心霊スーツ
彼女が家に帰ると、知らない男がいた。スーツを着て、お笑い芸人みたいな大きい白縁のメガネをかけているうさんくさい男だった。しかも最近オープンしたばかりのドーナツ屋の袋を持っていて、その手には評判のチョコレートドーナツがあった。
「誰ですか、警察を呼びますよ」
「ああ、ちょっと待ってください。
芸名ではなく本名を呼ばれて、明日香はますます警戒する。それに、オートロックのマンションで更に部屋の鍵をかけていても室内にいた男が恐ろしかった。
「単刀直入に言います。今から5分後に、あなたを殺す霊がやってきます」
「はぁ!?」
男はドーナツを袋に戻す。
「野木明日香さん、いえ
「出てってください、出て行けば警察は呼びませんから」
明日香は努めて冷静になろうとして、低い声で警告する。幸い男は明日香がよく見かける話の通じない過激なファンではなさそうだった。ここに桜木あずさが住んでいることが近隣にバレると面倒くさいので、明日香は出来れば話し合いで何とかしたかった。
「わかったよ、この件が済んだらすぐに出て行くから……それより、君は相当恨まれてるみたいだね。この部屋自体の乱れも感じるけど、君から出てくる乱れが激しすぎて埋もれそうだ」
男は鞄からタブレットを取り出す。
「そろそろ来るよ、握手会で何度も握手をしたのに告白されなくて自殺した君のファンの霊だ。もう扉の前にやってきてる」
その言葉に反応するように、玄関の扉が激しく叩かれる音がした。
「ちょっと、え、これドッキリとかですか?」
「待って。思ったより乱れが大きい……参ったな」
男はタブレットで何かの操作を始める。玄関の扉の音はますます激しくなる。
「ねえ、カメラあるんでしょう!? ねえ早くネタばらしして!!」
「黙って、君の声に霊が反応している。静かにするんだ」
男の真剣な声に明日香は口を押さえた。玄関の方を見ると、扉を叩く音は少し弱くなった。男はスーツの懐からスマホを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。
「あ、会田くん? あのさ、今僕が来てる現場一帯が2転はしてると思うんだ……そう、確実に2転はしてる。人間1体の霊量じゃない、どこかからいっぱい連れてきてさ、応援は頼めないよね? ……じゃあ僕ひとりでここの霊は何とかするから、すぐに時相班に連絡して。詳細は帰ってきてから報告するから、じゃ」
男は通話を終えると、スマホをしまった。
「だから現場は嫌なんだよ……あ、こっちの話ね」
男は明日香に向き直った。
「つまり、君を殺しに来た霊なんだけどものすごく凶悪なことになってるんだ。このままだと君を殺しただけじゃ飽き足らずにいろんなところに悪さをする」
その言葉に、明日香は急に玄関の音が怖くなってきた。
「あ、あの。その私を殺しに来たっていう霊は、その」
「君もたまに聞くだろう、芸能人の突然死とか自殺とかさ。あれ、大体こういう霊の仕業。今回やってきたのは君のところってだけ。今回は運よく悪さをする前に僕たちが見つけられたからよかったけど……そうでないと今頃君はバスタブに浮いてることになっていた」
玄関から音は変わらず響いてくる。
「今から君は風呂場に隠れるんだ。出来ればバスタブの中に入って、蓋をして完全に身を隠せ。万が一、僕の声で呼ばれても決して出て行くな。だから、今から合図を決める。このタブレットに君が思う言葉を書いてくれ。その言葉が聞こえたら出てくるんだ、わかったかい?」
急に死が現実味を帯びてきたことに明日香は泣きそうになった。男の言うとおり、明日香は合言葉をタブレットにサインした。それをチラリと見て、男はタブレットをしまった。
「よし、風呂に急げ。後は僕が何とかするから」
明日香は急いで風呂場に飛び込むと、男の言うとおり空のバスタブに入って蓋を閉めた。部屋で何が起こっているのかを確かめたかったが、部屋に霊が入ってきていると思うとおぞましく、真っ暗な中で明日香は合図を待っていた。
『チョコレートドーナツ』
不意に耳元で合図の言葉が聞こえた。明日香は蓋をどけて立ち上がり、急いで部屋に戻った。そこには既に男の姿は無く、多少の部屋の乱れがあるだけだった。
***
翌日、何事もなく家を出た明日香は、昨夜の一件は夢ではなかったのかと不思議な気分だった。
「おはようあずさちゃん、差し入れだって」
楽屋に入ると、そこには例のドーナツ屋の袋があり、中にはチョコレートドーナツが入っていた。
「夢じゃないのかもな……」
「どうしたのあずさちゃん?」
「ううん、こっちの話」
明日香はドーナツをひとつ取り出すと、ひとくち囓った。それはとてもおいしいドーナツだった。
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