第3話 被害者は誰だ?

 思わず、桜井刑事が、

「うっ」

 と嗚咽を漏らした。

 さすがにこの様子を、一般人にいきなり見せるわけにもいかず、扉を閉めて、脇坂を表に出しながら、自分も明るい部屋に戻っていった。

 確かに日は暮れているが、真っ暗な部屋というわけではない。隣接したところには、すでに他のマンションが乱立しているところなので。その明かりが漏れてきているのだ。

 桜井刑事は、ケイタイ電話を取り出して、

「ああ、桜井です。殺人事件発生です。ええ、私がやってきた血染めのナイフが見つかったマンションです。そこの306号室から見つかりました。ただ、住民は引っ越した後のようで、まっさらな状態の中での死体だったんです」

 というと、向こうから指示か質問があったようで、

「ええ、見つかったのは、浴槽です。確認しましたが、死んでいます。死後硬直からみても、相当前だと思います。大至急応援と、鑑識の手配をお願いします」

 といって電話を切った。

 そして、今度は、脇坂を制して、

「ここをとりあえず出ましょう。まもなく警察が来ますので、それまで、あなたのお部屋にでもいましょうか。とりあえず、落ち着きましょう」

 ということで、桜井は、脇坂をともなって、彼の部屋に戻っていった。

「大丈夫ですか? 落ち着いたら、少しでもお話を伺いたいですね」

 というではないか。

「ええ、大丈夫です。しかし、何でこんなことに?」

 と落胆しているようだったので、桜井刑事は、

「大丈夫ですよ」

 といって、落ち着かせようとする。

「お隣は、二週間くらい前に引っ越したというのは、どうして分かったんですか? お隣から引っ越しますと言ってきたわけですか?」

 と、桜井刑事に聞かれた脇坂は、

「いいえ、そういうわけではないんですけどね。しいて言えば、隣の部屋の明かりがつかなくなったのが、2週間前だったということです。その日から、真っ暗になったので、引っ越したんだって思いました」

 と脇坂がいうと、

「何か306号室が気になっていたんですか? そうでもないと、明かりをいちいち気にするというのも、神経質すぎる気がするんですよ。303号室のように、エレベータから降りて部屋に行くまでに、必ず通過するところであれば分かりますが、そうでもないということであれば、そこまで神経質というのはおかしいと思ってですね」

 と桜井刑事は言った。

「実は、306号室は、新婚だったんですが、時々、夜中に誰か仲間を連れてくるんでしょうね。定期的に、どんちゃん騒ぎをするんですよ。それでイライラしていたというわけなんです。だから、管理会社には、注意してほしいと言ったんですが、ずっと変わることはなかったので、こちらもウンザリしていたということです」

 という。

「なるほど、引っ越してくれたのは、ありがたかったということですね?」

 と聞かれたので、

「ええ、その通りです」

 というと、

「管理人の方はどうでした?」

 と聞かれて、

「いやあ、どうもこうも、何もしてくれませんよ。こちらが何を言っても、右から左という感じですね。うるさいやつがいると思っているだけだったんじゃないですか?」

 と脇坂がいうのを聴いて、

「これはよほど管理会社に恨みを持っているな」

 ということを感じたが、それでも、怒りの割に、投げやりに聞こえるのは、それだけ、

「この男が言葉を選んでいっているということなのだろう」

7と桜井刑事は感じた。

 しかし、

「まあ、こういうことは、マンション住まいをしていると、日常茶飯事だろうな」

 と、自分もマンション住まいなので、桜井刑事も一応の同情を、脇坂に寄せていたのだ。

 それを分かったのか、脇坂だったもで、黙っていると、

「脇坂さん自身は、引っ越そうとは思わなかったんですか?」

 と聞かれて、

「ええ、もちろん、それも考えましたけど、でも、そこまではしませんでした」

 というので、

「なぜですか?」

 と桜井刑事が聴くと、

「もし、ここを引っ越した後に、彼らが引っ越すかも知れないし、さらに、こっちがもし、隣室に誰もいない部屋に入ったとしても、空室なんだから、そのうちに誰かが入る可能性は大きいわけですよね。その人が、隣室の人よりももっと最悪の人だったらと思うと、怖くて動くこともできないですからね。そんなことをもし繰り返すようになると、それこそ、引っ越し貧乏になってしまいますよ」

 と脇坂は言った。

「この男、相当冷静な分析ができる男なのだろうか?」

 と、桜井刑事は感じた。

「いや、これくらいのことは、普通の思考能力を持っている人であればできることだ」

 と感じた。

 要するに、

「それだけ、世間の連中に発想能力が欠如している」

 ということを感じるのだ。

 というのも、

「ちょっと考えるだけで、飛躍的な発想ができるのに」

 と思うからで、

「そういう連想的な発想ができないことが、今の世の中の無残な状態に繋がっているんだろうな」

 と桜井刑事は感じていた。

 世の中というのが、そんな連中ばかりであり、

「だから、俺たち刑事の仕事が減らないんだ」

 と、本来なら愚痴をこぼしたいくらいだった。

 要するに、

「もう少しでも、まわりを見る目を皆がもってくれれば、事件も相当減るんだろうな」

 ということを、よく、本部長と話をしたのを思い出した。

 あくまでも、希望的観測であり、いっても仕方がないということが分かっているのだが、言わないわけにはいかないという気分であった。

「なるほど、分かりました。ところで知っている範囲でいいので、予備知識として知っておきたいのですが、隣室の住民というのは、どういう人だったんですか?」

 と桜井刑事に聴かれて、

「若い男女だったと思います。ただ、結婚しているかどうかまではよく分からないんです。毎日出かけていく時間が違って、帰りは一緒なんですよ。そちらかがシフト制だったり、夜の仕事であれば分かるんですが、もし、夜の商売とすれば、女の方かも知れないですね」

 という。

「そうですか。まあ、詳しいことは管理人に聴けば分かるとは思うんですが、この部屋が空き家になったと思ってから、何か物音は聞かれましたか?」

 と刑事が聴くと、

「ああ、聞こえましたよ。でも、それはハッキリとしないんじゃないですか? この部屋はこれからも貸し出すわけですから、住民が出ていってから、補修をしたり、きれいにしたりすることもあるでしょう。それが終われば、不動産会社に空き室の登録をすることになるでしょうから、不動産会社が、入居希望者を連れてくることもあるでしょうね」

 ということであった。

 さらに、脇坂は、

「でも、二週間ということなので、どこまでできるかでしょうけどね」

 というのであった。

 それを聞いた桜井は、

「なるほど、だったら、被害者がいつからあの場所で放置されたかということですよね。ひょっとすると、殺したのが退居してすぐだったら、それこそ、もっと前に見つかっていたことになるわけですよ。もし、あなたの郵便受けにナイフを入れた日が、昨日だったのだとすれば、ナイフと今回の事件の関係性も微妙になってくる気がしますからね」

 という。

「ということは、刑事さんは、私の郵便受けにあったナイフと、今回の殺人事件は関係があるということを考えているわけですか?」

 というので、

「それが普通だと思うんだけど?」

 と、桜井経緯が言った。

 脇坂は少し考えてから、今度は思ってよりも、自信を持った口調で言ったのだが、

「それにしては、あの現場で血がそこまで飛び散っていないと思われるんですが、だとすると、凶器はまだ被害者の胸に刺さったままじゃないんですか? 凶器を抜き取ると、それなりに相当な返り血が飛び散るはずだと思うんですけど?」

 ということであった。

 脇坂は続ける。

「あそこのあれだけの真っ暗な状態であれば、表で刺し殺してから、あそこに隠したということになるのではないかと思うんですが、どうしてそんな手間のかかることをしたんでしょうね? 管理人にしても、不動産屋にしても、一度ここに訪れれば、漏れなく部屋を確認していくはずなので、死体を隠すというようなことは意味がないように思うんですけども?」

 と相当きつめにいったが、それは自分の意見にかなりの自信があるからだろう。

 しかし、これだけハッキリと言ってのけるということは、却って刑事に、

「どうしてここまですぐに分かるんだ? 最初から用意しておいたいいわけではないか?」

 と思わせるかも知れない。

 しかし、桜井としては、今のところ、

「この脇坂という男が何か言い訳をするようなことはあるはずないな」

 と思っていたことだろう。

 それを考えると、二人がこの場で、

「意見を戦わせている」

 としても、いずれは、

「すべて他の証言で、白日の下にさらされることだろう」

 とお互いに考えていたに違いない。

 ただ、桜井刑事としては、

「この男、甘く見ていたら痛い目に遭いそうだな」

 ということくらいは感じているようだった。

 桜井としては、

「まずは、下で見つかった凶器と思しきナイフの鑑識が終われば、まずは、いろいろ分かってくることなのではないだろうか?」

 と感じるのだった。

 ナイフを鑑識に預けてきた迫田刑事は、少し下で独自に鑑識と捜査を行っているところに桜井刑事からの連絡を受けた。

「はい、こちら迫田。桜井さん、どうされました?」

 と聞くと、

「下が落ち着いたら、3階まで上がってきてくれないか?」

 と言われ、

「どうしたんですか?」

 と聞くと、

「うん、こっちで仏が見つかった」

 というと、電話口で迫田刑事が息を呑むのが聞え、

「どういうことですか? じゃあ、さっきのが凶器ということですか?」

 と聞くので、

「分からん、とりあえず上がってきてもらおう」

 と言われ、

「はい、分かりました」

 と、言って、迫田刑事は、そそこさと上がってきた。

 迫田刑事に犯行現場を見せると、

「うわっ、これは」

 といって、迫田刑事も嗚咽でむせたようだった。

 迫田刑事に見せたその時の臭いは、先ほどとは、若干違っているようだった。

 桜井刑事が最初に感じたのは、鼻にツンと突く、血の臭いだった。

 そのうちに、腐ったような臭いを感じ、息苦しさが襲ってきたのだったが、今回は、先に嗚咽のようなものがあり、悪臭が先だった。その後で、今度はじんわりと地の臭いが出てきたのだった。

「本当に何ですか? この臭いは?」

 と迫田刑事がいうので、桜井刑事は、先ほどの自分の疑問をぶつけてみた。

「迫田君、君は最初にどんな臭いを感じたかね?」

 と聞くと、桜井刑事の言いたいことがよく分からないのか、

「私は、まず、血の臭いを感じましたね。そのあとで、何か臭い汚物のような臭いがしてきて、これはたまらないと思ったんですよ。正直、息をするのも嫌になる感じでしたよ」

 というので、

「そうだろう? 私もそうだったのだよ」

 というと、迫田刑事は少し不可思議に思ったのか、怪訝な表情になっていた。

 桜井刑事はそれには構わず、そして迫田刑事にかまうことなく、部屋を後にした。

 さっきに比べて目が慣れてきていることもあって、傷口を今度は確認することができた。どうやら、ナイフは刺さっていないようだ。

「ということは?」

 と、桜井刑事は考えたが、

「ナイフが取れていて、そのわりには、それほど血が飛び散っていないではないか?」

 と感じたのだ。

 そして次に感じたことは、

「だということであれば、犯行現場はここではない可能性がある」

 と感じた。

「そっか、だから、この風呂場にあったんだ」

 と思った。

 もし、この場所で殺人を犯すのはあまりにも不自然だ。もし、このマンションのこの部屋を誰かが借りているのであれば、風呂場を使うということはあるだろうから、ここでの犯行もないとは言えないが、まったく使っていない部屋で殺人が行われたとすれば、死体が風呂場にあるのは、明らかに不自然である。

 というのも、風呂場というところが、とにかく狭くて、暗いところだからだ。

 こんなところで犯行を犯そうものなら、いくらナイフであっても、確実に絶命させることなどできないだろう。

 もしできるとすれば、よほど、

「暗いところでも目が利いて、しかも、殺し屋のように、確実に相手をしとめることができる自信がない限り、こんなところで犯行を犯すわけはない。

 それが、桜井経緯の中で最初に引っかかっていた部分だった。

 そのうちに、警察が入ってくる。

 その中に、警部と思えるような人が、

「桜井、ガイシャはどこだ?」

 と言われ、警部をそこに連れて行った。

 警部はその惨状を見ながら、

「うーむ」

 と唸った。

 その中には管理人もいて、管理人は刑事からもらった手袋をしているようだった。そして、おもむろにスイッチのところに行き、スイッチをつけると、スイッチがついたのだ。

「一応ライフラインが利くように管理人にお願いしておいたんだ」

 と警部がいうと、

「そういうことですか」

 と桜井刑事が言って、再度現場を見ると、これは明るくなったことで、かなりよく見えた。

「これならよく見えるだろう」

 という警部の声を聴いて、

「ええ、よく分かります」

 といいながら、桜井は、床のタイルのあたりをまずは確認していた。

 なるほど、桜井の睨んだ通り、まっすぐに血糊の浮かんだ、線が数本、引っ張られた後のように見えていた。

「ああ、やはり、どこかで殺してここに運び込んだんですね?」

 ということが分かった。

 犯人とすれば、それが分かることくらいは、別に問題ではなかったということか。それよりも、

「どこで殺したのか?」

 ということであったり、

「犯人が誰なのか?」

 ということを警察が分かるわけはないとタカをくくっているということn自信を持っているのだろうと思わざるを得ないのだった。

「これは一体誰なんだい?」

 ということで、そこに倒れて、いかにも断末魔の顔で、芽をまったくの明後日の方向に向けているのを見つめた。

 その人物は男で、年の頃はまだ若い。見た目で、30代くらいであろうか?

 このレベルの賃貸マンションを借りるとすれば、一人住まいであっても、不思議のないくらいの男だったのだ。

「管理人さん」

 と警部は管理人を呼んだ。

 まず、この死体の身元の確認が一番だったからだ。

 呼ばれた管理人が入ってくると、その死体を見て、ビックリしていた。一度は入ろうとしていたが、臭いに耐えられなかったのか、電気だけはつけて、そのまま表に行ってしまっていたのだ。

 それを呼び止められたのだから、管理人も、

「因果な商売だな」

 と思ったことだろう。

 それでも、さすがに、殺人事件が自分の管理しているマンションで起こったのだから、警察を相手に、

「知りません」

 といって、しらを切れるわけはないだろう。

 中に入ってきて、

「管理人さん、悪いけど、この人はこのマンションの住民かどうか確認してもらえますか?」

 と、警部は聴いた。

 管理人は、その断末魔の目に睨まれたようで、最初は直視できないようだったが、すぐに覚悟を決めたようで、

「いえ、私が知っている人ではありません」

 ということであった。

「じゃあ、ここの住民ではないと?」

 と言われ、

「マンションの中には契約してきた方以外の家族でお住まいの方がいますので、一概には確定的なことは言えませんが、少なくともこの部屋の人ではないと思います。何しろ、この部屋の契約者は、女性でしたからね」

 と管理人が言った。

「ほう、女性なんですね?」

 と聞かれ、

「ええ、そうです、まだお若い女性でしたよ。ただ、化粧が派手で、香水もプンプンと匂いをさせていましたので、夜の商売の方かな? と思いました」

 と、管理人はいう。

「結婚してはおられなかったんですね?」

 というと、

「ええ、最初に契約された時は独身で一人暮らしということでした。そういえば、確か最初に契約された時は、どこかの企業の秘書のようなことをされているように記憶しています。普通のOLでは一人で生活はしていけませんよ」

 というのであった。

 桜井刑事は、先ほどの脇坂の話を思い出していた。

「確か、騒音がうるさいといっていたっけ」

 というのを思い出して、

「管理人さんに聞きたいんですが」

 と、桜井刑事が声を掛けた。

 警部は、

「桜井は何か握ってるな」

 と思ったので、後は任せることにした。

「何でしょう?」

 と管理人も、少し落ち着きを取り戻したようで、平然とした顔をしていた。

「実は、隣の住民である脇坂さんに聞いたんですが」

 と前置きをすると、管理人が、一瞬、

「ぎょっとした目に、怯えのようなものが走った」

 ということを、桜井刑事は見逃さなかった。

「脇坂さんがいうには、いつも306号室の住民がうるさいからといって管理人に苦情を言ったことがあるといっているんですが?」

 と言われ、どうやら、管理人の不安が的中したのだろう、明らかに落胆した表情になった管理人は、

「ああ、そうですね。以前にそんなことがあったのを思い出しました。確かに、うるさいという口調がありましたね」

 と、

「もうごまかせないか」

 と観念したのか、管理員は、どうしようもないという感じで、白状するしかないのだった。

「管理人さんは、その時、どのような対応をされました?」

 と桜井刑事が聴くので、

「ああ、あの時は、住民の女性とちょうどばったり一階で会うことがあったので、その時、少しですが、軽く注意を促しました」

 という、

「どのような?」

 と聞かれ、少し考えていたようだが、

「別に、細かいことまでは言いませんよ」

 というと、それを聞いた桜井刑事は、

「その時に、脇坂さんの名前か、部屋番号のことは言いましたか?」

 と聞いた。

「いいえ、そこまでは言いません。逆恨みをされると困るでしょうから」

 ということであった。

 それを聞いた桜井刑事は、

「うんうん」

 と頷き、それ以上は何も言わなかったが、それを聞いていた警部が今度は口を挟んだ。

「管理人は、近隣住民の苦情を聞いたということですね? それをもう少し詳しく教えてくれませんか?」

 と言った。

 これは桜井刑事が聴きたいことであったのだが、桜井刑事は、その質問を上司に譲ったのだった。

 管理人は、おもむろに口を開いた。

「最初は、隣の夫婦がうるさいといってきたんですよ。でも、私は隣は一人暮らしだと思っていたので、最初はおかしいなと思ったんです。何か、脇坂さんが勘違いをしているんじゃないかと思ってですね。たとえば、他の部屋の騒音を、隣の部屋だと思い込んだとかですね。マンションというところは、そういうところがありますからね」

 と言った。

「なるほど、それなら、管理人の意見にも一理ある」

 と桜井刑事は思った。

 しかし、警部は、

「でも、管理人は、彼女が派手な感じの女性だと思ったわけでしょう? ということは、男関係も激しい女性だとは思わなかったんですか?」

 と言った。

 確かに、その考えはありなのだろうが、本来では口にするだけでも、アウトという女性蔑視の言葉であるが、こと、

「殺人事件の捜査」

 ということになれば、それもしょうがないことであろう。

 と、管理人も、少し観念してきている。

「確かに刑事さんのおっしゃる通りですけど、やっぱり管理人といっても、人のプライバシーには入り込めませんからね。それに、苦情を言われたからといって、そのすべてを丸く収めることなんてできるわけもないし、必ず、どちらにもそれなりの妥協が必要になるということも分かっていますからね」

 という。

 管理人の顔を見ていると、

「私はだてに、何年も管理人をやっていない」

 と言いたげであった。

 どの自信が、過剰なのかどうかは、誰にも分からない。

 ただ、どうやら、

「管理人は、女性にはハッキリと話したわけではなさそうだ」

 ということが、警部にも桜井刑事にも分かった。

 だとすれば、管理人と、女性との間に、

「今回のことで、少なくともトラブルはない」

 と言えるだろう。

「桜井君はどう思うかね?」

 と聞かれて、

「ああ、そうですね。管理人は、決してウソを言っているようには私には見えませんね」

 と桜井がいうと、管理人は、あからさまに安心したように身体の力がガクッと抜けているようだった。

 それを見た桜井刑事がすかさず、

「でも、管理人さんは、ひょっとして、その男を知っていたんじゃないですか?」

 と聞くと、管理人は、またあからさまに、

「ドキッ」

 とした表情になって、少し顔色が悪くなったようだ。

 これでハッキリと言えることとしては、

「この管理人という人間は、明らかにどうしようもない人だ」

 と言えるのであった。

 だからと言って、肝心なことをポロっと喋ってくれるような人間かどうかということは分からない。

 ただ、

「プレッシャーには弱い人」

 ということは言えるだろう。

 そして、この事件の今のところのキーパーソンであるとは思うのだが、いかに関係してくるのかということは、さしもの桜井刑事にも分からなかった。

「とりあえず、管理人さん、ありがとうございました。またお話を伺うこともあると思いますので。その時はご協力ください」

 と、警部はそういって、管理人を解放したのだった。

「桜井君、今のをどう思う?」

 と聞かれ、

「管理人が何かの事情は知っていそうですね」

 と桜井刑事は答えた。

「とにかく、被害者が誰なのか、まずはその確定が最初なのではないですかね?」

 と桜井刑事は言った。

 管理人と、脇坂から、ある程度の事情を聴き、それぞれに、

「またお話を伺うことになるかも知れませんが」

 ということでその場を離れた。

 特に、脇坂に対しては、強めに言っていたが、それは、もちろんだろう、あの状態で考えれば、あのナイフが凶器である可能性は明らかに高いのだった。

 それを踏まえて、とりあえず、その場を撤収した警部、桜井、迫田両刑事を中心とする、

「K警察刑事課」

 の面々は、その場を離れていったのだった。

 警察署に戻ると、さっそく捜査本部ができていて、

「マンション殺人事件捜査本部」

 ということで、本部は当然のことながら、K警察内部に置かれたのだ。

 最近では、あまり凶悪な事件は起こっていなかったので、マスゴミも今回の事件には飛びつくように、囲み取材をしようと、警察署前で、待ち構えている。

 何と言っても今回の事件の特徴というのは、

「謎が多い」

 ということではないだろうか。

 まず一つ目としては、何と言っても

「血染めのナイフの謎」

 というところであろうか?

 血染めのナイフが、マンションの集合ポストに入っていた。そのポストは、死体が発見された、空室となっていた部屋の隣人である。

 まずは、なぜ、集合ポストに入っていたか?

 これに関しては、いつ、入れられたのか? ということも問題ではないだろうか?

 入れられた時は、血糊はほとんど乾いていた。ということは、犯行は、かなり前だということになる。

 しかし、そうなると、なぜ隣人に?

 ということになる。

「罪を着せるつもりで入れた」

 としか思えないだろう。

 そもそも、犯人が自分で見つけるというような自作自演も考えられなくもないが、この場合は、そこに何のメリットがあるというのか、

「死体が発見されない」

 というようなことになるのであれば、ナイフは謎のままということなのだろうが、簡単にナイフが見つかったということは、

「犯人の自作自演ではない」

 と言えるだろう。

 確かに、普通は自作自演と思わないことで、捜査をかく乱させるという意図も考えられるが、今回は、犯人がわざといろいろ晒していて、その上で謎をそれぞれに示している。

 そんな策を施しているのに、輪をかけたかのような、偽装工作が続くと、今度は、

「一周回って、策を弄しすぎた」

 ということにならないだろうか?

 そう考えると、

「第一発見者を疑え」

 という理屈とは違うだろう。

 第一発見者は、あくまでも、桜井刑事であり、脇坂は、血染めのナイフを発見し、警察に通報したというだけのことである。

 しかも、彼の行動は、非の打ちどころのないほどに、実に正解だといってもいいだろう。そこで下手に隠そうものなら、却って疑われるということになりかねないだろう。

 それを思うと、

「入り組んだ犯罪ではあるが、何か一つの糸を手繰って、犯人の意図を見付けさえすれば、事件は解決することができる」

 というのが、今回の捜査本部長である、門倉警部の考えであった。

 門倉警部は、ずっとK警察生え抜きで、キャリア組でもない、

「叩き上げ」

 であった。

 桜井刑事は、そんな門倉警部から、いわゆる、

「刑事もいろは」

 というものを叩きこまれたのだった。

 そういう意味で、

「門倉警部の崇拝者」

 といっても過言ではないだろう。

 門倉警部の指示としては、

「優先順位としては、被害者の身元をハッキリさせること、その次は、元々のあの部屋の住民だったという人の捜査。そして、凶器が、本当にあの血染めのナイフなのか? ということ、そして、第一発見者の脇坂氏と、管理人についての聞き込みも行っておいた方がいいだろうな。被害者が特定された時の、二人のアリバイということもあるからね」

 と、いうことであった。

 桜井刑事は、

「そこまで、警部はどうして、脇坂氏と管理人にこだわるのだろう?」

 とも思ったが、確かに今の段階では、

「謎が多くて、そのわりに、手掛かりが少ない」

 ということで、捜査とすれば、どうしても幅を広げなければいけないということはしょうがないといえるだろう。

 それだけに、捜査は難航するのは分かっているのだが、そう簡単に、うまくいかせるということもいかないだろう。

 地道な捜査が求められ、たくさんの選択肢から、何が正しいのかということを導いていくのが、本部長としての、門倉警部の腕の見せ所というところであろう。

「今までにも、もっと厄介な事件は、山ほどあった」

 と、いつも、門倉警部とコンビを組んでいた桜井刑事は、自分の若かりし頃を思い出すのだった。

 たまに、

「若かりし頃を思い出す」

 というのが、キーワードとして、時々思い出すことで、

「自分を顧みる」

 というのが、重要なことだと、桜井刑事は思うのであった。

 桜井刑事と、迫田刑事は、とりあえず、被害者の身元を探ることになった。

 どうやら、

「死体発見現場に以前住んでいたという女性と、関係がある男ではないか?」

 ということが、有力になってきた。

 疑ったわけではないが、脇坂の話だけでは、被害者の特定に結びつけるには、薄すぎるというものであった。

「脇坂という男、信用できるのかい?」

 と、門倉警部に言われ、

「何とも言えませんね。ただ、今のところ、疑うだけの証拠もないし、とりあえず信用できるところは信用しないと、先に進まない気がするんですよ」

 と、桜井刑事がいうので、

「そうか、君がそこまでいうのであれば」

 ということで、今のところ、脇坂の証言を疑うに至っていないということで、全面的にというわけにはいかないが、事件の全容を解明するための材料としては、使うことにしようということであった。

「桜井さんは、あの脇坂という男、本当に信じているんですか?」

 と、最初から、疑いの目でしか見ていない迫田刑事はそういった。

「やはりまだまだ若いのかな?」

 と、まるで一つの発想に凝り固まっているかのような迫田刑事の感覚に、桜井刑事は、何とも言えない気分になっているのだった。

 そんなことをしていると、前にこの部屋に住んでいたという女性、

「平野聡子」

 の線から浮かんできたのだった。

 彼女は、脇坂の想像通り、夜の店で働いていた。

 いわゆる、

「キャバクラ嬢」

 というもので、元々は結婚していて、普通に生活をしていたのだが、何やら奥さんが借金を作ってしまったということで、離婚となったようだ。

 しかも、その借金は、半端な額ではないようで、キャバクラで働き始めたのも、そのためだったという。

 ただ、しかも、借金を作るのは初めてではなく、前にはもっと高額の借金だったようだ。その時は、ソープ嬢をして、短期間で返したというのに、懲りることがないというか、いつの間にかまた借金が増えていたという、

 旦那が愛想を尽かすのも、当たり前というものだろう。

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