第32話 軽食

 第三歩兵大隊が外壁まで下り、第一歩兵大隊の魔術師団による助力を得て仲間の錬金術師の猛威もういから逃れたのと時を同じくして、モリアスは三百名の予備兵を連れて外壁へと向かっていた。


「早く戻らないとダレン隊長から言われる小言が泣き声混じりになるかもしれない」


 そう独言ひとりごちて外壁内の通路を急ぐ。イカレた錬金術師を送り出した以上、多少なりとも自責じせきの念が胸中きょうちゅうめている。それ程までにくだんの錬金術師は危険な存在である。


 しかも、今回目を覚ました直後に彼女が発した言葉が、「あ、ちょうどいいや」であったことがモリアスの胸の内を黒く染め上げていた。


 第一歩兵大隊が待機する部屋に予備兵三百人を引き連れて入室する。辺りを見渡し、隊長のロランが食事をっているテーブル脇まで押し進み、予備兵についての報告を行った。


 次いで眠り姫の起用と、間も無くダレン隊長が泣き付いてくるであろうという私見を述べて、編成を急いだ方がいい旨を上申じょうしんする。


 まかせるよと気怠けだるそうにモリアスを一瞥いちべつした後、ロランは再び目の前の食事に向き直る。見ると魔物の返り血で血塗ちまみれのロランは、全く意に介する事なく食事を続けている。


「隊長、食事前には流石に返り血は落としましょうよ。他の隊員たちの食欲が削がれます。あと、ゴブリンの血は臭いんです。なんで平気なんですか」


「いや、どうせまたすぐ血塗れにはなるじゃないか。ゴブリンの血だって、拭いたくらいじゃ臭いまでは取れないし。見た目だけの問題なら目に付かないところで食べるよ」


 やや不満そうにそう漏らすロランの食べている物が支給品の糧食でない事にモリアスが気付く。


「あれ?なんです?戦闘糧食ではないですね?」


「ああ、妹が夕刻に持ってきてくれたんだ。多分火酒亭の賄いサンドだと思う。蜂蜜を塗ってパリッと焼いた火喰い鳥に甘辛いタレと白っぽい少し酸味とクリーミーさのあるソースがかかってる。店では見た事がないメニューだから後で美味しかったかどうか聞かれるパターンじゃないかな。そのうち正式なメニューになりそうだよ。なかなか美味い」


 詳細な味の説明で、ある程度頭の中に味の想像が広がる。手掴みで食べられて、疲れた体に染み渡りそうな、しかしながらジャンクな素材は入っていない戦士向けの料理。

 流石兵舎に隣接する兵隊御用達の店である。そしてクラリスが持ってきてくれた食事だと聞いて途端に羨ましく感じた。


「確かに美味しそうですね。ゴブリンの血の匂いが無ければ一口下さいと言ってしまうところでした。そっちの飲み物も持ってきてもらったんですか?何かの果汁のようですが」


「いや、こっちはさっきゴブリンの後ろにいたエビルアップルの実から絞ってきた。ちょっと渋味はあるけどさっぱりとしていて肉の脂を洗い流すには丁度いい」


 エビルアップルは木の形をした魔物で所謂いわゆる「トレント」と呼ばれるものの一種である。

 歩く肉食の木といったそれは様々な種類が存在するが、そのうちで林檎の木の形をしたものがエビルアップルと呼ばれている。


 果樹園の林檎の木に成りすまして人や獣を襲う擬態ぎたいが得意な魔物だ。


「あの……。一応聞いておきますけど毒はないんですよね?なんかエビルアップルって実の部分にも顔が付いていて、毒液みたいなのを吐きかけてきたような気がするのですが……」


「いや、特に痺れたり気分が悪くなったりとかはないよ。ちょっと渋みがあるだけ。いや、でももしかしたら毒はあるのかな?一応幼少期に毒への耐性は鍛えられていたから分からないな。うん、でもまあまあ美味いぞ」


 そう言えばこの人、こう見えて元貴族の嫡子だったっけとモリアスが思い出す。確かに貴族だと言われれば納得してしまう雰囲気をまとっていると以前にも感じた記憶がある。


 しかし解せない。この上官はゴブリンの一群を切り伏せた後、エビルアップルを倒してわざわざ馬から降り、その実をぷちぷちとんでしぼって水袋に溜めて持って帰ってきたのだ。乱戦直後の戦場である。


「もうそれ以上飲まずに捨てて下さい。この後体調を崩しても知りませんよ。ほら、離して」


 そう言うとモリアスがロランの水袋を取り上げる。


「中身捨てたら洗って、水入れて返しますからね」


 不満気なロランを尻目にモリアスが奇行の絶えない上司の前をする為にきびすを返すと、派手な音を立てて休憩所の扉が開いた。


 肩で息をする第三歩兵大隊の指揮兵の姿を見て、モリアスは短い休息の残りがはかなく散った事を知り、肩越しにロランに声を掛けた。

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