第30話 熊の縄張り

「ママ、怖いよ……。怖い……」


 獣人の子供が母親と思しき熊の獣人に抱きつきながらカタカタとふるえている。


 年の頃なら七つといったところだろうか。建物の外から聞こえる剣戟けんげきおびえる様は庇護欲ひごよくを誘うものだった。


 ここ、地竜の火酒亭の一階では熊の亜人の親子が外の様子を窺っている。熊の耳が頭の上にある以外は、どちらもほぼ人間という見た目をしている。


「大丈夫、そんなに怖いならおまじないをかけてくるわね。少しここで待っていて」


 萌浅葱もえあさぎ色の普段着で優しく微笑ほほえむ母親がいつもと違うのは、その両の手に爪の付いた手甲てっこうを付けていることだ。


 少女から体を離した母親は、にこにこしたまま入口へと歩いていく。

 扉から外へ出ると、扉の両隣に両手の鉤爪かぎづめを振り抜きバツ印をつける。

 石で出来た壁がまるで柔らかいバターのように切り裂かれた。


「これでグレイウルフやゴブリンは入って来ないわ。虫や蛇は……、分からないけど……。ある程度、知性のある森の生き物は来ないわ。ほら、暖炉にあたって紅茶を飲みなさい。ハチミツをたっぷり入れておいたから」


 扉を閉めて戻ってきた母親に抱き上げられて、紅茶を渡された少女は甘いハチミツの香りに落ち着きを取り戻す。


 相変わらず建物の外からは激しい剣戟や悲鳴が聞こえているが、何故か母親の言う通り建物には入って来なかった。


 トントンと階段を降りる音が聞こえて振り向くと、銀髪の少女と、少女と同じ色の毛並みをした狼が姿を見せた。


「クラリスお姉ちゃん!」


 クルルちゃん、と獣人の子供の名を呼びながらクラリスが階段を降りてくる。


 今日からクラリスの家族になったという銀狼のファリスがクルルの体を包むように寝そべり、暖炉の前に横たわる。


 暖かく、柔らかな毛並みに包まれて、心地良さに思わず目を閉じて体を預ける。ファリスもそのまま頭を床に下ろして目を閉じた。


「ステラさん……。街……、大丈夫かな」


 ん〜、どうかしら、ステラと呼ばれた熊の獣人がにこにこと返答する。微塵も心配する様子を見せずにステラが続ける。


「でもね、仮にこんな小型の魔物じゃなくて、中型や大型の魔物が現れても、あなた達くらいは守ってみせるわ。おばさん、こう見えて結構強いのよ?」


 鈍く光る使い込まれた鉄の爪が放つ不穏ふおんな気配と、それを付けているふんわりした雰囲気の女性の雰囲気とが全く一致しない。


「ママ。ママは昔パパと一緒に「ぼーけんしゃ」をやってたんだよね。へいたいさんのおじさんが言ってた!」


 ファリスで出来たソファの中からクルルが顔を出す。


「ステラさん、冒険者だったんですか!?」


 クラリスの問いにステラが頷く。


「随分昔、クルルが生まれる前までね。旦那と一緒に色んな所を冒険したわ。旦那が死んで、クルルが生まれて辞めちゃったけど……。楽しかったわねぇ」


 遠い目で過去を懐かしむステラが、何かに気付き扉に向き直る。次の瞬間扉が吹き飛び、飛竜の首が中へと入ってきた。


「あら、悪い子ねぇ。外にある印が分からなかったのね」


 ステラがゆっくりと歩み寄ると、危機を感じた獣のように入り口から首を抜いて逃げようとワイバーンが暴れ出す。


 入る時には邪魔にならなかった背鰭せびれのような鱗が返しになって出られない。


 もがくワイバーンの元に笑顔のステラがたどり着くと、その表情のまま片手で背鰭を握り、もう片方の手にたずさえた鉄の爪がその背鰭を削ぎ落とす。


 まるで、熱したナイフでバターを切るように、なめらかに削ぎ落とされる背鰭。


 引っかかりを失ったワイバーンがドアから首を抜き逃げようとすると、その脇腹に鉄の爪が深々と刺さり、もう片方の鉄の爪がガリガリと鱗を逆撫さかなでていでいく。


「あら、熊の縄張りに踏み込んで逃げられると思っているのかしら。熊ってね、ものすごく執念深いのよ?」


 向かって右側の鱗をあらかた剥がれ、無理やり剥がされた鱗の付け根から激しく出血しながらワイバーンが暴れ、断末魔だんまつまに近い奇声きせいを上げる。


「そうよ、そう。もっとここは危険だと分かるように声を上げて頂戴。あなたの仲間がみんなここに来たくなくなるくらい声を上げてね。あら、声が小さくなってきたわ。ほら、頑張って声を出して」


 ワイバーンの脇腹に刺さった鉄の爪がスライドし、脇腹から腹の中心付近までが大きく切り裂かれた。


 辺りに臓物を撒き散らしながら断末魔を上げるワイバーンの声に、近隣のワイバーンが一斉に飛び立つ。


「ママ……、なんかママのほうが怖い……」


 クラリスが、見ちゃダメと声を掛けてクルルの目を両手で押さえる。


 飛び立ったワイバーンの相手をしていた冒険者の1人がステラに気付いて後ずさる。


「な……、残虐な切り裂き魔クルーエル・リッパー……」


 すぐ側にいたもう1人の冒険者が驚いたようにステラに向き直る。


「馬鹿な……。行方不明じゃなかったのか?!冒険者のパートナーが死んで居なくなったと聞いていたが……」


「いや、……あの武器……、間違い無い」


 2人の冒険者が少しずつステラから距離を取る。目を合わせないようにしながらジリジリと下がり、やがて路地を曲がって走り出した。


 その様子を見てステラが少しふくれっ面になる。


「もう!まだあの噂が生きてるのかしら!全く!あ、皆んな無事?」


 血塗ちまみれの両手を拭きながら室内に戻ってきたステラは、再びにこにこと笑顔に戻って話しかける。


「あ……あの噂って……」


 クラリスが恐る恐る尋ねると、ステラが照れを隠すように、嫌だわ本当に、と言いながら話し始める。


「昔、冒険者だった頃にね、ギルドの酒場で旦那がいちゃもんをつけられて殴られたのよ」


「いかにもテンプレートなギルドあるあるですね」


 クラリスの合いの手にステラが頷く。


「旦那は我慢しようとしたんだけど、ほら、おばさん熊じゃない?一旦自分のものだと認識したものは執着しちゃうのよ。習性という奴かしら。ほら、一回自分のものだと認識した、ご飯の入った荷物を持って逃げたら追いかけてくるでしょ?熊」


 確かに、冒険者ギルドの山菜取りガイドブックにも、野生の熊に荷物を取られたら取り返そうとしないようにと書いてある。クラリスが頷くとステラが続ける。


「自分の物を傷付けられたと思ったおばさん、ついうっかり殴っちゃったのよ。爪で」


「え?」


「つい、ついうっかりよ?わざとじゃ無いのよ。そしたら、まあまあ広範囲に大きくバッサリ切り傷になっちゃって。まあ、爪着けたままだったから。不幸な事故だったわ」


「え?え?」


「そしたら、『あの熊女はキレたらいつでもどこでも相手が誰でも問答無用で殺しにかかる』って噂になっちゃって。段々と噂が短くなって、『あの熊女は目が合ったら問答無用で殺しにかかる』になって。最終的には『あの熊と目が合ったら殺される』になったの。失礼だと思わない?!そんなわけ無いじゃない!理由もなく怪我をさせたりしないわよ!」


 理由があれば実の娘が怯えるような惨劇を引き起こすステラを見て、クラリスは少し引き攣った笑顔で同意する。が、明らかに恐れられて然るべき事故というか事件を起こしていることも事実だった。


 クラリスは思う。森で爪の十字痕を見たら何をおいても逃げよう、熊の縄張りは決して荒らすまい。そう決意して、しばらく疑問に思っていたことをステラに問いを投げかけた。


「ステラさん、ワイバーンってこんなに沢山居るものなんですか?私、今まで見たことなくて」


 問われたステラはしばらく思案して言葉につまる。


「居ない……わね。そもそも、ワイバーンはこんなに大きな群れは作らないわ。大体5〜6羽といったところのはずなんだけど……。確かに変ね、多すぎる。ワイバーンのような大型の魔物は食べる量も多いから、あまり大勢で群れていると食事にありつけない個体が出てくるの。だから、こんなに大きな群れがあるとは考えにくいわね」


 ステラがそこまで話すとクルルが声を上げた。


「ママ!大変なの!ファリスが苦しそう!」


 見るとファリスが呼吸を荒くして小刻みに震えている。クルルが小さな体でファリスの柔らかな毛並みを抱きしめて、優しく撫でながらファリスに呼びかけ、目には涙をたたえていた。


「あ!林檎!ちょっと待ってて!すぐに戻るから!」


 そう言うや否やクラリスは二階の自室へと取って返す。あわてて二階から戻ってきたクラリスはその手に木箱を抱えていた。


 暖炉の前まで戻ってきたクラリスが木箱のふたを取り中身を取り出す。


 暖炉の炎に照らされたそれは美しくキラキラと輝いていた。金色きんいろに透けた林檎の中にチャプチャプと液体が満たされ、暖炉の光を乱反射させている。


「えっと、どうやってあげたらいいのかな。かじるのかな。ファリス、ほら」


 クラリスがファリスに林檎を差し出すと、その上部をかじり取り、パリパリと心地の良い音を立てて噛み砕いて飲み込む。


 その途端とたん、辺り一面に芳醇ほうじゅんな林檎の甘い香りとアルコール特有の香りが広がる。


「え?!これ、お酒なの!?」


 クラリスがアルコールの匂いに驚きを見せる中、差し出した林檎の中の液体をファリスが舐め取っていく。


 林檎の金色が少しずつファリスの銀色の毛並みににじむように染み込み、銀狼を黄金色に染めて輝きを放ち始める。


「ふぁ、……ファリス綺麗……」


 クルルがふさふさとファリスの首元を撫でながら、その輝く毛並みに釘付けになっていた。


 林檎の中の液体を飲み終えると最後に容れ物の部分をパリパリと噛み砕いてそれは綺麗に無くなった。


 苦しそうだったファリスは落ち着きを見せて、しばらくすると寝息を立て始めた。


 店の外を駆けてくる足音にステラが身構えるが、入口に飛び込んできた姿に警戒を解く。


「クラリス!!無事!?」


 大声でそう叫びながら入口から駆け込んできた弓を持つ女性兵士に一同が『し〜〜!静かに!』と言いながらファリスを指差す。


 金色になったファリスを見て、アーリアが驚いているとステラがファリスに歩み寄ってその身を抱き上げた。


「二階に連れて行こうかしらね。流石さすがにおさんの瞬間はクルルやあなた達には刺激が強いでしょう。神獣様も周りに人がいると緊張するかもしれないわ」

 野生の動物は助けなんか無く子を産むものだから、とステラがファリスを抱いて二階への階段を上がっていった。

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