酔客
黒月
第1話
学生時代、お酒が少々強かったこともあって一人呑みにハマっていた時期があった。チェーン店ではなく、下町の個人経営のような小さな居酒屋のカウンターで周りの会話をBGMに呑むのが好きだった。
その日も御徒町にある小さな飲み屋のカウンターで名物の煮込みをつまみながらビールを呑んでいた。
「学生さん?」
隣に座った、既に出来上がってしまった初老の作業着姿の男性が声を掛けてきた。私が頷くとさらに大学名を尋ねてくる。大したことない、三流私大の名前を答えた。
すると男性は赤い顔をさらに赤くして上機嫌に笑う。
「すごいねぇ。まぁ俺なんか中卒だけどね。俺の兄貴は出来が良くて、なんとまぁ早稲田なんだわ。」
「え、凄いですね」
私はこうやって話しかけてくる酔客にはとりあえず話に乗ることにしている。たまに面白い話が聞けることもあるからだ。
男性の話によると、その早稲田大の兄貴は4歳年上で既に故人だそうだ。
兄は地元では秀才として知られ、両親を始め周囲の期待を一心に受けて育ち、真面目な性格でそれに応える為に努力を惜しまない人間だった。だが、弟である男性は兄を尊敬しつつも、どこか屈折した感情があり勉強には身が入らなくなってしまった。兄が有名進学校から早稲田大学に入学する頃には、両親からも見放され、反抗期もあって家族内で孤立した存在になってしまったそうだ。
早稲田に入学した兄は通学に便利なように実家を出て下宿を始めた。実家には自分と、折り合いの良くない両親が残され家庭の空気は最悪だった。父親は自分を見れば「兄に比べてお前はダメだ」と言うばかり。母親は頻繁に兄に電話を掛け、兄の様子を父親に伝えては嬉しそうにしている。その場にいなくても家族の中心は兄だ、ということが面白くなく、両親とは顔も合わせず自室にこもる日々。その自室すら元々は兄の部屋だった。
兄が地元の大学に進むと言ったら、自分には自室すらなかったのだ、とますます荒んだ気持ちになった。
ガチャ…
急に自室のドアを開ける音がする。母親だろうか。
「ノックくらいしろよ!」
と、ドアの向こうを怒鳴り付けるが返事はない。扉を開けてみるが外には母親も父親もおらず、廊下は静まり返っていた。
首をかしげ、部屋に戻る。そしてベッドに横たわり、漫画の続きに目を通した。
ガチャ…ガチャ…
ガチャ…ガチャ…
「もう、何なんだよ!」
再びドアを開ける音がする。ベッドから飛び起き、部屋の外に出るがそこは変わらず、静かな廊下があるだけだった。
男性は次にドアを開ける音がしても絶対に無視をしようと心に決めて、その夜は布団を被って寝た。
それから、二週間程後のことだった。両親の元に警察から連絡が入ったのは。
兄は、下宿先で首を吊っていたのだという。遺書には「周囲の期待にそえられず申し訳ない。」と綴られており、恐らく留年が決まった事を苦に命を絶ったのだろうとの警察の見立てだった。
「…」
あまりの重い話に私は黙り込むしかなかった。
「いやぁ、頭が良すぎるってのも大変だよね。あんたも勉強はほどほどに、だな。まぁこんなとこで呑んでるようなら心配いらんか。」
ガッハッハと笑い、目の前のジョッキを空け、「店員さん、おかわりー。こっちの学生の分も。」と告げる。
「兄貴はあの日、自分の家に帰ってきたのかもな。頭の出来は違っても仲は悪くはなかったんだよ…」
男性の目元には涙が滲んでいた。
酔客 黒月 @inuinu1113
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