第4話

 家に帰ると、玄関でおばあちゃんと鉢合わせた。

「あら、おかえり」

「……ただいま」

 おばあちゃんは手に財布を持ち、靴を履いている。どこかに行くのだろうか、と思っていると、おばあちゃんが言った。

「ちょっと買い物に行ってくるね」

「うん」

「すぐ戻るから、キッチンそのままにしてていいからね」

「うん」

 おばあちゃんは私を一瞥もすることなく、出ていった。

 一階の廊下を進み、居間のさらに奥の和室が私の部屋だ。部屋と言っても、服が入ったプラスチックケースひとつと、布団がひとつあるだけだが。

 制服のままプラスチックケースを机にして勉強していると、玄関の扉が開く音がした。おばあちゃんが帰ってきたようだ。

 そっと障子の隙間からキッチンを覗くと、おばあちゃんは既に料理を始めていた。軽やかな包丁の音が聞こえてくる。会話のないこの家では、こういう何気ない音がよく響く。

 おばあちゃんは、私をきらっている。

 口調こそ優しくて余計なことはなにも言わないけれど、おばあちゃんは一切私を見ない。お父さんも、私に干渉しない。三者面談にすら来ない。

 お母さんが出ていった日から、私は一度も家族と目を合わせていない。

 静かに、とても静かに拒絶されている。

 でも、べつに気にしない。どうせ高校を卒業したら、この家は出るつもりだし。

 部屋の前に夕食が入ったお盆が置かれた音がして、私は障子を開けてお盆を入れた。

 鍵なんてついてない障子の向こう側では、おばあちゃんとお父さんの声がする。

 ふたりとも、私がきらいなわけじゃない。ただ、私の顔がダメなのだ。私がお母さんにそっくりだから。

 お母さんは、私が五歳のときに出ていった。お父さんの知り合いだとかいう若い男と浮気をして、それがおばあちゃんにバレて出ていったのだそうだ。

 正直お母さんのことはぜんぜん覚えていないけれど、どんな顔をしていたのかは知っている。だって、私だから。

 鏡に映る私はまったくお父さんに似ていない。知らない女の人だ。たぶん私は、お母さんなのだ。

 私が成長すればするほど、お父さんは私を見なくなった。おばあちゃんは、眉を寄せるようになった。

 それだから私は自分の顔がきらいだし、化粧前の自分の顔のときは、まともに鏡を見ることもしない。



 ***



「それでは、球技大会の種目決めは以上になります。それぞれ出る種目は、実行委員主導により放課後練習がありますので、スケジュールを確認しておいてください! 学年優勝狙って頑張りましょう!」

 季節は初夏。毎年恒例、球技大会の季節が来た。

 私たちが通う高校の球技大会は学年ごとに行われ、学年カラーごとに開催される月が決まっている。私たち三年はカラーが青、二年が緑、一年が赤。青学年は毎年夏休み明けの九月の頭に行われ、緑学年は十月、赤学年は十一月に行われる。

 球技大会は各クラス対抗で、優勝すると景品などがもらえるため、生徒たちは並々ならぬ気合を入れて挑む。

 私の出場種目はバスケになった。バスケは室内競技なので日焼けしなくて済むし、どちらかといえば得意だからいい。

 ただ、ひとつ問題がある。石野ひなたと一緒なのだ。

 最悪だ。だって、石野は昨年も同じクラスだった子の話によると、ひどい運動音痴らしいのだ。

 夏休みの自主練に付き合ってほしいなどと頼られそうで怖い。……と、思っていたのだが。予想に反して、石野は放課後の練習に参加することはなかった。

 ちょっと拍子抜けしたが、まぁ絡まれないことに越したことはない。

 ホッとしていた私とは裏腹に、練習に参加せず帰宅する石野に、バスケ担当になった他のメンバーはいい顔をしなかった。

「運動音痴のくせに練習こないとかなんなの?」

「当日も休んでくれたらいいんだけどね」

「つかもう学校来なくていいんじゃね?」

「ね、珠生ちゃん」

「……まぁ、石野さんもいろいろあるんじゃないかな」

「珠生ちゃんは優しいなぁ」

「つーか、顔がいいってだけで男子は騙されすぎ。バカでも運動音痴でもチヤホヤされるんだからいいよね〜」

「私は珠生ちゃんのほうが絶対可愛いと思う」

「私も! 絶対珠生ちゃん派!」

 やっぱり、女は醜い生き物だ。集まればすぐに目立つ子の愚痴をはじめるのだから。

 この球技大会を機に、派閥が生まれた。私派か、ひなた派か。

 くだらない、と内心で思う。そもそも同じ舞台に私を上げないでほしい。

 まぁ、悪口の対象が私ではなく石野になったのはいいけれど。

「じゃあまたね!」

「お疲れ様〜」

「バイバーイ!」

 笑顔で学校を出る。

 球技大会があると、放課後の練習があるから家に帰る時間が遅くなっていい。今は彼氏がいないから、寄り道するいいわけにちょうどいいのだ。ふたりとも、保護者として心配しているフリだけはするから。

 商店街をふらついていると、正面にうちの制服がちらついた。

 おや、と思い見ると、石野だった。なにをしているのだろう、とよくよく観察していると、となりに小さな男の子……がいた。年齢はどれくらいだろう……五歳とか? 子供が好きじゃないから、よく分かんないけど。

「……え、なにあれ」

 もしかして隠し子? え、マジ? 石野ってそーゆう感じ? でも、相手は? 瀬野? いや、さすがにそれは……。

 ぐるぐる考えていると、私の念に気付いたのか、石野がパッと振り向いた。

「あっ」

 ……やば。

 目が合ったことをなかったことにして顔を背けるが、石野は気にした様子もなく私に駆け寄ってきた。

「タマちゃん!」

 逃げたところで明日の朝が面倒なだけだ。ここは軽く立ち話で済ませよう。

「あー……石野さん。偶然だね。こんなところでなにしてるの?」

 そのきょとん顔はお決まりなのだろうか。もはやわざとなのではと思い始めてきた。

「私はただの保育園のお迎えと買い物だけど」

「そうなんだ……ねぇ、その子ってもしかして……」

「あ、この子? この子は空太。私の弟」

「弟?」

 男の子を見る。たしかに石野に似て目がくりくりとしていて、可愛らしい男の子だ。

「こんにゃちは」

 ……うん。バカそうなところがソックリ。

「こんにちは」

 私は笑顔で挨拶を返した。

「うち母子家庭だから、私が弟の面倒見てるんだ」

「ふぅん……大変だね」

 だから帰宅部で、球技大会の練習にも参加しなかったのか。

「それで、タマちゃんはこんなとこでなにしてるの?」

「私は球技大会の練習帰りだけど」

「あ、そういえばそっか。というか、タマちゃんの家って、こっちのほうだったんだね!」

「……ううん」

 首を振ると、石野は訝しげに「え?」と首をかしげた。

「……ただ、ちょっと道草食ってただけ。家は居心地が良くないから」

 そう言うと、石野は数度瞬きをしてから言った。

「そかそか。じゃあさ、うち来る?」

「え?」

「これからご飯の準備なんだけど、その間空太見ててくれるなら大歓迎だよ!」

「え、いやそれは」

「気にしないで。今日お母さん夜勤でいないし、それに、お客さんがいると空太が大人しくなるからめっちゃ助かる」

「えーお姉ちゃん僕んち来るのー?」

「えっ」

「そうだよ〜」

「えっ!?」

「やったぁ!」

「さて、それじゃあ三人で帰ろ〜!」

「……えぇ、ちょっと……」

 私はなぜか石野の家に招かれることになった。いや、だからなんで。


 石野の家は、三階建の古いアパートだった。単身世帯用レベルの狭い部屋に三人で住んでいるらしく、ベッドもテレビもない。

 あるのはリビングに小さなテーブルひとつで、夜はテーブルを避けて布団を敷いて三人川の字で寝るのだという。

 リビングは、私の部屋とそう変わらない広さだった。

「狭いけど、どうぞ」

 本当に狭い。

 石野は手際よくエプロンを付けると、キッチンに立った。その後ろ姿は学校で見るふわふわした感じはまるでなくて、しっかりしたお姉さんだ。

 その手馴れた様子に、

「……もしかして、家事はいつも石野さんが?」

「そうだよ〜。お母さんは仕事忙しいし」

「ふぅん……」

 だから、放課後はいつもまっすぐ帰宅していたのか。

「……じゃあ、卒業したらどうするの?」

「働くよ」

 石野は躊躇いなくそう答えた。

「就職ってこと?」

「うん」

 でも、うちの学校は三年になると進学組と就職組でクラスが分かれる。就職コースは六組のはずだ。

「……でも、石野さん四組に入ったってことは、最初は進学するつもりだったんじゃないの?」

「うん。でも、年明けにお母さんが過労で倒れちゃって。だから代わりに私がお金を稼がないと。勉強する暇があったらバイトのシフト入れたいし……だから進学は諦めたんだ。というか最近はバイトも忙しいし、いろいろと片付かなくなってきてるから、夏休み中に学校も辞めようと思ってる」

「えっ!? 辞めちゃうの? 学校……」

「学年主任の先生には卒業まであと少しなんだから踏ん張れって、何度も止められてるけど」

「ふぅん……」

 なるほど。学年主任との密会は、その件か。

 私は家の中を見回す。

 石野の話では、さっきから母親と弟の話しか出てこない。この家に父親はいないのだろうか。

 すると、石野は私の心を察したように言った。

「私と空太ね、父親違うの。私のお父さんは生まれてすぐ別れてて、今は別の家族がいる。うちも再婚したんだけど……新しいお父さん、空太が生まれてすぐ事故で死んじゃって」

「……そうなんだ」

 ふたりは父親が違うというが、顔はよく似ている。どちらも母親似なのだろう。

 狼狽えた。話を聞けば聞くほど私と石野は決定的に違うということを見せつけられているようで。

「タマちゃんは進学するの?」

「……うん。大学かな。まだ学部とかは決めてないけど」

「そっかぁ。そうしたら、塾とか大変そうだね」

「塾は行ってないよ」

「えっ、そうなの? それなのにあんなに勉強できるんだ。すごいね」

「家にいるとやることがないから、いつも勉強してるの」

 これは本当。話す人もいないし、家だとずっと参考書を読んでいる。

「……そういえばさっき、家は居心地が悪いって言ってたけど……」

「……うちも片親なの。うちはお母さんがいないんだ」

 淡々と告げると、石野は分かりやすく動揺していた。

「うちの母親ね、出ていったんだ。男と駆け落ち。ヤバいでしょ」

 ふふっと笑いながら言うと、

「……なんで笑うの?」

 と、不思議そうな顔をした石野と目が合った。

「ぜんぜん、笑いごとじゃないじゃん」

「…………」

 ふつう、ここまで言えばみんな黙り込む。それ以上詮索されることはなくなるのに。今回、黙り込んだのは私だった。

「だから、そんな似合いもしない化粧して大人ぶってるの? 男を取っかえひっかえして、寂しさ誤魔化してるの?」

「別に、そういうんじゃ……」

「その化粧、ぜんぜん似合ってないよ」

「は?」

 うわ、なにこいつ。ここに来て自分のが可愛いですアピール? ウザ。

「石野さんには関係ないでしょ」

「うん。でも、不細工だから気になる」

「はぁ!?」

 だれが不細工だ。カチンときた。もう我慢できない。

「知ってる? あんたこそ、めっちゃ悪口言われてたんだからね。球技大会の練習勝手にサボって。あぁ、そういえば学年主任とデキてるとかいう噂もあったっけ」

「だって、球技大会より弟のお迎えでしょ」

 しかし、石野は気にした素振りもなく平然と言い返してくる。

「なにも言わないで帰るから反感買うんだよ。少し考えれば分かるでしょ」

「言ったって、同情誘ってるとか言われるのがオチだし。言いたいやつには言わせておけばいいんだよ。私は別に友達じゃない人たちになに言われても気にしないもん」

「だから友達できないんじゃないの」

「うわ、ひど。でもさ、そういうタマちゃんって、友達いたっけ?」

 ふん、とバカにするように笑われた。

「はぁっ!? 私はいるよ! どう考えたってクラスで一番の人気者でしょうが!」

 こいつ、やっぱりいやなやつだった。

「あぁ〜、上っ面の友達ね。タマちゃん、仮面被るのだけは上手いもんねぇ」

「だけは」を強調された。ムカつく。

「あぁもう、うるさい! 仮面被ってなにが悪いのよ! 少なくとも私は、あんたみたいに女子からきらわれてないんだから、私が正しいでしょ!」

 やっぱりこいつ、バカだ。ただのワガママ女だ。

 私はムカついて石野をキッと睨む。

「そう? でもタマちゃんってぜんぜん学校楽しそうじゃないよね。そもそも合わない子と仲良くする意味ってあるの? そんなことで気を遣うんだったら私は弟と一緒にいてあげたいし、湊と楽しく笑ってたい」

 と、石野は余裕の笑みを浮かべている。

「私は好きでもない人にきらわれたってどうだっていい。だって、私をきらってる人に個人的な事情を話したって理解してくれるわけないんだから。私には、私のことをちゃんと分かってくれる湊と空太とお母さんがいるしね」

 石野は私に強気な視線を向けて、そう言い切った。

 ……あぁ、もうムカつく。

「タマちゃんってさ、学校だといつもニコニコしてたけど、本当はこれが素なんでしょ? 性格かなりねじ曲がってるよね〜?」

「…………」

 私が言葉に詰まると、石野は畳み掛けるように言った。

「家のことを相談できる人もいなくて、外では愛想笑いで誤魔化して、好きでもない男の子と遊んで。でも結局だれにも心を開かないからひとりのまま」

 小さく息を吐く。

「……私、あんたのこと本当にきらいだわ」

「じゃあなんで着いてきたの? 結局、家よりもきらいな私の家のほうがマシなんでしょ?」

「…………」

 答えられなかった。

 私はなんで、ここにいるのだろう。

 石野のことなんて、だいっきらいなのに。

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