第5話 大粛清は絶好機

 赤色ソ連の歴史において史上最悪の出来事は『大粛清』に収束した。


 ソ連のレーニン死後にスターリンは実権を握り込む。レーニン派を超えた不穏分子の排除に躍起になった。トロツキー派も検挙して裁判にかけているが、大粛清の波は一般市民まで及び、学者や文化人まで犠牲になる。


 まさに恐怖の統治だった。


 一般市民は相互監視と告げ口の社会に閉じ込められる。


 これを絶好機と捉えたのが白色ロシアと大日本帝国、中華民国の防共同盟だ。


 大粛清から逃れる者達を広く受け入れる。


「ミハイル・トゥハチェフスキー元帥を引っ張ってこれた。こりゃ大収穫どころじゃない。山下の大将と組んだら敵なしだぞ」


「あまり大きな声を出すな。山下の大将はトゥハチェフスキー元帥と亡命受け入れからソ連侵攻まで考えている」


「悪い、悪い」


 警備の兵士は普段の数倍の数と重装備で不審者の侵入に備えた。もし不審な人物が来た場合は入念なチェックを行う。強行突破の素振りを見せた瞬間に射殺することが許可された。日本陸軍の威信を賭して守らねばならぬVIPのお客様がいらっしゃる。


「なるほど。これが元帥の戦い方ですか」


「縦深攻撃理論になります。この攻撃は空の攻撃、地上の攻撃の一体感が重要です。空から航空機が奥深くまで切り込み、正面から後方までまんべんなく叩き、敵軍後方に空挺部隊が降下して退路を遮断する。地上は全方面に圧倒的な火力を集中しますが…」


「私は機甲部隊の拡充を訴えています。元帥の口添えのおかげで、ロケット砲兵と重砲の機動化など、陸軍の増強は急速に進みました。ソ連から勇退された元帥の助言ほど貴重なことはありません」


「いやいや、貴国の陸軍も侮れなかった。機甲部隊の拡充はソ連に匹敵した。それも指揮官の質は非常に高い。赤軍将校は能力を問わずに政治が重視された。優秀な者は次々とロシアと日本に亡命している。ソ連を攻めるなら今が好機かもしれませんぞ」


「ご冗談を仰ります。我が国は自ら攻めるなど」


「それが正解でしょう。中華の大地に日本の海から釣る瓶打ちにできる」


 お客様というのは至宝と謳われるミハイル・トゥハチェフスキー元帥だ。


 彼はロシア内戦で頭角を現すと直ぐにポーランド紛争に移る。ポーランド紛争も見事な指揮で勝利を積み重ねた。このポーランド紛争においてスターリンと確執を生じたと噂されるが真偽は不明である。赤色ソ連と白色ロシアに分裂した後は各地の反乱を鎮めて国家的な英雄と謳われた。スターリンも国家の英雄に手錠をかけることはできない。


 ソ連軍初の元帥に駆け上がった。


 しかし、スターリンはトゥハチェフスキー元帥を厄介者と断じた。過去の確執が一定程度は関わっているだろうが、基本的には自身に歯向かってくると考え、彼をスパイ嫌疑にかけて抹殺を試みる。


「私は常に祖国を想っていますが、スターリンを想うことはあり得ない。家族のために亡命を決めました。これからは白色ロシアによる再統一に身を捧げます。もちろん、日本陸軍の増強にも身を捧げさせていただく」


「よくぞ、亡命を決められました。ご家族の安全は陸軍が保障します」


「妻も娘も恐怖に支配されてきた。できれば…」


「よくわかっています。精鋭兵士の護衛を付けた上で観光を楽しんでいただければ」


「ありがたい」


 大粛清の目玉とスパイ容疑で逮捕する前にミハイル・トゥハチェフスキーは家族と気心の知れた同志を連れて列車に乗り込んだ。列車は途中駅で秘密警察のメスが入るもいつの間にか消え去る。


 彼は列車から抜け出して輸送機に移乗すると白色ロシアに駆け込んだ。赤色ソ連も白色ロシアに逃げ込まれては手を出せない。さらに、海を超えて大日本帝国の大地を踏みしめた。彼は家族と一緒に日本陸軍に匿われている。


 トゥハチェフスキー元帥は日本陸軍の指導役を買って出た。日本陸軍は機甲部隊の拡充と砲兵隊の大刷新など北進論に際して「やるべきこと」が山積する。兵器を新しくしてもだ。戦術と戦略が定まらねば有効に扱えない。彼を指導役に招いて戦術と戦略、兵器の開発まで多方面に助言を頂戴した。


 彼が亡命を決意した理由はスターリンを心底嫌うことに家族が加わる。妻と幼い娘の存在は極めて大きい。自分と妻が逮捕されても娘だけは逃がしてやりたい。いかに精強な元帥も人間の親なのだ。白色ロシア経由の日本への亡命は願ってもない。妻と娘は陸軍の護衛付きで生活した。一定の制約こそあれどソ連時代に比べれば遥かに自由を享受できる。


「貴軍の砲兵は何をお使いになられている」


「野戦を前提に置きますが、重砲兵は15cmと10cmの榴弾砲、砲兵は10cmと75mmの榴弾砲を運用します。攻城戦の要塞重砲兵は24cmや20cmの重砲を用います。そして、我々は砲兵の機動化を推し進めました。旧式化した榴弾砲を中心に自走砲と砲戦車へ改造している」


「砲兵の機動化は必ず推進すべき。旧来の牽引式に比べて資材も金も時間もかかる。しかし、ソ連軍の砲兵に対抗するには機動力しか残されなかった。航空戦や海上戦もあると思いますが、結局のところ、決着をつけるのは地上戦なのですから」


「肝に銘じてます」


 日本陸軍は野戦重砲兵に15cm榴弾砲と10cm榴弾砲を与え、野戦砲兵は10cm榴弾砲と75mm榴弾砲を与えて編成を組んだ。これと同時並行で旧式化した榴弾砲を中心に機動化を推進する。旧式化した火砲を倉庫で眠らせない有効活用であるが、野砲を本格的に機動化する実験が込められ、優秀な成績を収めると直ちに主力級も機動化に移るはずだ。


「しかし、我が国は貧乏なものです。旧式化した野砲を引っ張り出した上に海軍から大砲の融通を受けた」


「そこでロケット砲の出番となろう。私はロケット砲が野砲と並ぶと信じている」


「ロケット砲の研究も亡命した技術者と化学者のおかげで急速に進みました。地上兵器どころか航空機と艦船も亡命の受け入れから飛躍的に発展している」


「誰も捕縛されて牢獄の中で研究したくない。余程の馬鹿げた愛国心がを持たぬ限りは極東の大帝国に厚遇を以て迎え入れてもらう」


 日本の貧乏が足を引っ張る。北進論に必要な数は埋まらなかった。海軍から戦艦の副砲や軽巡と駆逐艦の主砲の融通を受けても埋まらない。新たにロケット砲などロケット兵器の開発を始めた。元帥の口添えが利いてロケット砲兵の構想が浮上する。


 ロケット兵器はソ連から亡命してきた技術者と化学者が参加した。スターリンの大粛清は優秀な技術者と化学者も呑みこんでいる。牢獄の中で研究を続行できるが、誰もが劣悪な環境の牢獄に閉じ込めらることは御免であり、厚遇が待っている日本に亡命を選択して当然だった。


 亡命者は地上兵器に限らず航空機から艦船まで全体に展開する。艦船に関しては日本が世界最高峰を誇るが、狭い視野の中で建造しては頭打ちが否めず、亡命者からブレイクスルーを得た。航空機は発展途上で欧米に追い付き追い越せに邁進する。高性能な木製機や液冷エンジン、大馬力空冷エンジンなど、亡命者がもたらす事物は貴重である。


「話は変わりますが、元帥は白色ロシアの軍を率いられることに?」


「いいえ。日本陸軍の指揮を取らせていただきたい。私がソ連の英雄と知る白色ロシアの兵士は多かった。敵国の英雄が亡命したと雖も心象は悪い。真っ当に指揮できるかどうか」


「確かに」


 ミハイル・トゥハチェフスキー元帥は白色ロシア軍を率いることが通常だ。ロシア語が通ずる白色ロシアの兵士を率いるところ、トゥハチェフスキー元帥はソ連の英雄であることが白色ロシアの兵士の心象を悪くする。むしろ同胞であるが故に軋轢を生じさせた。


「もし元帥がよろしければ」


「お受けしましょう」


「まだ何も」


「私と通訳を除いて一対一の対談を要望したのでしょう。山下中将の参謀になりますよ」


「まさか。参謀なんて椅子を用意することは恥です。元帥の名で全軍を指揮して」


「いけません。日本軍は日本人が率いるべきである。私は参謀に収まります」


 英雄はなんとも大きな器の持ち主だった。


 この場に日本陸軍名参謀のミハイル・トゥハチェフスキーが誕生する。


 ソ連の英雄はソ連を打倒するのだ。


続く

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