第5話 事件というものの「真実」

 事件において、

「本当の被害者というものが、誰なのか?」

 ということである。

 見えていることとしては、

「人が殺されている」

 ということと、

「その凶器と思しきものが、人の集合ポストから見つかった」

 ということ、さらに謎として、

「血液に動物の血が付着している。それによって、殺害現場が別ということが、ほぼ確定した」

 ということ、

「容疑者と思しき女が行方不明」

 ということ、

「宗教団体が絡んでいるかも知れない:

 ということくらいであろうか?

 一つ気になるのが、

「なぜ、動物の血が混ざっている」

 ということが起こったのか? ということである。

「犯行現場が別だ」

 ということを示しているということになるのだろうが、それよりも、

「そのことが、確定させた」

 ということに、何かわざとらしさが感じられ、一応の容疑者のアリバイも、同じように、わざとらしかが感じられるということで、今回の事件をどのように見ていくかということが問題になってくるであろう。

「とにかく、今回の事件は、至るところに、誰かの意思、あるいは、意図が画策されているように思えるのだ。

 ということになると、

「逆も真なり」

 ということも考えなければいけないだろう。

 この間、全国ニュースにもなったことで、

「夕方の六時というから、まだまだ会社が終わって帰宅ラッシュの真っただ中の時間の、都心のターミナル駅から、徒歩2分くらいのところで、刺殺事件があった」

 ということを報道していた。

 K市よりも、さらに大都会で、県庁所在地の中心駅のすぐそばだった。

「新幹線も止まるようなそんな大きな駅で起こった、大事件」

 ということであった。

 被害者は、30代の女性ということであったが、その女性は、

「ストーカー被害を警察に訴えていた」

 ということで、その後の経過として、

「裁判所から、接近禁止の命令まで出ていた」

 というではないか。

 これだけを聴けば、

「オンナに付きまとっている男性が、ストーカー防止条例に逆らって、女に近づき、そのままの勢いで、刺し殺した」

 ということであったが、果たして、そのあらすじ通りでいいのだろうか?

 もちろん、

「殺傷してしまった」

 ということに、弁解の余地はないのかも知れないし、まだ逃げているということなので、、

「早く捕まってほしい」

 という考えにウソはない。

 しかし、事実はどうなのか分からないのだ。実際に警察が捜査をして、その男が犯人であれば、逮捕されて、そのまま事情聴取が行われ、起訴されるか、不起訴になるかは、検察官の判断になる。

 警察は、なるべく、

「実証」

 を固め、犯人の犯行を立証できるだけの証拠を集めて、裁判で明らかにするようになる。

 つまり、そこから先は、裁判ということになる。

 ただ、実際に裁判となり、

「無罪」

 ということだってないとはいえない。

「証拠不十分」

 ということも十分にありえるし、優秀な弁護士に掛かると、警察の提出した証拠を、ことごとく否定されるということもあるだろう。

 下手をすると、警察の提出した証拠を逆手にとって、無罪の証拠とされることだってある。

 実際に、その人が犯人ではないということもあったりするくらいで、警察が逮捕して、起訴するところまでが警察にとっては、ある意味ゴールであるが、

「事件の解明」

 という意味では、まだまだこれからだといってもいいかも知れない。

 この、

「ターミナル駅周辺での女性殺傷事件」

 というものも、表に出ていることだけを鵜呑みにして、

「このストーカー男が悪いんだ」

 ということで、情報番組などで煽ってしまうと、

「却って、警察の捜査の枷になってしまいかねない」

 と言えなくもないだろうか。

 というのも、

「情報番組というものには、コメンテイターと呼ばれる連中がいる」

 というところからが問題で、

「放送局からくぎを刺されているか、あるいは、原稿のようなものがあるのかも知れない」

 のであるが、

 MCと呼ばれるメインキャスターは、ある程度中立であるが、コメンテイターと呼ばれる連中は、

「あくまでも、多数派意見を、あたかも、それが当たり前のことのようにいう」

 というのが多い。

 テレビ局も、そういう人を集めてくるのか、それとも、コメンテイターには、きつく差塩から言っているのか、とにかく、

「当たり前のことを、当たり前のようにコメントする」

 ということなのだろう。

「だったら、誰にでもできそうじゃないか?」

 と言われるが、だからこそ、本職の研究者であったり、専門家である人がいうのであれば、まだいいのだが、それを、芸人のような連中に言わせるのだろう。

 確かに、最近の情報番組というと、芸人の人たちばかりが、

「コメンテイターというのか、曜日ごとのレギュラーメンバーというような感じでひな壇に控えている」

 というのをよく見る。

「芸人だから悪い」

 などということではなく、言っていることに、重みも感情も感じないのは、

「当たり前のことを当たり前にしか言わないからで、本当の専門家であれば、自分の意見に自信を持っているはずなので、理論立てて説明しようとする」

 のだろう。

 しかし、芸人であれば、

「ただ、思っていることをいうだけ」

 ということで。これには、尺という問題もあるだろうが、

「ただ、いうだけであれば、誰にだっていえる」

 というのを自ら証明しているようにしか思えない。

 だから、

「最近のワイドショーのコメンテイター連中の言っていることに、賛同できないんだよな」

 と思っている人が多いと思えるのだった。

 そう思うようにあると、

「当たり前のことを当たり前に言われると、それはウソである」

 というような、天邪鬼的な考えになるのも、無理もないのではないだろうか。

 確かに、最近の民放(某放送局を含め)は、疑問にしか思えないような放送が多いような気がする。

 正直、

「テレビ離れ」

 が進んでいるので、当間のことなのかも知れない。スマホやネットで、

「ユーチューブ」

 などというものを見れば、それで足りるからだ。

 ニュースだって、ニュースアプリが話題のニュースをポップアップしてくれて、簡単に見ることができる。何も、テレビをわざわざ持って、番組を見るなどという人は、どんどん少なくなっているだろう。

「家にテレビがない」

 などというのも、結構いるようで、

「テレビなんて必要ない」

 ということになるだろう。

 特に新聞もそうかも知れない。スポーツ新聞の中には、

「紙媒体をなくして、ネット配信オンリーにする」

 というところも出てきたくらいである。

 そもそも、新聞なんて、読んでしまえば、

「ゴミにしかならない」

 ということである。

 昔ですら、

「チリ紙交換」

 ということで、

「新聞の束をどうするか?」

 というのが、問題だったのだ。

 今のように、

「見もしないものを、わざわざ金を出して配達してもらう」

 などというのは、無駄でしかないだろう。

 特に今は、

「ゴミを出すのも、こっちが金を出す時代だ」

 ということで、下手をすれば、昔は新聞や雑誌で、トイレットペーパーの変えてくれたのに、今は、

「紙ごみを出すのに、有料になる」

 という時代も近づいているだろう。

 自治体によっては、有料のところもあるかも知れない。

 とにかく苛立つのは、

「テレビのコメンテイターが、事件のあらましを聴いて、それだけで、あたかも、当たり前と思えるようなことを真実のように、決めつけてコメントする」

 ということである。

「もし、反対のことであり、事実は、殺された人が悪い人で、殺した人は、無理もない」

 というようなことが事実だったら、どうするというのだ?

 確かに、人を殺すということは決していいことではないし、今までも情状酌量があるとはいえ、

「人を殺すことは犯罪だ」

 ということに揺るぎはない。

 だからと言って、殺される側に、

「殺されるだけの理由があるとするのであれば、それでも、殺された側が一方的に可哀そうだ」

 と言えるのだろうか。

 事実が分かれば、どうせコメンテイターの連中は、手の平を返したように、

「殺しは悪いが、気持ちは分かる」

 とでも言い出すのだろうか。

 それとも、敢えて、マスゴミは自分たちの保身に走って、報道をせず、緘口令を敷いたりするのではないだろうか。

 それを思うと、

「マスゴミも、分かっていて煽っているのだろうか?」

 と思えてくるのであった。

「煽ることで、事件に注目を集め、有料記事を売ろう」

 とでも思っているのだろう。

 それが、

「マスゴミのやり方だ」

 ということではないだろうか。

 特に、マスコミが、

「マスゴミ」

 などと言われるようになったのは、かつての、

「世界的なパンデミック」

 の影響からだった。

 あの時、世間は大混乱となり、

「何を信じていいのか分からない」

 というカオスになったものだ。

 その時に言われたこととして、責任と罪のランキングの中で、

「三位は、すべてを他人事としてまわりを気にしない我々一般市民の中の一部の人間」

「二位は、政府」

「一位は、何でも記事になることなら、言っていることに信憑性があろうがなかろうが、記事にするという、マスゴミ」

 と言われたものだ。

 以前からあったのかどうかも分からないが、いかにも、

「今は存在しない」

 というモラルの欠如が、あからさまになったのが、

「今のマスゴミだ」

 ということであった。

 そういう意味で、

「事実関係もハッキリしない中で、ただ、自分たちの記事が売れればいい」

 という、そもそもの、マスコミ理念というのがどこに行ってしまったのか?

 ということである。

 だからこそ、情報番組という一種の看板番組であるにも関わらず、芸人を使って、当たり前のことだけを言わせるという、おかしなことになってしまったのではないだろうか?

 そんな状態を考えていると、この間の事件も、マスゴミが煽りまくり、コメンテイターの連中が、

「ストーカー行為があったとすれば、警察がどうにかして、事件にならないようにできなかったのか?」

 ということであったり、

「ストーカー防止法をもっと強化に」

 というと、他の人が、

「でも、厳しくすれば、今回のように、逆上する人がいるのだから、それも難しい」

 ということを言っている。

 確かに、ここだけを切り取れば、その通りであろう。

 しかし、実際に聴いてみると、

「犯人は、完全にその男」

 と決めつけていて。

「女の人にストーカー行為を繰り返し、接近禁止の命令があったにも関わらず、近づいた」

 ということだけを切り取って話をしているのだった。

 そこに至るまでの経緯に関して、マスゴミはまったく話そうとしない。

 もちろん、警察が、言わないからなのかも知れないが、少なくとも殺害されているわけだから、

「いまさら本人に危害が加わる恐れが」

 ということは、もうすでにないのである。

 要するに、

「すべてが手遅れだ」

 ということであった。

 そんな気概が加わることもないのに、警察は緘口令を敷いているというのだろうか?

「今後似たような犯罪が起こらないようにしないといけない」

 ということを警察が考えているのであれば、ちゃんと公表し、マスゴミに、

「正しい報道をしてもらう」

 ということが大切なのではないだろうか?

 それなのに、警察が情報を公開しないのか、どれとも、マスゴミに緘口令が敷かれているのか、どちらにしても、犯人が逮捕されてしまうと、その後のことは、裁判になって初めて、

「第一回の公判が行われました」

 という報道が行われるだけではないだろうか。

 そして、裁判が粛々と行われるが、裁判中継もできず、結果だけが報道される。

 本当であれば、

「公開裁判があってもいいのではないか?」

 と思うのだが、もしそれを、

「個人の保護だ」

 というのであれば、本末転倒ではないだろうか?

 いくら警察が、

「真実を突き止める」

 といっても、ものによっては、

「世間の皆も知るべきこと」

 もあるはずだ。

 そもそも、個人の保護というのであれば、世間の風潮としての、

「前科者は、必ず再度事件を再発させる」

 とでもいうような風潮をなくそうとしないのだろうか?

 難しいというのは分かるが、

「前科者だと分かると、どこも雇ってくれない」

 ということで、結局、世間に戻ることができないことから、

「再犯」

 ということになるのではないか。

「一度罪を犯してしまうと、もう、世間に戻ることができない」

 ということがあるということを徹底させるのであれば、

「本当に、犯罪のない世の中ができるのではないか?」

 ということであるが、そんなことは現実的にありえない。

 それなのに、マスゴミやコメンテイターは、あくまでも、

「正論がすべて正しい」

 としてしか話さない。

「正論がすべて正しいのであれば、そもそも、犯罪など起こるはずがない」

 と言えるのではないだろうか?

 だから、コメンテイターであったり、マスゴミが正論をいうのであれば、せめて、裏付けくらいがあるうえで言えばいいのではないかと思う。

 そもそも、裏付けがあった場合は、コメンテイターがm正論を言えるかどうかということも疑問である。

 その時初めて、

「正論というのが、本当に正しいことなのだろうか?」

 ということに、気付くはずだからである。

 そういう意味で、今のコメンテイターが出てくる情報番組においてのコメントというのは、

「まったく本末転倒な言い分でしかない」

 ということになるだろう。

 まだ、これが専門家などの話であれば、自分が勉強してきた資料や、集めた情報において、

「本当の意味での、説得資料」

 として、説明できるだけのものがあり、それだけ、

「信憑性がある」

 というものだ。

 だから、よくSNSなどで、後から、

「あのコメンテイターの言ったことは根拠はない」:

 と指摘され、

「放送局が謝罪に追われる」

 ということが、日常茶飯事になるというものである。

 こんな感情を抱いていたのは、実は捜査員の中で、

「迫田刑事」

 がこんな感覚になることが多くて、そのせいもあって、

「あまり、捜査員の人と話をしない」

 というタイプになってしまった。

 まわりの人が感じている迫田刑事のイメージは、

「あいつは、勧善懲悪なんじゃないかな?」

 と、あまり話をしないにも関わらず、

「完全にバレている」

 といってもいいだろう。

 というのも、

「あいつは、見ていて分かりやすい性格だからな」

 と、本当はアウトローな性格がバレたくはないと思っているくせに、実際には、バレバレだったというのは、皮肉なことである。

 しかし、こんな性格も、別に嫌われているわけではない。

 むしろ、

「皆から好かれている」

 といってもいいくらいではないだろうか。

 本当は彼らも、迫田に近い考えを持っていて、それを自分で隠そうとすることができるから、普通に隠せばいいと思っているのだろう。

 しかし、迫田の場合は、

「一寸でもバレると、誰も相手にしてくれない」

 と思うからか、神経質であった。

 しかし、迫田は性格的には、

「別に一人になるなら、一人でもいい」

 というところがある。

 しかし、それだけに、警察としての仕事になると、

「そうはいかない」

 と思うことで、余計に神経質になり、

「まわりに知られたくないようにする」

 ということを余計に考えるのであろう。

 だから、

「まわりと、うまくいかないということに慣れていない」

 ということであり、

「普段はそれでいい」

 と思っているからであった。

 そんな自分の性格を、迫田は本当は好きではないはずなのに、どうしても、

「勧善懲悪」

 というのが邪魔をするのだ。

 だから、

「警察に入ろう」

 と思ったのだし、しかし、入ってみれば、まったく正反対で、

「国民を守るよりも、まずは、警察機構を守る」

 ということを教わる。

 それは上司から教えられるわけではなく、事件を解決するたびに感じさせられるという実に、皮肉なことであった。

 そんな警察機構に対して、

「何とも、本末転倒にしか思えない」

 と感じるものを、一種の、

「負のスパイラル」

 と思えてならないのであった。

 ただ、勧善懲悪というものすべてが、本当に正しいものなのかどうなのか、考えさせられるところに来ているといってもいいだろう。

 迫田刑事は、

「警察内部で似たような考えを持っているのは、桜井刑事だ」

 と思っていた。

 ただ、性格的には違うので、衝突はしょうがないと思うようになっていたのだ。

 迫田刑事が気になっていたのは、

「行方不明になっている奥さんである平野聡子の旦那のこと」

 であった。

 元旦那は、奥さんが入信してから少しして、

「事故で死んだ」

 ということが気になったのだ。

「他の人が気にならないようなことが、たまに気になって、それが、実は事件の核心をついていた」

 ということが今までに何度かあったことで、心無い連中は、

「今回も、頼むぞ」

 と、無責任にいうやつがいる。

「こっちの気持ちも知らないで」

 と言いたいのだが、それはあくまでも、まだ社交辞令の範疇だった。

 それよりも、

「事件の核心」

 というものよりも、楽しんでいるだけだと思うやつもいたりして、それが苛立ちに繋がるのだ。

 普段は、

「事件をネタにするなんて不謹慎な」

 と言っているような連中なので、いかにも、

「不謹慎な」

 ということであるが、まさにその通りではないだろうか。

 ただ、今回の、

「旦那の交通事故死」

 というものが、もし事件と結びついているということであれば、

「これほど、話が厄介なものではない」

 というか、

「実に都合のいいものではない」

 と言えるだろう。

「まるで、推理小説のようではないか?」

 と言い出しかねない。

 特に刑事ともなると、そういう実際に事件に、そういう迷信めいたことを組み合わせるのを嫌う傾向がある。

 やはりどうしても、

「事件解決には、頭ではなく、脚で稼ぐものであり、靴がどれほどすり減ったか? ということが重要だと言われるような、いかにも昭和時代の考え方」

 というのが、いまだに重要だと思っている人がいるということであろう。

 そんなことを考えていると、

「さすがに旦那の事故死までを考えるとなると、それこそ小説の中のようではないか?」

 と言われるのがオチであろう。

 だが、それが、まんざらでもないと思えることが実際にあったのでビックリさせられるのだが、今回のマンションでの事件が起こってから数日したところで、また殺人事件があったのだ。

 これは、初動の段階では、

「まったくこの二つの事件が結びつく」

 などということは、想像もしていなかったことであるが、それが分かったのが、鑑識による解剖が行われた時であった。

 今回の事件も、刺殺だったのだが、マンションの部屋というわけではなく、河原で死体が発見され、今度はナイフが突き刺さったままだったということなどから考えると、

「前の事件と、まったく違った展開だ」

 ということであった。

 同じ管轄だったので、最初は、

「連続殺人か?」

 と思われたが、概要だけでも、共通点が一切なかったので、

「まったく別の犯罪」

 ということで、新たに捜査本部がたてられたが、鑑識からの報告で、その事態は一変してしまった。

「これは連続殺人の可能性が大きい」

 ということで、

「捜査本部も一緒にしよう」

 というところまで行っていたのだ。

 というのは、

「今回のナイフに付着していた血液にも、ネコかイヌの血液が付着していた」

 ということだったからである。

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