#66 はちみつ大根@採血が怖いカノジョ


すごく寒い。身体が震えるくらいに寒気がする。目を開けるとオレンジの常夜灯の仄かな光だけが部屋を照らしていて、カーテンの隙間からは闇が溢れている気がした。スマホで時間を確認するとまだ三時すぎ。隣には春輝が静かに寝息を立てている。



春輝を起こさないようにベッドから立ち上がり、ふらつく体を支えるように壁伝いに部屋を出た。身体がだるいし、熱が上がっているんだと思う。それに喉が痛い。焼けるように熱い。扁桃腺が腫れちゃったのかな。せっかく春輝の家に泊まりに来たのに間が悪い。このタイミングで風邪引いちゃうなんて最悪すぎる。



冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、コップに注いでいると寝室から春輝が出てきた。



「ごめん。起こしちゃった?」

「いや。たまたまだ。それよりも体調はどうだ?」

「うん。喉が痛いのと身体がダルい」

「扁桃腺か」

「多分……」

「食欲はあるか?」

「ないかも」

「そうか。なら明日の朝起きてから食べられるものを仕込んでおくか」

「遅いからいいよ。わたしは大丈夫だから」



春輝はキッチンでなにか仕込みをするらしく、わたしを寝室に送り届けてまたキッチンに戻っていった。春輝がキッチンに立つならわたしも手伝いたいと思ったけど、さすがにその気力がなくてベッドに倒れ込む。ああ、熱のせいか頭がクラクラする。それに気持ち悪い。



ベッドに横になっても、一度目が覚めてしまったためになかなか寝付けない。体調が悪すぎて切ないこともそうだけど、それ以上にせっかくお泊りに来たのになにもできないことが寂しすぎて、涙が出ちゃう。うぅ、もう嫌だ。手洗いもうがいもちゃんとしているのに、なんで風邪なんか引いちゃうんだろう。



「はる……き……」



思った以上に声が出ない。春輝はわたしのために仕込みをしてくれているのに、そばに居て欲しいなんてワガママを言いたくなった。なにもしなくていいからそばで頭を撫でて欲しい。



「呼んだか?」

「はるきぃ……」

「どうした? 酷いのか?」

「ううん。近くに居て欲しいの」

「ああ、分かった」



蚊の鳴くような声だったにもかかわらず、春輝はキッチンから声を聞いてわたしのところに来てくれた。しかもなにも言っていないのに察してくれて頭を撫でてくれる。やっぱり以心伝心しているのかもしれない。頭に触れているだけなのに気持ちが楽になってくるから不思議。



「どこにも……いかないで」

「ん。悪かった」

「ごめん」

「なんで謝るんだ? 俺は感染らないから大丈夫だと言っただろ」

「違う。ワガママ言って」

「体調の悪いときくらいワガママ言ってもいいんじゃないか」



体調が悪くなくても、いつもワガママ言って春輝を振り回している気がする。春輝は体温計を手にして、わたしの脇の下に差し込む。数十秒で計り終えたときに、体温計を見た春輝が顔をしかめたのが分かった。まさかの三九度。こんなに高熱が出たのは小学生のとき以来かな。



コンビニ袋に入れた氷をタオルに包んで、脇の下を冷やしたほうが良いって挟んでくれる。それに冷えピタを首の両脇に貼って、掛け布団を一度捲りあげて何をするのかと思ったら、わたしのズボンに手をかけた。



「えっ?」

「悪い。でも足の付根に冷却ジェルを貼りたい。それとも自分でやるか?」

「……どこに貼ればいいの? でも……春輝なら見られてもいいよ?」

「ん。じゃあ少し下ろすぞ」



これが風邪じゃなければイチャイチャモードで楽しめたかもしれないけど、残念ながら今のわたしにその元気はなかった。それよりも一刻も早く解熱をして楽になりたい気持ちのほうが強い。



パンツ見られちゃうとか、そんなことはどうでもよくて。というか、一緒にお風呂に入っているんだから、こんなことで動じていてどうするのよ。



「少しくすぐったいぞ」

「ちょ、ちょっと」

「押さえたら貼れないだろ」



膝に手をかけて股を開かされた。これはさすがに恥ずかしい。常夜灯しか点けていないけれど、目が慣れているせいもあってばっちり見えているはず。春輝は冷えピタをそっとわたしの足の付け根に貼り付けた。その冷たさに思わず、



「あっ、んぅ……」



なんて変な声が出てしまう。しかもかなり際どい場所に春輝の手が触れた。あまりの恥ずかしさにわたしは両手で顔を覆うしかない。



「冷たすぎたり、痒くなったらすぐに剥がしたほうが良い」

「……うん」

「顔が赤くなってきたな。熱が上がってきたか」



もう……。そうじゃない。



そうじゃなくて、気恥ずかしいだけ。しかももう反対側まで貼ろうとしているから、わたしは起き上がって春輝から冷えピタを取り上げた。心の準備ができていないんだから、無理なものは無理。



「あとは自分でやる」

「ん。そうか」



思いの外、氷と冷えピタの効果が抜群で、身体が少しだけ楽になった気がする。春輝に顔を見せたくなくて背を向けた。そんなわたしの気持ちを知っているのかどうかは分からないけど、春輝はわたしの髪の毛をそっと撫でてくれる。



でも……やっぱり春輝の顔が見たくて、また寝返りを打った。



「春輝のえっち」

「……なんでそうなる?」

「あんなとこに貼るなんて思わなかったもん」

「解熱に効果があるんだから仕方ないだろ」

「分かってるよ」

「怒ったのか?」

「怒ってない」

「じゃあ、なんだ?」

「恥ずかしいだけ」

「そうか。悪かった」

「いいよ。その代わりいっぱい頭撫でて」

「ん。分かった」



わたしの隣に横になった春輝に抱きついた。風邪を感染しちゃうかもしれないけど、でも、今さら後の祭りだろうし、春輝に離れてって言ってもきっと離れないだろうからとことん甘えてやろうと思う。風邪のときくらいワガママ言ってもいいって春輝も自分で言っていたし。



「明日病院に行くか。土曜でも午前中は診療しているところあるだろ」

「イヤ」

「……なんで?」

「怖い」

「単なる風邪だろ」

「血液検査とか本当にムリ」

「……注射が嫌いなのか?」

「うん。前に下手な看護師さんに何回も刺されて、青あざみたいになったことあるの。そのときの痛さが忘れられないから」

「たまたまだろ。俺も付いていく」

「……うぅ、怖い」



これで両親が医療職とか、本当に笑えないと思う。

不安な気持ちのまま、けれど春輝が抱きしめてくれながら髪を梳いてくれるから、それが気持ちよくて意識が自然と遠のいていった。



目覚めるとすっかり朝で、となりにいたはずの春輝がいない。身体はずいぶんと楽になっていて、脇の下の氷と、首、足の付け根の冷えピタが効いたんだと思う。起き上がって立ってみるとフラフラはするものの、昨晩よりも身体は軽い。体温計で熱を測ってみると、



「……なんで三八度あるのよ」



こんなに調子が良いなら、病院なんていかなくてもいいんじゃないかと思ったけどやっぱり気のせいだった。唾を飲むと喉は大暴れするみたいに痛いし、少し咳が出そうな気がする。ああ、このままだと注射針の餌食になっちゃうじゃない。



「ああ、起きたか。おはよう」

「おはよう」

「朗報だ」

「? なに?」

「弓子さんに連絡したら、ちょうど今日は外来がやっているらしく、話を通しておいてくれるそうだ」

「えー……」

「嫌そうだな」

「だって、お父さんの病院じゃん」

「それが嫌なのか?」



下手すると入院させられそうだし、せっかくのお泊りなのに強制帰還させられるのは間違いないじゃん。春輝にこれ以上迷惑を掛けられないから仕方ないとは思うけど、でも、過保護な両親のことだから、ここぞとばかりに血液検査やらエコーやら、心電図やらさせられる気がする。



「……他の病院じゃダメ?」

「困ったな。弓子さんに相談した手前、今さら断れない」

「うぅ、行きたくない」

「麻友菜、聞け。俺も麻友菜のことが心配だ。麻友菜の両親がいる病院なら、いい加減な診察はしないだろうから、安心だろ。風邪なら風邪でいいが、もし他の病気が見つかったら大変だ。だから、ちゃんとした病院に連れていきたい」



ここにも過保護がいた。麻友菜ファーストで過保護彼氏の彼女バカだった。こうなると頑として聞かないんだろうな。だって、顔に心配ですって書いてあるもん。



「もう分かったよ」

「ん。なら準備する。とりあえずはちみつ大根とお粥は作ったから食べて」

「ありがとう」



この仕込んだはちみつ大根がとんでもなく美味しかった。たまご粥も上品な味がして、感動するほど。あぁ、春輝の彼女でわたし幸せです。



「麻友菜、食べ終わったらバイタル測定するぞ」

「え?」

「血圧に脈拍、それと体温にSPO2だ」

「……なんで?」

「病院に行くなら、それなりにデータを持っていったほうがいいだろ」



えっと。訪問看護のナースとかなのかな。春輝は機器を一式持ってきて、わたしのバイタルをノートに記入していく。よく見ると、昨晩寝ているときにも測ってくれていたらしく、二時間おきに記載されている。ということは、春輝はあまり眠れていないことになる。



「もう……どんだけ過保護なのよ」

「熱が三九度もあれば普通はこれくらいするだろ」

「する……のかな」



なんとか身体を奮い立たせて、歯磨きをして顔を洗い、髪型を整える。身だしなみだけはちゃんとしなければ出かける気はしない。そんなわたしを春輝は呆れながら見ていたけど、とくになにも言わなかった。部屋を出ると車が止められていて、ミーくんが運転席から顔を出した。



「麻友菜ちゃん久しぶり」

「ミー君、ごめんなさい。送迎してもらうことになっちゃって」

「いいって。風邪引いたんだって」

「はい」

「春輝がどうせエロいことさせたんだろ」

「させてない」

「どうだろうな。さて、ほら、寒いから乗って」



今日は外車のセダンだった。ミーくんの私有車らしく、わざわざわたしのために出してくれたとしたら、すごく申し訳ない。



「麻友菜、気にするな。ミーくんはなにかとドライブをする口実を作りたいだけだからな」

「そうそう。だから気にしなくていいって。麻友菜ちゃん気分悪かったら遠慮なく言って」

「はい、ありがとうございます」



病院まで電車で行くものだと思っていたから相応の覚悟はしていたけど、これならすごく助かる。ミーくんは嫌な顔一つせずに、冗談を言って笑わせてくれて、相変わらずのお調子者だった。本当に春輝の周りの人はみんな良い人。



病院に着いて、ミーくんはとんぼ返りをした。待っていてもいつ終わるかわからないし、もしかしたらわたしはこのまま病院に居残りになる可能性もある。だから待たせるのは忍びない。帰りはなんとかなる。



「え? 霧島氏と並木氏?」

「影山か?」

「いかにも影山だけど」



外来の待合室のベンチに春輝と二人で座っていると、影山さんと中年の女性が前を通りかかった。影山さんはすぐにわたし達に気づき声をかけてきたんだけど、なんだかいつもと様子が違う気がする。



「樹、こちらの方は?」

「あぁ、えっと、同じ学校の霧島さんと並木さん」

「そう。いつも娘がお世話になっております」



一緒にいた中年の女性は、影山さんのお母さんだったらしい。とても丁寧な方で、わざわざ頭を下げてくれた。わたしと春輝も立ち上がって、「こちらこそ」と挨拶をする。



「もしかして、交通事故の後遺症ですか?」

「交通事故?」



交通事故?



春輝が訊くと、影山さんのお母さんは訝しむように眉をひそめた。そのとなりで、



いったい、なにがあったんだろう?







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