#46 意思伝達装置@親友として
母の車に麻友菜と二人行き先も告げられないまま乗せられて、着いたのは多摩地区のある場所だった。
俺を生んだ女性——
駐車場に車を停めて、マンションのような建物を見上げる。マンションにしては造りに違和感があるし、じゃあなんだと問われても俺には分からない。意外にも麻友菜の家から近く、偶然にも麻友菜この場所を知っているようだった。
「わたし中学生のとき、この道を歩いていました」
「麻友菜ちゃんの中学校ってこのあたりなの?」
「はい」
新宿から京王線で麻友菜を送っていて、確かにこのあたりは見覚えがある。一本向こう側の道に行けば、麻友菜を送り迎えしているいつもの道にぶつかるだろう。幾度となく麻友菜と手をつなぎ歩いた近くに俺を生んだ女性がいたとなると、なんだか世界が狭く感じる。
「そう。なにか縁があるのかもね」
「……それで、ここは?」
「入れば分かるわよ」
正門を潜り抜けて、正面入口の自動ドアを入る。受付で面会申込書に記載し、スタッフに案内されてエレベーターに乗って三階まで移動すると、大きな窓から光の差す広い空間が目の前に広がっていた。そこには車椅子の人が多くいて、みんなテレビを観たりスタッフと歓談したりしていた。
「こちらになります」
「ありがとう。春輝、麻友菜ちゃん、そこのアルコールで手指の消毒してね」
「はい」
「ん」
そして小谷小夜の名前のプレートの部屋の中に入ると、ギャッジアップしたベッドに身を預ける女性が虚ろな瞳でテレビを観ていた。見るに耐えないほど痩せていて、とても母と同じ年齢には見えない。顔の前にはノートパソコンが置かれている。これは意思疎通をするための装置なんだと母さんが教えてくれた。
「小夜、春輝とその恋人の麻友菜ちゃんよ。春輝に恋人ができるくらいに大きくなって驚いたでしょ?」
「はじめまして、春輝にはいつもお世話になっております。霧島麻友菜です」
「……母さん、これは?」
「神経が筋肉に伝わらなくなって、筋肉が衰えちゃう病気なの」
「ん。そうか」
小谷小夜の意思疎通のための装置は視線をノートパソコンのディスプレイが読み取り、そこから自動で文字入力をし、自動音声を発することができるらしい。つまり、そうなると小谷小夜は話せないということになる。足の先から筋肉が衰え、徐々に病魔に侵されて、今では全身の筋肉が衰えてしまっている。声を出すことも顔を動かすこともできないらしい。呼吸はかろうじてできているが、酸素ボンベは外せないのだとか。
『キテクレテアリガトウ。ハルキクン、マユナチャン、イソガシイノニゴメンネ』
無機質な音声が部屋の中に響く。あまりにも抑揚のない声で、思わずふざけているのかと言いたくなるほど感情のこもっていない声だった。一昔前の自動読み上げのような機械的音声のために、薄っすらと不気味に思えてしまう。
「春輝、小夜はね、春輝と会わないつもりだったの」
「……ん。俺は別に……なにも気にしていない」
小谷小夜がどう思おうと俺にとってはもはや関係がない。ここにいるのは母さん——並木秋子のためだ。それは揺るがない事実で、母さんの意志が介入していなければ俺は小谷小夜に会っていない。冷酷かもしれないが、俺は嘘をつきたくない。
「私は小夜と春輝に謝らなくちゃいけない」
「? なにを?」
「小夜、春輝と麻友菜ちゃんにはすべてを話して構わないのよね?」
『カマワナイ』
母さんは静かに話し始めた。
今から一八年前。
当時の小夜は若さゆえに無謀な性格で、キャバクラと風俗を掛け持ちしていたの。
そんな小夜のことを私は許せなかった。一緒に地方から上京していつか東京で成功しようって約束をしていたのに、いつの間にか小夜は五〇〇万円もの借金を作っていて、とてもじゃないけど生活できないくらいに困窮していたの。本人は借金を作った理由を語ろうとはしなかった。どうせ、ホストにでも遊びに行って湯水のごとくお金を使ってしまったのだろうと私は思っていた。
私はこんなにもひたすら仕事をしてお金を貯めているのに。なんてストレスが私の中に蓄積されていった。そんなある日のこと。
——小夜の妊娠が発覚した。
すでに堕胎できないほどにお腹の子は大きくなっていて、生む以外の選択肢はなかった。私は許せなかった。自分勝手に遊び回り借金を作って、挙句の果てにどこかの男との間に子どもができたなんて。男は客の誰かだろうということだったけど、特定なんてできるはずもなく、ふざけるなと言いたかった。とてもじゃないけれど、小夜に子どもなんて育てられるはずはなかった。話を聞いた私は思わず怒鳴って平手打ちして、
『あんたなんか消えろ。無責任で自分勝手で、一緒に叶えようって言った夢も忘れて。馬鹿じゃないの』
考えてみれば小夜も限界だったのだと思う。小夜は私が引き金となって心がポッキリ折れてしまったのだろう。
——まだ一歳にもならない春輝を連れていなくなってしまった。
数日経っても帰ってこない小夜のことが心配になった私は、吹雪のネットワークも借りてなんとか探し出すことに成功した。
小夜が見つかったのは地方の風俗店だった。そこにいたのは抜け殻のような小夜の姿で身も心もボロボロ。春輝はかろうじて餓死していなかったけど、栄養状態はあまりよくなかった。異常行動も見られた小夜を精神病院に入院させて、私は春輝を引き取る決意をした。春輝が無事で本当によかった。
私は仕事をしながら春輝を育てた。春輝には悪いと思ったけど、自分の夢も諦めきれなかった。当時、ようやく自分のお店を持てることになった私は多忙だったけど、なんとか春輝には不自由させないようにして、お店の子たちにも協力してもらって育ててきた。
吹雪が小夜のことを調べるに連れて、やがて一つの真実が明らかになった。
小夜が借金を作ったのは……小夜のお母さんの病気を治したいがためだった。
小夜に嘘をついて騙したのはある新興宗教のせいだと分かったの。借金の理由はお布施で、非科学的で決して治ることのない水を買わされたり、数珠を買わされたり。あるいは祈祷だったり。そのせいで借金を作らされて。小夜の異常行動の原因は洗脳された末のもので、私は本当に許せなかった。
小夜が母親の病気を神頼みでもいいから治したくて、それで借金を作っているなんて一言も相談してくれなかった。
親友のわたしに。
「それって、つまり、春輝のおばあちゃんのことですか……?」
麻友菜の顔が青ざめていくのが分かった。
「……もしかして、この病気は遺伝なんですか……? じゃあ、春輝も……」
「そうね」
「え……」
麻友菜の顔が悲痛に歪む。俺を見て泣きそうな顔をしている。
「安心して。この病気は母親から男子には遺伝子ないから」
「そうですか……良かった。あ、ごめんなさい」
「それで、今の話のどこに母さんの謝るポイントがあった?」
「あのとき……わたしがちゃんと小夜の話を聞いてあげていれば、もっと違う結末にもなっただろうし、春輝も……」
「……それは別に母さんの責任ではないだろ。それに俺は……」
「ううん。小夜と春輝を狂わせたのは……あんなことを言って小夜を追い詰めた私だもの。そう思わなかった日はなかったの。小夜、春輝、本当にごめんなさい」
「秋子さん……」
麻友菜が勘づいていた、母さんの負い目はそれか。俺からすれば結果論であって、母さんが悪いことをしたとは思わない。だが、本人は
小谷小夜は自身の母(俺の祖母にあたる人)の病気に絶望をして、藁にも縋る思いで金を掛けて偽物の神に力を借りようとしてしまったということ。自身のキャパシティを大きく越えるほどの金銭を貢いでも、誰も救うことはできなかった。小谷小夜の母だけでなく、自分も、俺も(俺は並木秋子に拾われて幸せだったが)。
母さんが俺に、“自分の力以上のことをしようとするな”と言っていた意味が分かった気がする。借金をしてまでプレゼントを買わなくちゃいけないような相手とは絶対に付き合うな。そう教え込まれてきた。これは夜の街、たとえばキャバ嬢とかに貢ぐな、という意味で言っていたわけではなかったということか。
小谷小夜の反面教師というわけか。
「春輝には合わせる顔がないって小夜は言っていたけど、でも、それは痩せ我慢だったのでしょう? 最期くらい素直になりなさい」
『ソウダネ、アエテヨカッタ』
「あの……最期って? どういうことですか?」
「小夜は……もう末期だから。余命三ヶ月くらいって言われているわ」
「そんな……」
不思議なことに、俺はなにも感じなかった。小谷小夜が死ぬと言われても実感がないというのが本音だ。目の前の痩せた虚ろな目の人物は、俺を生んだ“血のつながる人”という肩書だけで、そこに母親という特別な感覚もなければ、感謝をするような人でもないような気がした。冷血なのかもしれないが、悲しいという感情が起こらない。
「悪いが、俺は……会っても別に」
「春輝はそれでいいの。言ったでしょ。私のために小夜と会ってほしいって。これはわたしのためだと思って。むしろ会う決断をしてくれただけでも嬉しいから」
『ハルキ、キテクレテアリガトウ』
「いや。俺は。正直、怒っているわけでもないし、悪いが、悲しみもない。自分でもよく分からないんだ」
「あの……春輝くんの前で差し出がましいかもしれませんが、わたしからいいですか?」
「うん。麻友菜ちゃんもありがとう。話してあげて」
「ありがとうございます。わたしは、小谷さんに一言お礼を言いたくて来ました」
麻友菜は「失礼します」と言って、小谷小夜に近づいた。
「小谷さん、わたしは……春輝を愛しています」
麻友菜は恥ずかしげもなく、胸の前で手を組んでうつむく。
「もし小谷さんがいなければ春輝は生まれていないでしょうし、春輝がいたからこそ、わたしは救われました。春輝は誰よりも優しくて、かっこよくて、頼もしくて。そんな春輝がいたからこそ、わたしは強くなれました」
麻友菜は一呼吸置いてから、再び口を開く。
「だから、春輝を生んでくれてありがとうございました。わたし、今、すごく幸せです」
「麻友菜ちゃん……」
「小谷さんがいたからこそ、わたしは幸せになりました。小谷さんのいたからこそ、わたしの大好きな春輝がいつも優しく微笑んでくれます」
小谷小夜の目から涙が一つこぼれた。
『コチラコソ、アリガトウ。マユナチャン、アナタニアエテヨカッタ』
結局俺は麻友菜のようにはいかず、大した話もできないまま部屋を後にした。そんな俺を母さんも麻友菜も責めようとはしなかった。
「霧島?」
「え? なんでここに?」
「なんでって……ボランティアだけど」
車椅子を押す宮崎優愛がいた。
「お友達? 先に車に戻るわね」
「ん。俺たちもすぐにいく」
母さんは気を利かせて一人エレベーターに乗っていく。優愛はジャージ姿で談話室にいる車椅子の人たちと話をしていた。
「うちの父親が先月の終わりにここで死んだんだ。コンテストのちょうど後くらいかな。
「ああ。まあ……」
結局事情を話した。話さずに変な勘ぐりを入れられても面倒だし、もしかしたらスタッフから聞かされるかもしれない。それならこちらから話したほうが早い。
「そうだったのか」
「優愛ちゃん、なにも知らなくて。ごめん」
「別にいいって。うちの父親はどうせ長くは持たなかったからな。事故って首から下が動かなくなって。バチが当たったんだよ」
「莉子は知っているのか?」
「もちろん知ってるよ。あいつ後悔してたみたいだからな。本当にバカだよ。親父も、莉子も」
「そう……」
「並木、お前、その人が死ぬって分かってるなら大事にしたほうがいいぞ」
「……なんでだ?」
「恨みがあっても、死んじまったら恨むこともできないし、結局死んだ後に後悔はするもんだからな」
優愛とは少しだけ話して、先に帰ることにした。
家まで送ってもらって、麻友菜とソファに座ってぐったりした。大したことはしていないのになぜか疲れている。精神的な疲労が大きいのだと思う。
麻友菜はそんな俺になにも言わずに抱きついて、しばらくそのまま麻友菜の体温を感じた。しばらくの間。ずっと。
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