三枚目:玉の岩

 時計の短針がちょうど十一を指している。今晩が勝負のときだった。

 私は黒いジャンバーを羽織り、首にカメラを掛けると再び夜の尾道へ繰り出した。

時間が遅い分、昨晩よりさらに闇が深くなっていた。

 古本屋の前を通り、線路を渡って千光寺山に入る。

 それなりに幅のある道を歩いていたはずなのに、進んでいく内にどんどん細くなっていく。

 右手には神社、左手には不気味なネコの石像が鎮座していた。

 道が西側に逸れていき、段々と急になってくる。私は足元に注意して、一歩一歩確かめるように坂を上っていく。

 息が上がってきた。

 千光寺の下にあるゲストハウスを通り抜けて、さらに暗い階段を上る。

 当たり前だが、人っ子一人見当たらない。私は前傾姿勢になりながら、何とか千光寺までの階段を登り切った。

 周囲に街灯はない。

 光源は南の空に浮かぶ満月だけ。私は目を凝らしてお目当ての玉の岩を探した。

 千光寺の玉の岩には伝説がある。

 元々玉の岩の中には光り輝く石があったらしい。そしてそれが毎夜煌々と輝き、今で言うところの灯台の働きをしていたそうだ。

 ところがあるとき外国人がやって来て、その光る岩を売ってほしいとお願いしてきた。地元の人はあんな大きな岩を持っていくことはできまいと思って了承したところ、中の光る石だけを刳り貫いて持っていかれてしまったらしい。

 私はこの伝説を知ったときから、どうしても撮りたい写真があった。

 それは光を失い単なる飾りとなった玉の岩と、それを本物の光で照らす満月を写した写真だった。

 撮りたい理由は色々あったが、やっぱり一番は有紗だった。

 

 私の撮る写真の半分が彼女だった。

 私は不器用だから愛の示し方を知らない。だから私にとって「写真を撮る」という行為は愛情表現の一つだった。

 台所に立って包丁を持つ彼女。二人分の洗濯物を干す彼女。軒先の植物に水をやる彼女。大学への坂道を歩く彼女。ベンチに座ってサンドイッチを食べる彼女。静かに布団で眠る彼女。

 私は自分の欲望に従って、たくさんの彼女を写真の中に収めた。どの写真も何物にも代えがたい程、美しかった。

 どんどんアルバムに彼女が積み重なっていく。私は永遠普遍の美しさを持つ写真にうっとりとしていた。

 彼女の写真を撮り、その写真を大切に保管することは、彼女に対する愛の表れだと信じていた。だけど、それは私の思い違いだったのかもしれない。

「凛は写真の中の私が好きだからね」

 夕飯を食べ終えて、ソファーに座ってテレビを見ているときだった。私はぎょっとして隣に座る彼女を見た。

 有紗は何事もなかったかのようにテレビを見て微笑んでいる。私は心臓を直接手で掴まれたような心地だった。

「いや……」

 私は「本物の有紗が好きだ」と言いたかった。だけど言えなかった。

 本物の彼女と、カメラを通して芸術作品へと昇華された彼女。

 どちらを「愛すべき」かは明白だった。だが、どちらを「愛している」かは曖昧だった。

 私にとって本物の彼女と写真の中の彼女は切り離して考えることができない存在で、どちらも「赤部有紗」そのものだった。

 それから私は彼女の写真を撮れなくなった。

 彼女を撮ろうとすると、避けがたい罪悪感に襲われるのだ。

 私は何とかしてこの罪悪感から逃れたいと思っていた。しかし、私の中には確かに拭いきることのできない写真という虚像への愛があった。

 今、尾道の玉の岩は電飾を使ってピカピカと光っている。私は、この紛い物の光と対峙すれば、自分の歪んだ愛情を矯正することができるのではないかと思った。それが私が今ここにいる理由だった。


 岩の前でしゃがんでカメラを構える。満月と玉の岩が同時に撮影できるのは、この場所だけだった。

 満月の光で情けなく霞む玉の岩。狙い通りの完璧な構図だった。

 私はしぼりを何度も調整してカメラを構える。

 じっと動かずタイミングを探る。

 ひゅっと冷たい風が山の上から降りてくる。私はそれを機に、席を切ったように写真を撮り始めた。

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