世紀末でも屑はクズ

パクス・ハシビローナ

追憶


 いじめられる側に原因がある。


 ニュースでいじめが取り上げられた時によく使われる論調だ。


 これに対する反応は大抵のところ、いじめられる側に多少のことがあったとしてもそれがいじめる正当性にはなりえないという一点につきてしまう。


つまるところ、世間というのはいじめられる側を被害者と考え、彼らを「何も」悪いことをしていない聖人のようなものに捉えることも不思議ではない。


 しかし、時に、振り上げた拳が至極正当な理由で振り下ろされることだってある。

 

 それはまさしく俺みたいな人間のために――。


 学生時代、いい思い出はない。


 人格否定の暴言。無視され、殴られ蹴られ、おそらく思いつく限りのことはされたと思う。

 失神するまで殴られることも少なくなかったし、机で突っ伏して寝たふりをしているよりも床に突っ伏していることの方がが多かったかもしれない。


 クラス全員からやられていたというわけではなかった。それならまだ救いがあったかもしれない。


 傍観者であった他のクラスの人たちは、いじられるこちらを見ても怒るわけでもなく憐れむわけでもなく訝しむわけでもなく、気に掛けることもない。


 ただの風景。


 当たり前のように、むしろ、ほくそ笑むように、あざけ笑うようにして見られていた。

 

 当然のことだ。不自然なことではない。


 そんな扱いを受ける理由はただ単純で、いじめの主犯格――否、俺の被害者がルックス抜群で文武両道のクラスの人気者だったからだ。

 友人多く、妹思いの良い兄貴で正義感も強い――。思い返してみても、正義の鉄槌を振るう資格のある人間だったと思う。

 

 それでは、俺はどうだっただろうか、お世辞にも「普通の顔」だとは言えない。暗がりに居ようが明るみ中にいようが不審者のような顔。勉強もスポーツも、何も出来ない。

 事なかれ主義で目立つことのなく、日陰の水たまりに浸かっているような人間だった。


 しかし、それだけでは正義の鉄槌は振るえない。

 唾棄すべき自分の真反対の人間だという程度の正当性で正義感の強い人間がいじめられるわけがない。


  

 俺は、彼の妹を殺した。



 昔も今も、彼女に対する憎悪はない。嫉妬というのもなかった。あの時あったのは羨望――天真爛漫で、誰にでも優しく華凛な少女。否、憧れではない、あれは恋慕だった。


 俺は馬鹿ではなかった。それが不相応な感情だと分かっていて胸の奥に押し込め、ずっと彼女を遠目で見るだけにしていた。きっと、彼女は日陰者が見てはいけない太陽なんだと。


 いや、俺の持ってたそれはそんな純粋な恋心ではない。

 そこを取り繕おうとしたって、事実は変わりようが無いのだから。


 俺は殺した。俺は死に追いやった。


 絞殺。溺殺。殴殺。毒殺。斬殺。圧殺。抉殺。彼女を殺害する動機も無い自分が行ったのは、そのどれでもない。

 でも、俺がやったのは、それよりも利己的で醜悪な殺し方だった――。


 彼女の目の前で、俺は彼女の縦笛を舐めたのだ。


 言葉にすればどれほど間の抜けたものだろうか。しかし、どれほど馬鹿げたものでも人1人の人生を壊した罪の重さは変わらない。


 その当時から、自分が醜いというのをちゃんと理解していたと思う。自分が底辺の存在で、また底辺であることを求められていることも理解していた。


 それでも、俺は彼女を見ていた。 


 彼女の笑う姿。彼女はちょっとしたことでもよく笑っていた。そんな彼女をよく見えていた。

 とてもかわいらしくて、愛おしくて、笑うときに少しだけ声の調子があがって気恥ずかしそうに口元を少しだけ隠そうとするのを一体どれだけの人が知っていたのだろう。


 その仕草を見る度、いつも胸がいっぱいになって張り裂けそうになった。


 そして、いつも思う。自分がロミオになりきっているのかと。

 熱が高まるほどどこか冷えている自分がいて、風船を針で刺したかのようにパァンと気分は弾けて萎んでいった。

 底の底まで落ちて陰鬱とした気分になることが常だった。そして、いつもこの言葉を吐いた。


 彼女が僕に笑いかけてくれるだろうか。


 それでも諦めたはずの感情が未練がましい。

 ドロドロしたような何か理解しがたい不快感が胸の中で溶けて、その後にはいつも後悔で胸がいっぱいになった――それは感情ではなかった。何かの衝動だった。


 俺は彼女とは話したことがなかった。それが適切な距離感だったから。それでも、頭の中にはいつも彼女の笑顔が現れてしまう。


 彼女がこちらに笑いかけて、おしゃべりして、手をつないで、キスして――、

 視界に映る彼女の笑顔を頭の中で自分の都合よく改変して、言い表しのようのない欠落した何かを埋め合わせるかのように妄想をしていたのである。


 それでも、埋まらない。むしろ、その虚無感はもっと大きくなって、それにつれて自分の中の「衝動」も大きくなっていった。


 そして、ある時の放課後の教室で破裂してしまった。


 元々友人がいなかった俺はホームルームが終わった後は誰とも喋ることなくすぐに家へと帰っていた。

 だが、その時は急にお腹が痛くなってトイレに駆け込み、出た後に荷物を忘れたのに気づいて教室へと戻った。


 その時の教室は嘘のように静まり返っていた。おそらく、皆帰った後だった。


 喧噪のない室内は解放感に満ちて清々しく思えたのを覚えている。多分、ここで何をやっても問題ないと言う万能感があったと思う。

 

 しかし、その時は見たい番組があったはずで、さっさと家に帰ろうと荷物のある自分の席へと向かっていた。

 忘れ物をランドセルに入れようとた拍子に、机から筆箱を落としてしまい拾い上げようとした時に、彼女の席が視界に入ってしまった。


 彼女もいない教室の中で。誰もいない教室の中で。


 その時、自分の中の何かが外れた。気が付けば吸い込まれるように彼女の机に近づいて、おもむろに中を漁った。言い訳もできないほど躊躇もなくあっさりと。


 今思えば、偶然誰もいなかったのではなく、誰もいないときを狙っていたのかもしれない。

彼女を見るたびに膨れ上がって我慢できなくなった衝動が――バカみたいだ。


 そうして、俺は彼女の縦笛を舐めた。何の躊躇もなくカバーを剥ぎ取って、拭き口に自分の舌をつけて、しゃぶるように。


 何故こんな最悪の方法を取ってしまったのだろうか。俺に勇気があれば、後少し勇気があったならば、何か話題を見つけて彼女に話しかけたりして――後はなんだろうか、思いつかない。


 だが、きっと、これ以外のもっとマシな方法は取れていた筈だ。


 だが、その時の自分は彼女に話しかけてしまえば今の関係ともつかないものが細糸のようにいとも簡単に千切れてしまうかもしれないという不安があった。

 だから、もうこれっきりでこの衝動も終わりにしようと――でも、それは正当性も無いただただ利己的な理由だ。


 しかし、そんな悪い行いに天罰が下るもので――その時、ドアが開かれたのである。

 

 振り向けば彼女だった。いつも笑顔を振りまくはずの彼女は見たことがないほどに顔を歪ませていた。


 今考えると、その時が彼女と最初と最後に目を合わせた時だった。

 その目は酷く悲しげで、悲憤に濡れて――今でも脳裏に焼き付けられて消えることはない。

 

 声をあげることはなく、静かなものだったが身を崩して嗚咽を吐いて泣きじゃくる姿で、普段の彼女とは想像のつかない彼女の痛々しい姿だった。


 我に返ったというべきだろうか、胸中にあった「衝動」が一気に消えうせて、後悔と罪悪感にどうしようも出来なくなった俺はそんな彼女を放ったらかしにして、蜘蛛の子を散らすように教室から逃げた。

 

 その後は――先生に呼びつけられて叱られたり、彼女の親に叱られることはなかった。ただ、彼女が学校に来なくなった。


 彼女が座っているはずの席はぽっかりと空いて、しかし、机の中に入っていたものはずっとそのままにされて、縦笛も当然のようにそこにあった。



 最初は皆彼女が来なくなったことでざわついていたが、担任の先生が彼女が「事情」で学校をしばらく休むことになったという話をしたために、寄せ書きを書くなどの紆余曲折を経てしばらくすると彼女が話題にあがることはなくなった。


 まるで、彼女だけが教室から抜き取られたように――。


 否。消え失せたわけでもなかった。そして、何の解決でもなかった。


 そう暫くしない後に、放課後に見知らぬ一つ学年上ぐらいの男に呼び出された。


 力強く腕を握られて、引っ張られた場所は校舎裏。

 彼女の兄と名乗り、荒げる声を必死に押し殺すようにして俺に問いかけてきた。



 妹を不幸にさせたのはお前か。



 胸の中がざわついた。罪悪感とは異なる、まるで裁判官が木槌を叩く音を聞いているようなそんなゾッとするような感覚を覚えている。


 焦燥感と怒りと諦観と自分に対する嫌悪感で胸が酷く押しつぶされるようだった。そして、俺はなんと言ったのだろう。



 ああ、そうだ。俺がお前の妹を殺した。



 いや、そんなことを言っていない。何故だかその時言った言葉をあまり思い出せない。


 だが、その後に食らわされた拳は鉄のように酷く硬かったことを覚えている。


 頬骨のあたりに彼の拳が躊躇もなく飛んできた。

 殺意を持った拳はあまりにも痛く強いもので――ひょろい体は成すすべなく吹き飛ばされ倒れこんだ。倒された後はただ怒りをぶつけるように執拗に蹴られ続けた。


 始めて会った時に見た彼の憤怒に濡れた目を考えれば、こうなることはとうに分かっていた。


だけれども、目の前で俺を殴り続けるやつが彼女の兄で、俺を殴る最中に「お前のせいで、妹は……!」と酷く物悲し気に、恨み節のように嘆く姿を見て、どうしようもならなくなった。


 結局、俺は抵抗することなくミノムシのように丸まってひたすら殴られることを受け入れた。


 そこからいじめが始まった。


 否、6年の時に彼は中学生となり、一年跨いだので正確にいうならば中学生の頃だっただろうか。校舎裏で兄1人だけが俺を袋叩きにすることから、いつしか集団でリンチされることに変わった。


 ちょうど道端にある生ごみを蹴るかのように、執拗に体中を蹴られた。

 それで痛みに耐えられなくなって倒れこんでダンゴムシのように丸まった後は、せせら笑いながら起き上がっている時よりも激しく骨が折れるほど蹴られた。


 俺はその時こう思った。

 これは罰だ。犯した罪の罰だと。


 手から、足から、頭から、四肢全てから感じる圧迫感と痛みで頭がパンクしてしまうなか必ずこの言葉が頭の中をよぎった。自分に言い聞かせるかのように――。


 だが、取り繕うようにそれを吐き捨てるような言葉も出てきていた。


 「罰、罰だと?ハッ。俺は縦笛を舐めただけだ。そもそも、たかが笛の舐めただけで不登校になる方がおかしいんだ。

彼女のメンタルが現実離れしてるぐらい豆腐だっただけで、小さな問題だった。てか、俺に舐められて不登校になるとか――。クソ!彼女もその兄貴もそれを必要以上に大きくしているだけで、俺は割を食っているんだ」


 ――だから、俺は悪くない。怒りを覚える度に自分に言い聞かせるように心の中で止めどなく吐かれていった。


 「いいや、お前が悪い。彼女の縦笛を舐めたのはお前の自己中心的な考えと、お前の衝動――おぞましく気持ちの悪い、残飯を貪欲に貪る豚よりも程度の悪い、肉欲だ。お前は好きだった彼女の人生を壊した。今こうしていじめられているのは当然のことで、ずっとそうあるべきだ。」


 それから、胸の中で渦巻いている罪悪感がすぐにそれを全否定して洗い流していく。


 しかし、それでもなお、いつしか自分が暴力を受けなくていい「正当性」を模索して心の中で唱えていた。

 そんな矛盾しきった感情の流れに疲れた自分はいつしかそのようなこともしなくなった。


 それでも、殴られる最中はその感情は薄くなって、どこか安堵感さえあった。

 押入れの中でうずくまっているような、閉塞感のある空間の中でただ一人座らされているようなそんな感情を覚えていた。


 その時の自分は、これで罪が償われている過程にあると思ったのだろうか。


 しかし、それも何の「解決」にもならなかった。それは流砂のように中身が崩れていって、最後は深みへと嵌る。


 夏休みのことだ。取り巻きたちも学校のことは忘れて学生らしい青春をおくる貴重な時間を俺を虐めることに費やすことはなかった。当然、彼女の兄もそうだった。


 だが、この時は違った。


 俺を虐めるときとと同じく、いつも通りの文面で呼び出された。ただ休みだから学校も行くのが億劫だったのか場所は誰も来ないような辺鄙な公園だった。

 そこへ行くと、当然のように彼がいたが、取り巻きがおらず一人だけぽつんと公園の真ん中に立っていたのがとても奇妙だった。

 

 彼は俺が来たことに気づくと、乾いた笑みを浮かべて俺のほうへゆっくりと歩いてきた。

 

 その目は無機質で瞼がピクピクと規則的に動いて、近づいてくるたびに口元も強張っていった。

 握りこぶしを作った右手は激しく痙攣したかのように震えていた。いつもとはまるで様子が違っていたのである。


 段々と歩調をあげて、張り裂けるほどの大声をあげ短距離走のオリンピック走者のような全速力で右手に銀色を光らせながら駆け寄ってきた。


 銀色は包丁だと気づくのに時間はそうかからなかった。反射的に逃げようと身構えたが彼の必死な形相に足がすくんだ。


 怒っているのか、哀しんでいるのか、もはや分からない。もう人生を吐き捨てているような表情だった。


 それを見た時に俺はすべてを諦めた。


 俺は好きな子を不幸にして、好きな子の兄まで不幸にさせた。


 だから、あいつには――飛びかかろうとしてくるあいつには俺を殺す権利があるんだ。それを拒む権利がどこにあるというんだ。


 彼のナイフが胸の真直線へと伸びる。俺は目をつぶり最期の時を待った――。


 このまま生きていても、良いことがあるわけもない。これがいい終わり時なのだと、その時俺は思っていた。


 だが、再び目を開けた時、俺は彼の首を締めあげていた。


 ナイフを俺の眼前に突きつけようと振り回して藻掻く彼。


 もしここで離せば殺される。この時には自分の罪の意識なんかはどこかに消え失せて、ただ自分は死にたくないと彼の首にかける手の力を込めた。


 彼は未だに殺気立った顔で押しつぶされる気管から死ねと何度もこちらに恨み節を吐き出していた。

 

 しかし、込められた力が強くなっていくうちに、藻掻く力も無くなって、足から、そして手が電池が切れた玩具のように動かなくなった。

 彼の強張った表情も消えて、悲哀の表情を浮かべて何かを呟いて彼の目から出た涙が重力で地面へと落ちていくと共に体の全身の力が抜けて一つも動かなくなった。


 まるで時間が止まったようだった。


 だが、彼の表情を見ると、俺は胃の内容物を全て地面にぶちまけた。

 

 追い打ちをかけるように今まで経験したことのない焦燥感を覚えて、上手く息が出来ないほど自分はパニックになっていた。


 その時、誰かの声がした。


 風の音がそう聞こえたのかもしれなかったが、反射的にその場から逃げ出した。


 公園から出た後はその音が大きくなった。そこらかしこから老若男女の悲鳴が聞こえ、警官の呼び止める声が聞こえた。


 それでも走り続けた。小学生の時に読んだメロスのように、いや、友のためではなく、自分の罪から逃れようという浅ましい考えで。


 足が重くなっていくの感じたが、足が止まることはなかった。


 まるで別世界で起きたことのように自分を俯瞰していた、ただ道があるからそこを行くといった感じで――、


 ただ、罪悪感とか焦燥感とかが薄れていくような麻痺していくような感覚を覚え、その感覚を追い求めるかのように必死に走った。


 そして、空がオレンジ色になっていることに気づいた瞬間、暗転する景色。地面の感覚が消えた。

 固い地面ではなくクッションのような柔らかい地面に顔面を押し付けられ、土と草の匂いで鼻が潰される。


 見上げると、目の前に小さな祠があった。

 見たこともない苔むしたそれに唖然として、周りを見回すと鬱蒼とした森が広がっていた。


 どうやらどこかの山奥まで来たらしかった。


 狐に憑きでもされたのだろうか、目の前に広がる光景が信じられずに、ただ自分の体のあちこちを触った。


 手元に何か固いものが当たった。彼が持っていたはずの包丁だった。


 訳も分からず一緒に持ってきたのだろうか、良くも分からずそれを拾い上げた。


 その時、自分の顔が包丁に映りこんだ。 


 ――いつの間にか首を絞めていた。それが、今更ながらに嘘だったことに気づいた。


 目は開けていた。諦めていてもなお、刺された時の痛みと自分が消えていってしまうことに恐怖を覚え自発的に彼を床に転がし首を絞めていた。


 包丁に映りこんでいたのはその時の顔まま固められていた。

 

 嗤い。まるで自分が正義だと言わんばかりに――余悦に浸っている表情。まるで傍観していたクラスメイトのようなせせら笑い。


 それに気づいて、俺は自分の胸に包丁を刺した。奥の奥へとえぐりこむように刺さっていった。


 激痛。それでいて。温かく、濃い鉄の臭い――


 いつの間にか閉じていた目を開くと、包丁が胸に深々と刺さっていた。


 目の前が真っ暗になっていった。ただ、頭だけははっきりとして、自分の罪が目まぐるしく再生されていった。

 

 ああ、そうだった。俺は縦笛を舐めた時も、彼女の酷く悲しむ姿を見た時も、彼女が親しんでいた兄の首を絞めて殺した時も、自分は悪くないと、自分も被害者だと心の奥底で思っていた。


 虐めに抵抗せず、わざわざ彼女の兄に会いに行ったのもただ自分が被害者であれるという下らない藁のような安心感を得たいがためのものだった。


 自分から止めどなく流れる血をせせら笑う中、走馬灯も無く意識がぼやけていく。痛みはなく、どうしてか望んでいた安堵に身を包まれたような気分だった。


 

 ああ、俺はこれでようやく終わったのだ。


 

 






 

 

 

 

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