何がしたいのか分からない」



だが、母親のためだと言うことは理解できる。だが、影山の嘘を俺は見抜けなかった。今回も騙されているかもしれない。



「ここまでしてもダメなのか……」

「悪いな。俺はお人好しではない」

「分かった。ごめん。しつこくて、本当にごめん。迷惑だったと思うよ」



影山が顔を上げると、涙と洟でグシャグシャになっていた。演技でここまでできるものなのだろうか。



「お姉ちゃんッ!!」

実緑みろく!!」



見張りをしていたはずの影山実緑(樹の弟)が影山の姿を見て、いてもたってもいられなくなったのか飛び出してきた。確かに尋常じゃない光景で、傍から見れば俺がいびり倒して泣かせたようにも見えなくない。



「先輩とはいえ、お姉ちゃんを泣かせるやつは絶対に許さない」

「待て。俺は」

「ミロク、やめて」

「やめない。僕は姉ちゃんを絶対に幸せにするって決めてるんだ。その障害になるなら、僕はどんなに強い相手だって、」



影山弟の目つきは本物だ。本気で言っているし、本気で殴ってきそうな勢いはある。覚悟を決めている目だし、俺が麻友菜を守るときもおそらくこんな顔をしているんだろうな。もし麻友菜がどこの馬の骨か分からないような男に泣かされたら、影山弟のような自制心は俺にはないかもしれない。



「分かった。弟に免じて考えてやる。ただし、俺が出演するのは麻友菜が首を縦に振ったときだけだ。麻友菜が拒否した場合、俺も出ることはない」

「うん……それでいい。並木氏」

「ん?」

「ありがとう。もし君が出てくれたら、ボクは一生君のことを忘れない」

「……大げさじゃないか?」

「大げさなんだ。ボクはそういう性格だから」



俺は影山の顔を見て確信した。影山がまだなにか嘘をついているのは間違いない。ミュージカルくらいでこんなに泣くようなことは絶対にない。泣き顔が本物だからこそだ。いったいなぜそこまでミュージカルと母親にこだわるのか。理解に苦しむ。この話を麻友菜にすればおそらく協力すると言うんだろうな。



ああ、気が重い。



午後の授業を経て帰宅すると、マスク姿の麻友菜がキッチンで料理をしていた。見た感じからするとほぼ快復したらしい。



「おかえりなさいませ。ご主人様っ!」

「ん。ただいま」



髪を結ってエプロン姿の麻友菜は、まるで新妻のようだ。学校にいる間に見なかっただけでこんなにも新鮮に感じるあたり、普段から一緒にいる時間が多いことに気付かされる。普段は学校から帰ってもバイトも一緒だし、夜は寝るまでビデオ通話を繋げっぱなし。だから、麻友菜と共有する時間が一日のほとんどを占めている。



「麻友菜、可愛いな」

「えっ?」



つい本音が漏れてしまった。麻友菜の背後に立ち、後ろから抱きしめる。この匂いと感触、それから声。やっぱり麻友菜は良い。癒やされる。



「ちょっと、どうしたの?」

「なんとなく。イヤか?」

「イヤなわけないじゃん」

「ちゃんと昼は食べたか?」

「うん。春輝が用意してくれていたから」



レンジで温めるだけにしておいた食事を冷蔵庫に入れておいた。それから、午後に食べるデザートも作っておいたし、特製のはちみつレモンも多めに作っておいた。冷蔵庫の中を確認すると綺麗になくなっている。食べてもらえて良かった。



「全部美味しかった。本当に過保護なんだから」

「ん。過保護なくらいでちょうどいいだろ」

「でも、いつの間に作ったの?」

「麻友菜が寝付いてから、起きて作った」

「もう~~~っ!! 無理しすぎ」

「無理なんてしてないぞ」



麻友菜の手元を見るとシチューを煮込んでいた。すでに牛乳を入れた後で、お玉でかき混ぜながら焦げないように煮込んでいる最中らしい。



「風邪引いているのに料理なんてして大丈夫なのか?」

「うん。おかげさまで。それに一度やってみたかったんだ」

「ん?」

「ご主人様の帰りを待つ新妻ごっこ」

「……そうか」

「あ、今、呆れたでしょっ!?」

「そんなことないぞ」

「ある」

「ない」

「絶対思ったよね?」



そっち方面の考えの人が聞いたら発狂しそうなセリフだが、そんなのは気持ちの問題だろうと思う。女が男のために料理を作っちゃいけないなんて決まりはない。作りたいという気持ちがあるからこそ、料理を作って帰りを待っているだけ。逆に男の俺がそれをしても問題はない。だって、そうだろう。好きな人の笑顔を見たい。喜ぶ顔を見たい。ただ、それだけなんだ。



「麻友菜、ありがとうな」

「いつも春輝がしてくれることじゃない」

「俺は麻友菜の笑顔を見たいだけだ」

「うん。知ってる。わたしもだもん」



ああ、やっぱり好きだ。麻友菜が好きすぎて止まらなくなる。風邪を引いていようが関係なく、俺は麻友菜のマスクを外してキスをした。



「うぅん……もうっ! 風邪感染ったらどうするの?」

「俺は風邪を引かないから大丈夫だ」

「そんなこと言ってると、いつか酷い目に遭っちゃうんだから」

「そのときはそのときだ」

「まったく。仕方ない子だな~~~」



そう言って麻友菜は俺の頬にキスをした。「せめて唇じゃなければ感染しないかなって」と言ったが、あまり関係ないような気がする。



麻友菜がシチューを作ってくれたから、俺はパンを焼いた。ちょうどフランスパンの買い置きがあり、みじん切りにしたニンニクをオリーブオイルで炒めて焼いたパンに落とす。固形バターが溶けて良い匂いに。シチューと合いそうだ。



「あぁ~~~食欲がそそられるね」

「これが食べられるんだったらもう大丈夫だな」



ダイニングテーブルに並んで座り、夕飯をいただくことに。シチューを一口食べてみる。麻友菜の料理はいつもうまい。今日は特にうまかった。俺が作るシチューなんかよりも断然うまくて驚く。



「うまいな。俺のレシピとは違うのか?」

「ううん。ベースは一緒。あとは春輝の帰りを待ちながら、ゆっくり煮込んだの。早く帰ってこないかなって」

「どれくらいだ?」

「……三時間くらい。弱火で」

「それはうまいはずだ……」



玉ねぎも入っているらしいが、すでに固形物ではなかったし、じゃがいももかなり小さくなっている。にんじんは口に入れた瞬間ふわっと溶けて、野菜の旨味が濃縮されていてかなり美味い。だが、三時間煮込む手間はかなりきついはず。



「よくそんなに煮込めたな」

「春輝は今なにをしているのかな~とか。帰ってきたらなにを話そうかな、とか。これを食べて美味しいって言ってくれる春輝の顔を想像したりとか。だから全然大変じゃなかったよ」

「そうか。俺はこんなに美味いシチュー食べたことない」



お世辞なんかじゃない。バレンタインのときのガトーショコラもそうだったが、麻友菜の料理は美味すぎる。俺の料理は、どうあがいても麻友菜の料理には勝てそうにもない。これで麻友菜が料理の知識をもっと深めたら、おそらく俺では太刀打ちできない。



「ほんと?」

「ん。本当だ」

「良かったぁ~~~~っ! 本当にうれしい」



おそらく、これが愛情の正体なんだろうな。

。それを立証したのは麻友菜自身だ。



「やっぱり……俺は麻友菜とずっと一緒にいたい」

「うん。そうするってずっと言ってるじゃん」

「俺が料理の道に進んだら、一緒に来てくれるか?」

「それもずっとそうするって言ってるじゃん」

「俺には麻友菜が必要だ。これは依存じゃない。麻友菜がいれば世界を相手にできる気がする」

「世界か~~~~大きいね」

「そうだな」



それにしても美味いな。



麻友菜のいない生活を体験して思ったことがある。

それは、麻友菜が俺にとって、恋人以上の存在だったこと。



「麻友菜」

「なに?」

「やっぱり好きだ」

「いきなりなに?」

「ダメか?」

「ううん。わたしも。大好き」



その夜は一晩中麻友菜を抱きしめて眠りについた。











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