#22 エアコン@特別な香り



泣かせるつもりはなかったのに、麻友菜を泣かせてしまった。



泣いている麻友菜の頭を撫でることくらいしか俺にはできない。しばらく撫でていると落ち着いたのか、麻友菜は泣き止んでティッシュではなを噛んだ。この前の告白のときも大泣きした麻友菜を見守ることくらいしかできなかった。こういうときはどうしたらいいのか分からない。



泣いている麻友菜を見ているとなんだか可哀そうになってくる。麻友菜の中学時代を知ってしまったら、学校で演じる陽キャも理解できる。やはり、麻友菜と偽装交際をはじめたときに感じた、傷ついた子という印象は間違いではなかった。



「ごめん。泣きすぎた」

「いや、悪いのは俺だ、余計なこと言った」

「違うの。春輝がいけないの」



麻友菜は涙目ながらも口をとがらせた。



「春輝が優しすぎるからなの。そんなこと言われたら、ますます好きになっちゃうじゃん」

「……悪い」

「だから悪くないって。わたし、春輝の彼女で本当に良かったなって思ったら、うぐぅ、また泣けてきちゃうよぉぉぉぉ」



麻友菜は本当に泣き虫で困る。だが学校での笑顔一辺倒の麻友菜が、俺にこれだけ感情豊かで、色々な表情を見せてくれるということは、それだけ俺に心を許してくれているということなのだろう。



「さて、落ち着いたら勉強の続きだ。今は期末が優先だからな」

「うん。でも、中学の基礎ができていないところがあるから……なにからはじめたらいいのか分からないよ」

「大丈夫だ。別に全範囲を網羅する必要はない。期末試験は範囲が決まっているから、その範囲の中で覚えればいいだけだ」

「でも……わたし頭よくないよ?」

「俺だって頭脳明晰には程遠いぞ。ただ、要領がいいだけで。麻友菜はノートを見ても頭は悪くないし、むしろ良い方だと思う。だから落ち着いてやれば大丈夫だ。とにかく、俺を信じろ」

「……またダメ人間製造機じゃん」

「悪いか?」

「ううん。好き……好きだよ。もう、本当に」



泣き顔はどこに行ったのか。麻友菜は「えへへ」と笑って教科書を開いた。



勉強をするに当たって、何時間も馬鹿みたいにやっても集中できないし、やるだけ無駄になってしまう。だから勉強もしつつ遊び&リラックスタイムも取り入れて、一泊二日のスケジュールを作った。勉強の時間、料理の時間、風呂の時間、ダラダラする時間、睡眠の時間をパソコンでグラフにして印刷をした。



「こんなにゆるい感じで大丈夫?」

「じゃあ、今から八時間勉強できるか?」

「無理。春輝と遊ぶ時間ないじゃん」

「だろ。勉強はポモドーロを取り入れて、短時間集中型の勉強をしたほうがいい」



ポモドーロテクニックとは、数十分勉強(または仕事など)と数分の休憩を一つのタスクとしてパッキングし、それを複数回繰り返す方法のことで、ダラダラするよりもかなり効率がいい。人によって向き不向きはあるだろうが、一度やってみる価値はある。



「ああー、ポモドーロってユーチューブとかでよく上がってるやつ?」

「まあそうだな。暗記の科目は今日はやらないから、帰って一人でやるときも試してみたらいい。とりあえず今日は一番苦手な科目だな」

「うん。じゃあ、数学と物理かな」

「分かった」



麻友菜は基礎を教えればすぐに応用も利く、決して頭の悪い子ではない。それに物覚えも早い。これなら五〇位も狙えると思う。



「春輝の説明って分かりやすいね。それに勉強が楽しいってはじめて思った」

「そうか? 麻友菜が優秀なだけだと思うぞ。俺は基礎を教えているだけで、実際にそれを噛み砕いて消化しているのは麻友菜だからな」

「ううん。春輝ってすぐに褒めてくれるから、がんばれちゃうっていうか」

「褒めてないぞ。事実を言っているだけだ」

「だから、それがダメ人間製造機だからね?」

「ん。もうそれでいい」

「あ~~~開き直ったぁ~~~っ!! ならわたしもいっぱい甘やかせて、春輝を腑抜けにしちゃうんだからっ!」



そして、夕方五時まで勉強をして一旦終了となる。集中してやった結果、数学だけだが大雑把ではあるが期末テストの範囲を終えてしまった。最後に小テストをやってみたが結果は上々。たった二時間程度でここまでできるようになるなら、かなり上位の成績を狙えるかもしれない。



「夕飯は俺が作るから、麻友菜は休んでていいぞ。疲れただろ?」

「イヤ」

「なにが?」

「一緒に作りたい。わたしがお味噌汁つくる。教えてくれるよね?」

「ん。別に構わないが。漫画でも読んでゆっくりしていていいぞ」

「作るったら作るの」

「分かった。じゃあ、一緒に作るか」

「うんっ! ねえねえ、新婚さんみたいだねっ!」

「新婚の生活を知らないからなんとも答えようがないな」

「わたしだってないよ。イメージじゃん」



そして夕飯を一緒に作り、和気あいあいと夕飯を食べて、二人で後片付けをした。麻友菜が風呂に入っている間に俺は写真の現像をすることに。林間学校で撮ったフィルムの現像を終えて、スキャナーで取り込むと高山や砂川さん、そして麻友菜を撮った写真がディスプレイに映し出された。



写真は良い。受動的に記憶を蘇らせてくれる映像もいいが、写真は瞬間の一枚の記録をもとに、自発的に海馬に記憶を探り行く感覚があって、思い出と想像力を豊かにしてくれる。



そして、薔薇の庭園で撮ったキス写真を見たときにはドキッとした。はじめてのキスの感覚が呼び起こされる。あのときの薔薇の匂いと麻友菜の香り。そして、愛おしさ。そのすべてが一枚の写真に込められている。



それに、やはり麻友菜はモデルに向いている。そういえば、今朝クララが麻友菜と話したいといっていたことを思い出した。あとで訊いてみるか。



麻友菜が浴室から出て、入れ替わりに俺もすぐに風呂に入り一〇分程度で上がった。随分しずかだと思ったら(いつも鼻歌を歌ったり、俺にちょっかいをかけるべく浴室のドア越しになにかを話しかけてくる)、髪を乾かし終えた麻友菜はソファでウトウトしていた。そういえば寝床を用意していなかった。麻友菜は俺のベッドで寝てもらうとして、俺はエアベッドで寝ようとコンプレッサーで膨らませていると、麻友菜がむくっと起き上がった。



「イヤ」

「なにが?」

「春輝はイヤなの?」

「だからなにが?」

「わたしと……一緒に寝たくないの?」

「……ん。イヤってことはないが」

「じゃあいいじゃん」



眠そうな顔なのか不機嫌なのか分からなかったが、麻友菜はまるで寝言のようにそう話して、またソファに横になった。



「そんな体勢で寝ていると身体痛くなるぞ」

「うぅん。眠くないよ。まだお話いっぱいするの……すぅすぅ」

「仕方ないな」



子猫のように丸くなった麻友菜を抱きかかえると、「きゃっ!?」と麻友菜が目を覚ました。いわゆるお姫様だっこなのだが、麻友菜は驚いたのか俺の首に手を回してしがみついてくる。



「軽いな」

「いきなりびっくりするじゃん。って軽くないから。最近、春輝に餌付けされまくって、ヤバいんだから」

「なら、もう少し太らすか」

「もうっ! 本当にぶっ飛ばすからね?」

「イヤか?」

「なにが?」

「お姫様ごっこ」

「ごっこ? だっこじゃなくて?」

「麻友菜姫だろ」

「なにそれ。わたしがバカみたいじゃん」

「そうか? 女子はみんなそういうのに憧れるんだろ?」

「そんなの小学校くらいまでだって」



だが、まんざらでもない様子で、麻友菜は頬を緩ませながらも照れ隠しなのか「もうっ!」と言って俺の頬を軽くつねった。寝室まで姫をお連れして、ベッドにそっと置くように寝かせる。部屋は少し熱気と湿気がこもっているからエアコンのスイッチを入れて、俺も麻友菜のとなりに横になった。



「はじめてのお泊りのときのこと思い出すね」

「あのときはマッサージしてもらいながら寝たな」

「うん。春輝の寝顔可愛かったなって」

「それを言うならお姫さまのほうだろ」

「まだ姫ごっこ続いてたんだ」

「ん。お姫さまは眠気飛んだのか?」

「だって、いきなりお姫さまだっこされたら、誰だって起きるって」

「そうか?」

「そうだよ。案外怖いんだからね? してもらったことないだろうけど」



記憶がある限りではお姫様だっこなんてされた経験がない。もしかしたら三歳とか、その辺まではしてもらったことがあるかもしれないが、それをお姫さまだっことは言わないだろう。



「麻友菜」

「なに?」

「キスしていいか?」

「……えっ?」

「麻友菜の横顔を見ていたら……したくなった」



距離が近いというのもあるが、麻友菜の甘い香りがエアコンの気流に乗って、ふわっと漂う。この匂いは麻友菜からしか感じることはない。納品のときに話をするキャバ嬢や風俗嬢、コンカフェ嬢からはしない、甘くフルーティーで特別な匂い。もちろん、学校でも麻友菜以外からは感じたことのない高貴な香り。やはり麻友菜はどこかの国の姫だろう。



「別に……いいよ?」



麻友菜の首の下から肩まで左手を忍ばせて引き寄せる。右手で麻友菜の背中を抱き、キスをした。髪を撫でると、キスをしたまま麻友菜の唇から吐息が漏れる。また息を止めていたのだろう。長めのキスで肺活量が限界を超えたらしい。けれど今回は、麻友菜はキスを止めようとはしなかった。



ようやく唇を離した麻友菜は、キラキラした眼差しで俺を見つめてくる。キスを終えたこの瞬間が、たまらなく可愛いと思う。



「満足……した?」

「いや。足りないかもな」

「同じ。わたしも同じこと考えてた」



今度は麻友菜が俺の後頭部を押さえて、キスをする。



「春輝……このまま寝ていい?」

「ん。いいぞ」

「春輝って良い匂いするよね」

「そうか?」

「うん。すごく好き」



麻友菜は俺を抱きしめたまま、胸あたりに顔をうずめて「くんくんっ」と鼻を鳴らした。まるで子犬みたいだと思ったら、



「頭なでなでして?」



と今度は子猫になる。



そうして頭を撫でながら、髪をくと麻友菜はすぐに寝息を立てた。しばらくそのまま、そのまま抱きしめながら指通りの良い髪に触れる。まるでシルクのようで指ざわりが良いから、いつまでも触りたくなる。



そうしているうちに俺も眠気が襲ってきた。





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