二枚目:スーパー

 私は日が暮れてからホテルを出た。千光寺山をぐるっと迂回して、反対側のスーパーに行くつもりだった。

 この辺りに食材が売っているスーパーはそこしかないらしい。ホテルの受付の人には近場の外食を勧められたが、今はそういう気分ではなかった。

 夜の尾道を歩いて一つ気付いたことがある。それは尾道には夢があるということだ。

 千光寺山にある住居の多くが空き家になっている。この空き家が、尾道を訪れた者たちに夢を見せる。それは、もしこんな景色の良い場所に自分の家があれば、どんなにか素晴らしいだろうという妄想だ。

事実、私もちょっとは想像したし、実際に尾道に移住してくる人もいる。

 しかし残念なことに、現実は夢ほど美しくない。それは実際に歩いてみれば、すぐに分かることだ。

 尾道の坂は急勾配で、かつ細い。中には人一人がギリギリ通れるぐらいの幅しかない道もある。

 だから当然、救急車も消防車も通れない。尾道の家の軒先には消火器が常備されているし、もし急病人が出れば救急隊の人が患者を担いで運んでいく。尾道で暮らすという夢は、こういう現実と表裏一体の関係にあるのだ。

 そういうわけで、尾道の空き家問題が完全に解消されることはない。でもだからこそ、この土地は人々に「ここに別荘があれば……」という夢を見せる魔性の力を持ち続けるのだろう。

 電灯を頼りに白線の上を歩いていると、急にスーパーが現れた。田舎のスーパーらしく、駐車場がやたらに大きかった。

 有紗はスーパーで買い物をするのが好きだった。

 私はいつも、ついて行って帰りの荷物持ちをするだけだった。商品を選ぶのは彼女の仕事で、それ以外が私の担当だった。

 ある時、いつものように彼女とスーパーに行くと、彼女がなぜかわさびチューブをカゴに入れた。彼女は辛い物が大の苦手だった。

「わさびいるの?」

 私がそれとなく彼女に尋ねると彼女はいつもより少しぎこちない笑顔を浮かべて、

「今日は刺身がいいかなって」

 と答え。

 私は何かあるなとは思ったが、それ以上深入りはせずにタバコを吸いに行くことにした。

「ふーん。ちょっとタバコでも吸ってくるわ」

 私は一応彼女に配慮して、普段から買い物などの外出するタイミングで吸うことにしていた。

 真相が明らかになったのは翌日のことだった。私は大学の講義を終えて、有紗の部屋に帰る前にタバコを吸おうと思って、近所の喫煙所に寄ることにした。

 鞄からタバコを取り出す。この時点でおかしかったのだが、なぜか今朝買ったばかりのタバコの封が開いていた。しかも、中を確かめるとタバコは一本も減っていなかった。

 変だなと思いつつも一本を取り出して、口に咥える。ライターで火を付けようとした瞬間、唇に刺すような痛みが走った。

「ぺっ!」

 私はビックリしてタバコを吐き捨てた。

 わさびだった。私は彼女の思惑を理解して、思わず一人で腹を抱えて笑ってしまった。

 家に帰って有紗に問いただすと、

「……だって、自分の意志では止められないって言ってたから」

 と困った顔で言っていた。

 有紗は禁煙を赤ちゃんの断乳か何かだと思っているみたいだった。

 この頃からだった。彼女が私により献身的になり、私も彼女を気遣うようになったのは。

 もう最早単なる友達ではなかった。しかしあの頃はまだ夢の中にいたし、自分が夢を見ているなんて思ってもいなかった。

 私は暗い街の中で煌々と光るスーパーに向けてカメラを構えた。シャッターを切ろうとしたが、人差し指がピクピクと痙攣し上手くボタンを押せなかった。最近よくこういうことがある。

身体の調子が悪いわけではない。おそらく精神的なものだと思う。私は右手の人差し指にグッと力を込めて、無理矢理シャッターを切った。

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