#25 薄手のパーカー@カノジョの初体験



長かった髪を切ってショートボブになったけど、少し垂れ目の子には見覚えがあった。



——新井瑠奈あらいるなちゃん。



中学校のとき、莉子ちゃんと瑠奈ちゃんは些細なことでケンカをして不仲になり、その後、わたしが余計な一言を言ったせいで、莉子ちゃんの敵意の矛先がわたしに向いた。



莉子ちゃんが発した毒のような空気はクラス中に漂い始め、やがてわたしは空気となった。



「麻友菜、久しぶりじゃん。えっと、そっちの人は?」

「麻友菜の彼氏の並木春輝だ」

「彼氏……ガチで? めっちゃイケメンじゃんか。あたしは新井瑠奈。麻友菜と同じ中学出身」

「……それで瑠奈ちゃんはなんでわたしに?」



まさか瑠奈ちゃんが“空気”であるわたしに話しかけてくるわけがないのに。どうして?



「遊びに来たんだけど。あのさ、」

「な、なに?」

「少し話せる?」

「……うん」



瑠奈ちゃんは「ちょっと友達に話してくるから待ってて」と言って、小走りで離れた席に向かった。数人のJKらしき人たちが楽しそうに騒いでいる。



「同じ中学のヤツなんだろ? 大丈夫か?」

「……うん。ちょっと怖いけど、春輝が近くにいてくれるなら」



背中を汗が伝う。怖くて震えてくる。でも、そんなわたしの様子を見て春輝は手を握ってくれた。ただしっかりと握ってくれただけなのに、春輝が手を握ってくれるだけで心強い。



「心配するな。もし麻友菜に危害を加えようとしたり、不利益なことをしたりするなら、俺が容赦しない」

「うん。ありがとう」



戻ってきた瑠奈ちゃんは、「ごめん」と言いつつ、わたしと春輝の座る席の向かい側に腰掛けた。瑠奈ちゃんの表情はどこか柔らかく、中学のときとは少し雰囲気が違うような気がする。それに敵意が感じられない。



「それで、今さら麻友菜になんの話がある? 俺は麻友菜に話を聞いているし、場合によっては女だろうとただでは済まさないからな」

「彼氏さん怖いな」

「俺は心が狭いんだ。自分の大事にしてるものを傷つけるヤツは誰であろうと容赦しない。たとえ女だろうとな」



一瞬、春輝の目が据わった気がする。凍てつくような双眸そうぼうで瑠奈ちゃんを睨んだ。瞬間、瑠奈ちゃんは目をそらして、顔をひきつらせる。林間学校で村山に絡まれたときもそうだけど、春輝はわたしのことになると顔つきが変わる。



「違う。誤解しないで。別に麻友菜になにかしようと思って話しかけたわけじゃないから」

「じゃあ、なんだ?」

「あのさ、中学の頃のこと……謝りたくて」

「……瑠奈ちゃん、自覚はあったんだね?」

「今さら言い訳かもしれないけど、莉子に命令されてたっていうか」

「あの頃もそうじゃないかなって薄々感じてたよ。瑠奈ちゃんとケンカしたって莉子ちゃんが言っていたけど、本当はどうだったの?」

「ケンカじゃなくて、わたしが一方的に莉子にやられてたっていうのが正解だと思う。私さ、当時祐也くんに告られて。それから、莉子ちゃんが無視するようになって」



莉子ちゃんも瑠奈ちゃんもケンカなんてやめて、二人とも仲直りをしてほしい。今まで通りみんなで遊べるようになればいいなって。わたしは、ただそれだけを考えていた。だから、どちらか一方の肩を持つなんて思惑はなかった。



けれど、瑠奈ちゃんの話が本当だとしたら、まったく別の話になる。



「それで、莉子の矛先が麻友菜に変わったのをいいことに、私は安堵しちゃって」

「瑠奈ちゃんはわたしのこと嫌いになったわけじゃないってこと?」

「そんなわけないじゃん。でも、話しかけたらまた私が狙われるって思ったら……だから」



瑠奈ちゃんは立ち上がって、深々と頭を下げた。



「本当にごめんなさいッ!!」

「瑠奈ちゃん……」



わたしも立ち上がって、丸テーブルを回り込んで瑠奈ちゃんの近くに駆け寄った。



「もう時効だよ」

「麻友菜が休みがちになって、原因も分かっていたのに。私なにもできなかった。私最低だよ。あんなに仲良かったのに。でも、怖くて。仲間外れにされるのが嫌で。一度負った傷の痛みを知っているから、また同じ目に遭いたくなくて」

「それは分かったよ〜〜〜。だから頭上げて」



もし、あのときわたしが余計な一言を言わずに黙っていたら、瑠奈ちゃんはそのまま無視され続け、結果的にわたしと同じ目に遭っていたのだと思う。そして、瑠奈ちゃんのことを無視しろと莉子ちゃんがわたしに命令したとしたら、わたしはそれに従っただろうか?



それは絶対にできない。だからどの道、わたしは空気にされて同じ運命を辿っただろう。それを瑠奈ちゃんに説明すると、瑠奈ちゃんは再びわたしに頭を下げた。



「ん。それで新井さんは謝るために話しかけてきたのか?」

「ええ。麻友菜、高校入ってからスマホ新規にしたでしょ。連絡先変わってて、謝りようがなくて」

「うん。そうだね。ごめん」

「莉子には会った? って、まさかそれはないか」

「会ってないよ。中学のときの友達には誰も」

「条島高校だよね」



お父さんが学校に事情を話して、通っていた中学から誰も進学しない高校をあえて選んだのだから、当然といえば当然。今の高校では誰一人として中学時代のわたしを知る人はいない。



「莉子ちゃんはなにしてるのかな?」

「私も会ってないからね。あ、でも噂は聞いた。二番街バイトしてるんだって」

「……え? 莉子ちゃんが!?」

「なんだっけ。メイド喫茶みたいなとこで」

「ん。ラムダか?」

「そう! そこ! そこでバイトしててさ」

「……そうなんだ」



胸の奥がザワザワする。



瑠奈ちゃんは友達を待たせているからと言って、再度謝って去っていった。



「気にするな。その莉子とかいうヤツや優愛とかいうヤツがなにかしてこようものなら、俺がシメてやるから」

「でも、相手は女子だよ? 女子は怖いよ?」

「二番街ならなにも問題はない。俺たちに味方してくれる人は多いぞ」



昼食を食べて、しばらく雑談をしているうちに心が落ちついた。春輝は絶対に守るからと必死に説いてくれる。だから安心感が半端ない。なんてできた彼氏なんだろうって、彼氏バカのごとく思ってしまう。不安なときに寄り添ってくれて、元気づけてくれて。そして勇気をくれる。



ああ、わたし春輝の彼女でよかったって心の底から思った。



せっかくプールに来たのだから遊ばないともったいない。なにを考えたのか春輝は、ウレタン(多分ウレタンだよね?)のフロートの足場を伝って、対岸から対岸へ走り抜けるチャレンジで賭けをしないかと提案してきた。さっきから何人もチャレンジをして失敗し、プールに落下している。



「俺がもし成功したら、麻友菜はなんでも俺の言うことを聞く」

「もし失敗したら?」

「麻友菜が俺になんでも命令していい」

「なんでも?」

「ん。なんでも」

「でも、春輝でもさすがに無理だと思うよ?」

「やってみないと分からないだろ」

「そうだけど」



あんなに安定しないフロートを足場にして、一〇メートル近くある対岸まで渡りきれるはずがない。いくら春輝の運動神経が良くてもさすがに難しいと思う。当の本人はやる気満々みたいで準備運動をしている。



「いくぞ。もし俺が渡りきったら“麻友菜のはじめて”をもらう」

「えっ? は……はじめてって」

「そういうわけだ」

「ちょ、ちょっと、それって、」



わたしの話を聞かないまま春輝は軽いステップで跳び、フロートを次から次へと足場にして、気付くと対岸に着地していた。見ていたまわりの人達は驚きながらも拍手喝采を送る。まさか、これに成功する人がいるとは誰も思っていなかったらしく、対岸でお姉さんやJKに囲まれて話しかけられている(主に女子)。



もうっ!

春輝はわたしの彼氏なのにっ!

軽々しく話しかけないでっ!!



そう思いながらわたしも試しに跳んでみると、はじめのフロートで見事にバランスを崩して着水した。一つ目のフロートでこんなに難しいのに、十数個あるフロートを跳んでいく身体能力に恐れおののくばかり。春輝は卒なくなんでもこなすと思っていたけど、想像以上だった。



「大丈夫か?」

「うん。ありがとう」



対岸まで泳いでいくと、春輝が手を差し出してくれた。わたしはその手に掴まってプールから這い上がる。



「それではじめてって……急にそんな……」



いきなりそんなこと言われても、心の準備ができていない。春輝がイヤだとかそういうことじゃなくて——単純に怖い。もちろん春輝になら……あげてもいいと思っている。けれどどうしよう。恥ずかしさと恐怖が半々。でも付き合っている以上覚悟の上じゃん。



「約束は約束だぞ」

「……分かった。するのは春輝の家でいい?」



わたしが顔を上げた瞬間、春輝がカメラのシャッターを押した。俯いていたからカメラの存在に気づかなかった。



「えっ?」

「すごく良い表情だったな。困り顔で少しだけ涙目。でも覚悟を決めた顔がすごく良かった」

「……じゃあ、約束は?」

「そんなの賭けの対象にするわけないだろ」

「もうっ! バカっ!!!」

「悪い。でも、良い写真が撮れた。すげえ可愛かった」

「ほんとに、バカバカバカバカバカァァァッ!!」

「だから悪かった」

「本気でドキドキしちゃったじゃん!!」

「ああ、ごめん」

「許してあげないんだからっ!! 責任取ってよねっ!?」



前は一ヶ月後に死ぬって宣言されて、今回は賭けに勝ったらわたしのはじめてをもらうって。どんだけ嘘つきなのよ。



「どう責任を取ればいい?」

「死ぬほど甘えさせて。わたしがいいよって言うまで。それでたっぷりイジメちゃうんだから」

「ん。わかった。だが、耳に息吹きかけるのは禁止な?」

「え〜〜〜どうしようかな」



午後も遊びっぱなしで気付くと夕方になっていた。さすがにはしゃぎ疲れて、帰りの電車の中では互いに寄りかかって二人で寝てしまい、気付くと寝過ごして東京駅だった。



せっかくだから東京駅地下のラーメン街道で、ラーメンを食べてみようということに。わたしも春輝もラーメン初心者で右も左もわからない。二郎系ってなに? というレベル。さすがに言葉は聞いたことあるけど、それがどういうラーメンなのか想像できない。



とりあえず冒険するつもりで、一番手前のラーメン店に入った。室内は思った以上に清潔感があり、脂ギッシュで汚い店内のイメージ(失礼)は払拭された。夏とはいえ、かなり冷房が利いていて寒いくらいだった。



「春輝はラーメンいつぶり?」

「小学生」

「へぇ〜〜〜意外」

「外食はほとんどしなかったな」

「なにか理由あるの?」

「行くなら母親か吹雪さんの経営する店がほとんどだ」

「そっか。わたしも。お父さんもお母さんも忙しくてなかなか連れて行ってもらえなかった。行くとしてもイタリアンとかフレンチばっかり。友達とファミレスに行き始めたのは高校に入ってからかな。実はね……わたしラーメン屋さん入ったことないの」

「そうか」

「それにゆっくりできないイメージがあるから。ミホルラ達とはサイゼとかマクドとか。あとはケンタとかばっかり」



なにが面白かったのか、春輝は微笑して、



「約束どおり、“麻友菜のはじめて”をもらったな」

「……どういうこと?」

「麻友菜の初体験だろ。ラーメン屋入店」

「確かにっ!」



真顔でそんなこというものだから、なんか可笑しくなって吹き出してしまった。笑いのツボがよく分からないって言われるけど、今のはどう考えても可笑しい。ラーメン屋さん入店の初体験って、なかなか言う人いないよ?



「そんなに面白いか?」

「春輝がね。あ〜〜〜今日もいっぱい笑った。毎日楽しすぎて、明日命運尽きて死ぬかも」

「死ぬな。そんなに簡単に死なれると困る」

「冗談だよ?」

「冗談じゃなかったら、すげえ困る。笑いすぎて死ぬとか心臓発作くらいしか思い浮かばないしな」

「あはは。春輝って真顔でボケるから面白いよね」

「ボケてるつもりはないんだが」

「自覚しろし」



そんな会話を繰り広げているとラーメンが来た。チャーシューが山盛りの醤油ラーメン。半分に切られたゆで卵のオレンジ色が黄金色のスープに映える。さっそくいただいてみると美味しすぎた。カップ麺しか食べたことのないわたしにとって、本場のラーメンの味は衝撃的だった。



「おいしい〜〜〜」

「うまいな」

「春輝」

「ん?」

「わたし幸せ。今日も春輝といっぱい笑って、こうやって美味しいもの食べられるって最高だよ」

「そうだな。麻友菜、待て。一回ストップしろ」

「えっ?」



春輝はわたしの割り箸を持つ手を握って、食べるのを止めさせる。バッグから薄手のジップアップの黒色のパーカーを出して、なにをするのかと思ったら席の後ろに回って、わたしの肩から掛けてくれた。



「なに?」

「白のブラウスが染みになる。それに冷房が利きすぎているから冷やしすぎないほうがいい」

「……うん。ありがとう」



なんで分かっちゃうかな。冷房で少し寒いって思っていたところだった。お言葉に甘えてパーカーを着させてもらう。春輝に忠告されたばっかりなのに、ピシャっと汁が跳ねてしまって顔に付いた。春輝はその様子を目撃していたようで、ティッシュでわたしの顔を拭いてくれる。メイクが落ちないようにポンポンっと軽くタッチするように。



ああ、もう好き。好きが止まらない。



ラーメンを食べ終えて帰路につく。春輝はわたしを家まで送ってくれて、あっという間に今日という日が終わってしまった。この時間が一番寂しくて、わたしは耐え切れずすぐにライン電話をつなぐ。



電車に乗っている時間以外は、わたしのワガママに付き合ってくれて、ずっと通話をしてくれた。



春輝に早く会いたいな。









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