第5話

「あの」

 夏休みを目前にした月曜日の朝、いつものように学校の最寄り駅で電車を下りると、見知らぬ男の子に声をかけられた。学ランを着ているから、きっと最寄り駅が同じ他校の生徒だろう。島名しまな高校とか言ったっけ。

「なに?」

 振り向くと、胸辺りのボタンが目の前にあった。デカ。見上げて目を合わせると、男の子の顔がぽっと赤くなった。

「あ、あの……俺、橋本はしもとっていいます。いつも同じ電車に乗ってて、ずっと、可愛いなって思って見てて……よかったら、連絡先教えてもらえませんか」

 にっこりと微笑む。そうだ。私はそもそも、友達なんてほしくない。家族もいらない。

 私を好きって言ってくれる人がいれば、それでいい。

「嬉しい。ありがとう」

 そう言って、ポケットからスマホを取り出した。

 橋本くん(下の名前は知らない)と連絡先を交換して別れ、学校へ向かう。昇降口で、メグと遥香と遭遇した。

「あ、タマ。おはよ」

「見てたよ。告られてたでしょ」

「あぁ、うん」

「付き合うの?」

「気が早いって。まだ会ったばかりだよ」

「背が高くて結構かっこよかったよね」

 記憶にない。どんな顔してたっけ、と考えていると、チャイムが鳴った。

「あ、予鈴」

「じゃあね」

 上履きに履き替え、さっさと教室へ向かった。


 頭が重い感じはしていた。このところダイエットでほとんどご飯も食べてなかったし、日中の暑さもあって、体力も落ちていたのかもしれない。

 放課後の球技大会の練習で倒れた私は、気が付いたら保健室のベッドの上だった。身を起こすと、傍らにはなぜだか瀬野がいた。ぎょっとする。

「……なんで、瀬野くんが」

 となりのコートで男子もバスケの自主練をしていたら突然悲鳴が聞こえて、見たらお前が倒れてたんだよ、と瀬野はため息混じりに言った。

 つまり、倒れた私を瀬野が運んでくれたということか。

「ありがとう」

「別に」

 瀬野はすくっと立ち上がると、「先生のこと呼んで、俺はそのまま帰るから」と言った。

 瀬野は、あの日私が吐いた暴言について、なにも触れなかった。

 その後、先生が顔を見にやってきて、なんでもないことを伝えると帰っていいと言われた。迎えを呼ぶかと聞かれたが、そんなことしたら余計に私の肩身が狭くなるので(とはさすがに口にしなかったが)、歩けるから大丈夫と言って断った。

 カバンを取りに、教室へ向かう。扉に手をかけたところで、まだ教室に残っていたらしいクラスメイトたちの話し声が聞こえた。手を止め、その場にとどまる。

「マジで抜け目ないわ。ふつうあそこで倒れる?」

 教室にいたのは、クラスメイトの女子数人。どうやら、瀬野の前で倒れた私の話をしているようだ。

 タイミング悪いな、と思う。

「ちょっと可愛いからってさぁ」

「いやでも、ぶっちゃけ珠生ってそうでもなくない? 絶対化粧で誤魔化してるって」

「化粧取ったらブスだよね〜」

「たしかに。顔だけなら石野ひなたのほうが可愛いかも」

「結局どっちも顔だけってことじゃん」

「言えてる」

「そういえばさ、今日駅で島高の男の子と話してるとこ見たんだけど」

「うわ、また? 軽〜」

「珠生ちゃんって本当に誰でもいいんだね。引くわぁ」

 彼女たちの甲高い笑い声が、ずかずかと心臓に刺さっては棘のように残る。

 ……別に、悪口なんて今さらだ。今までだって散々言われてきたし、気にしない。悪口なんて、言い換えればただの嫉妬だ。私が可愛いから、みんな妬んでいるだけなのだ。

 今ガラッと扉を開けて中に入れば、彼女たちはきっと狼狽えて、慌てて私に引きつった笑みを浮かべるだろう。そしてゴマをする。その顔を見たらきっと許せる。あんな子たちと同じ土壌に立つ必要なんてない。心の中で笑っていればいいのだ。

 ……そう思うのに、私の足は動かない。前へ行かないどころか、少し震えていた。

 もういいや。スマホはポケットにあるし、カバンなんて持ち帰る必要ない。今日はこのまま帰ろう。

 回れ右をしたとき、すぐ目の前に大きな物体があって、私は小さく悲鳴を上げた。顔を上げると、瀬野だった。

 瀬野は私を見下ろし、静かに訊く。

「中、なんで入んないんだよ。カバン、ロッカーだろ」

 いや、あんたこそなんでいるんだ。帰ったはずじゃなかったのか。

「俺も忘れ物取りに来たんだよ。早く入れよ」

 と、言いながら瀬野が勢いよく扉を開ける。

「ちょっ……」

 教室が静まり返った。クラスメイトたちは扉の前に立つ私と瀬野を見て、固まっている。ひとりが声を上げた。

「あ……あ、珠生ちゃん。い、いたんだ」

 無理に空気を割いたせいで、声がひっくり返っている。

「体調は、大丈夫?」

「うん」と小さく返すと、クラスメイトたちはホッとしたように笑った。どうやら、さっきの悪口はなかったことにするつもりのようだ。気付かれてない、とでも思ったのだろうか。

「そっか、良かったぁ」

「心配してたんだよ」

 引き攣ったいくつもの顔が私に向いている。薄気味悪いと思った。

 立ち止まったままの私をすり抜け、瀬野が代わりに私のカバンを持ってくる。

「荷物、これだけ?」

「……あ、うん」

 ありがとう、とカバンを受け取る。なにも言わずそのまま足を引いて帰ろうとすると、瀬野が言った。

「お前、今散々悪口言われてたけど、なにも言い返さねーの?」

「えっ……」

 再び空気が凍った。バカなのだろうか、この男は。振り向くと、瀬野はにやっと笑っている。うわ、性格悪。さすが石野の幼なじみをやっているだけのことはある。

「……え、なに」

「私たち、別に悪口なんか言ってないし……」

「そうだよ。別に……ねぇ?」

 普段穏やかな瀬野の鋭い指摘に、彼女たちが狼狽えるのが分かった。その顔に、私の中でなにかがプツンと音を立てて切れた。

 なんかもう、どうでもいいやと思えてきた。

「へぇ。あれって悪口じゃなかったんだ?」

 私は笑顔で彼女たちを見る。

「え……?」

「いや、まぁ別にいいんだけどね。だってさ、結局みんなは私の顔が羨ましいんでしょ? 自分には持ってないものを私が持ってるから、憎らしいんだよね。あはは、ごめんね? みんなより可愛くて」

 そう言い捨てると、私は彼女たちにくるりと背を向けた。

 教室を出て行こうとして、ふと足を止める。

 ……そういえば。

「そういえばさっき、ひなたのことも顔だけとか言ってたけど」

 すぅっと息を吸う。

「それ、違うから。ひなたには、ちゃんといいところたくさんあるから! ぜんぜんバカじゃないし、あんたたちの百倍真面目でいい子で、いろいろ考えてるんだから!」

 強い口調で言って、ふんっと息を吐き、扉に手をかける。

 思い切り扉を閉めようとすると、その手を瀬野に止められた。なんだ、と思って振り向く。すると、今度は瀬野が彼女たちに向かって言った。

「俺もひとつだけ。お前らさ、気付いてる? 影でこそこそだれかの悪口言って笑ってるお前らのほうが、よっぽど顔も性格もドブスだってこと。一回鏡見たほうがいいんじゃね」

 そう吐き捨てて、瀬野は思い切り扉をぴしゃんと閉めた。


 私は、黙々と歩いた。心の中は嵐が吹き荒れている。いらいらどころじゃない。近くにゴミ箱があったら思い切り蹴り飛ばしたいレベルだ。

 校門を抜け、近くの公園の前に来たところで足を止めた。

「あのさぁ」

 足を止めた私のとなりで、瀬野もなぜか立ち止まる。というか、なんでまだいるんだろう。

「いつまで着いてくる気?」

 瀬野をじろりと睨みつける。

「ついでだから送ろうかなって」

 こころなしか、その声はどこか楽しそうに跳ねている。

「送らなくていい。まだ帰る気ないし」と、私は視界に入った公園に入る。その公園は、遊具はほとんどなかった。私は唯一あるブランコに座った。

「なら、帰るまで付き合う」

 そう言って、瀬野は私のとなりのブランコに座った。

 夏の真ん中、濃い日差しの夕暮れに、キィ、と金属が擦れる音だけが響いている。

「……なんで庇ったわけ?」

「なにが? 俺は思ったことを言っただけだけど」

「だからって……」

「だってあいつら、ふつうに最低だったじゃん」

「……だとしても、瀬野には関係なかったでしょ」

 私は、前に瀬野の前で本性を見せている。瀬野の中での私の印象は最悪のはずだ。それなのに。

「関係なくても腹立つだろ」

 腹立つ? だれが、だれに?

「……あぁ、石野をバカにされたから?」

「いや? ひなたはぜんぜんそういうの気にしないからいいんだけど。でも、お前は違うじゃん」

「は?」

「手も足も、震えてた。俺を見た瞬間、泣きそうな顔してたから」

「なっ……」

 カッと顔が熱くなるのが分かった。

「なってないし! 泣いてなんかないし!」

「はいはい。余計なことしてすみませんでしたね」

「本当だよ。明日からどーすんの。確実に私ハブられんじゃん」

「いいじゃん。あんなやつら放っておけば」

「……ダメだよ。男子はいいかもしれないけど、女子は群れてないと生きられない生き物なんだよ」

 友達なんていらないけど、いじめを受けるのだけはごめんだ。蔑まれるのもいや。私は、最後まで完璧でいたい。

 みんなからちやほやされて、クラスでも一軍のトップに君臨し続けて、卒業式ではみんなの中心で写真を取って、さよならをする。

 高校生活は、そんな華々しい記憶だけで埋めつくしたかったのに。

「……なら」

 影が落ちて、顔を上げる。瀬野は私が座るブランコの鎖を両手で掴んで、私を見下ろしていた。黒々とした瞳が揺れる。

「俺らが群れてやるよ」

「……俺、ら?」

「うん。俺と、ひなた」

「瀬野はいいとして、きらわれ者と一緒にいたら余計きらわれるだけじゃん」

 すると、瀬野は小さく息を吐いて、

「ずっと思ってたんだけどさぁ」

 と言った。なによ、と私は瀬野を睨むように見つめる。

「お前はひなたがきらいなわけ? それとも、みんながひなたのことをきらってるから仲良くしたくないわけ?」

「……それは……」

 言葉につまる。

 私は石野のことをどう思ってる?

 石野はたしかに協調性がなくて、ワガママ。自分勝手だし、一緒にいるといらいらする。……だけど、放課後まっすぐ帰ることにも先生との密会にも、ちゃんとした理由があった。

 ずっと石野をバカにしていた。でも、石野はそんなこと、ぜんぜんまったく歯牙にもかけていなくて……私なんかよりずっと愛されていた。

 私はぎゅっと手を握り込む。

「……仕方ないじゃん。私には、やさしい家族や幼なじみなんていないの。自分を偽らなきゃ、だれにも好きになってもらえないの。みんなに合わせないと……居場所すら見つけられないダメな人間だから」

 うっかり泣きそうになって、唇を噛んだ。

「だからさ、珠生には俺たちがいるじゃんって言ってんの」

 顔を上げると、瀬野と目が合う。

 吸い込まれそうなほど澄んだその瞳に、あぁそうか、と思った。

「……なにそれ。あんた、私の本性見たでしょ。それなのに、なんでそこまでするの?」

「ぶっちゃけると、顔が好み」

「はっ?」

 素っ頓狂な声が出た。

「いやまぁ半分は冗談だけど。でも、相手を知りたいと思うときなんて、だいたいみんなそんなもんだろ? 雰囲気がいいとか、スタイルが好みとか」

 不快感を全面に出して瀬野を見る。

「……ぜんっぜん嬉しくないんだけど?」

 すると、瀬野はからっと笑った。

「俺になに期待してんだよ? 俺、ひなたの幼なじみなんだけど? 頭もあいつと同レベルだから」

 つまりバカと。

 ふっと息が漏れる。

 もう、なんでもいいや。なんとなく、瀬野の言いたいことは分かった。

「……石野があのままでいられたのは、ずっとそばに瀬野がいたからなんだね」

 石野には、瀬野のような守ってくれる人がいる。味方になってくれる家族もいる。だから、あんなに軽やかなんだ。

「……いいなぁ」

 ぽそっと本音を漏らして俯いたとき、瀬野がしゃがんだ。再び視線が合う。

「俺らがいるから、明日もちゃんと学校に来いよ」

「!」

 ぎゅっと胸が潰れそうになった。今度こそ視界が滲んで、私は弾かれたように立ち上がる。

「……し、知らないし」

 まっすぐに見つめてくる瀬野に背を向け、私は逃げるように公園を出た。

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