幼馴染

第1話

さやが佐吉と夫婦になるという。伊平は喉の奥からこみ上げてきた物を吐いた。

伊平とさや、佐吉は鼻水を垂らしていた頃からの遊び仲間であった。

佐吉は呉服屋「三浦屋」の次男坊だ。 さやは両替屋「大和屋」の一人娘だったが

父親が後添えをもらったのだが,その女には さやと同じ位の娘がいるとの噂であった。

両替屋は江戸には六百余件もあり  兌銭{手数料}だけではやっていけなかった

小判を一分等に小さくする時は切り賃として手数料を頂く。

何かと小銭の方が都合が良かったので利用者は多かった

金の或る者は両替屋に預けるが利息は付かない。屋敷に置いているより元金保証してくれる両替屋に預ける方が安心なのだが

若しも両替屋が夜逃げをしたり焼失したりすれば預けた者は泣き寝入りとなる

両替屋も貸し付金が返って来ないと兌銭だけではやっていけない

やくざを雇い取り立てをするお店も少なくなかった。

さやの店とて例外ではなかった、小間物等を置き客が序で買いをしてくれるので

どうにかやってきた。

佐吉の父親は面妖な男である。何を考えているのか 温和な眼差しは表の顔である。

裏の顔は頑固で口煩く使用人が続かないほどであった。 辛抱して仕えても暖簾分けも

期待出来ないと見限って奉公先を変える者もいた。借りたお金が返せなくて辛抱している者もいる。

大婆様が陰ながら使用人を思いやっているが、大婆様もかなりのご高齢である。

伊平の母も大工の父が大怪我をした時に用立てて貰ったお金が返せなくて三年程女中奉公

を強られた。僅かな借金で三年も引っ張られているのだ。

伊平の母おみよは華奢で切れ長の目が五平好みではあった。

だが、五平は妻を愛していた。

幼き頃から大きくなったらおかよを嫁さんにすると勝手に決めていた。

その思いが叶い おかよは五平の傍にいる

我儘な五平とて、何が大事かはよく分かっている。

代々続いたお店を愚かな行動に依って失う訳にはいかない。

抜かりなく生きてきた、これからも変わりはない。          

使用人に手を出したとなると世間体も悪い、おかよの自尊心も傷つける。

江戸では不義密通は重い罪だ、磔獄門となった者もいた。

気に入ったおなごが現れたとしても、お店を潰す訳にはいかない

五平は代々続く呉服屋の跡取りとして甘やかされて育った驕児であった。

おかよは 庄屋の末の娘で大事に育てられ器量良しと評判だった。 縁談もあちこちから

持ち込まれていたが、両親が全て断っていた。無論本人も全くその気はなかった。

おかよと五平が出会ったのは団子屋であった。五平は おかよに一目惚れした

五平は おかよ以外の嫁はもらわないと大婆様の見合い話も断わる始末であった。

我儘がとおり、おかよを嫁にしてからは女郎通いはピタッと止まったが性格というものは早々に変わるものではない。

おかよの母は何度も何度も様子を見に三浦屋に顔を出していた。

「辛いことがあれば何時でも帰っておいで」 

母は来るたびにそう言った。

幾ら放蕩をしても、五平はおかよを手放す気はない

おかよは 使用人等の信頼も厚く、何よりも商才に長けていた。おかよに任せていると何より安心なのだ

どこまでも身勝手な男なのだが おかよの家族への心配りは怠らなかった。

盆、暮れの届け物は,豪勢なものであった。

おかよが里帰りするとなると 使用人を何人も付けた。 手土産も持ちきれない程に持たせた。使用人が何人もいれば 両親も引き留める事も出来まいと計算してのことなのだ

おかよにとって、元々愛情など持ち合わせていない結婚だから五平に何も期待などしていない。

実家を大事にしてくれてることだけが救いでもあった

 



{家族とは}

長男の一馬は 幼少の頃から身体の弱い子であった。

寛解で役者の様にいい男ではあったが悄然とした様が跡取りとしては向いてないのではと口にする者もいた。

五平は次男の佐吉にお店を継がせる腹つもりであった。

幾ら利発な息子であっても覇気が感じられないのでは主として使用人を束ねることは難しく思われるのだった

一馬には 一生苦労しない暮らしを保証してやり、弟の佐吉に三浦屋を継がせようとの心つもりであった。

ところが佐吉は父親そっくりの生き様で 奉公人達は人当たりのいい一馬の方を慕っていた。五平は奉公人には顔を洗った後は水まきように溜めておくようにと悉く口うるさく言うのであった。竈の灰も糞尿も少しでも高く売る男であった。

佐吉は五平に似ず色白の端正な面立ちであった。小太りの小柄な五平とは違って五尺六寸はあろうか、すらりとした良い男である。

幸いにも二人の子はおかよ方に似たようだ

金はある 男ぷりはいいとくれば女の方から言い寄ってくる

自儘に育った佐吉は一馬ばかりを大事にしていると僻んでいた。「次男坊なんてやっかい者さ」と親の心を知ろうともしない。

おかよの苦労などお構いなくぷいと出かけたら幾日も帰って来ない有り様である。

おかよは困った時は一馬に相談した。、温和な性格故に店に座っているだけでも客は

喜んだ。暖簾をくぐり一馬の姿が見えないと踵を返して帰って行く女将さん達もいた。

一馬の目のつけどころは何時も成功した。丈夫でさえあればいい主となるであろう

おかよは腕のいい医者を探し回った。

そんな母親を見るにつけ佐吉は胸が苦しくなるのだった

五平が佐吉に一言注意しょうものなら「おとっつあんはどうなんだい、三浦屋の色爺と噂されてるの知ってるかい?」とやぶ蛇となる

まるで付け回しているかのように佐吉は五平の行動を把握しているのだ。片腹痛い五平は段々と佐吉に説教はしなくなった。

五平もただ遊んでいる訳でもない、行った先ではしっかりと商いをしている。

自分の遊ぶ金位は稼がないと使用人に偉そうにも言えない。転んでもただでは起きぬ男だ。

そのことは佐吉も承知している。佐吉は五平のように遊びに行く訳ではない

女に貢ぐような事もない。店を手伝うこともなくぷらぷらしているだけなのだが家を出ると町娘の方から声をかけてくる。その光景を見た人達から噂は広まり「親譲りのろくでなし」と有り難くもないお墨付きを貼り付けられてしまった。

佐吉は噂を払拭するでもなく「言いたい者には言わせておけ」と笑い飛ばしている

おかよは二人の子供を信じていた。一馬は思慮深い子である。家族を悲しませる行いはしないと、疑いもしない。佐吉とて愚かな子ではない、噂に尾鰭が付いて大事になっているだけだと思っている。悪い見本が目の前に居て学習出来ないとしたら佐吉には心が無いのであろう。おかよは佐吉にはやりたいことが見つからない焦りがあるのではないかと思っている。

何時も、さやは「大きくなったら伊平ちやんのお嫁さんになる。」と伊平を赤くさせた。

そんな伊平をからかうようにさやは、伊平の袖をひっぱりながらコロコロと笑うのであった。おなごというものは幼きしても男心をくすぐる術を心得ているのであろうか?

伊平は真面目な男である。父親は腕利きの大工で名は良作いといい、その名の通り彼の仕事には定評があった。母のおみよは働き者で優しい人である、弟の正太とは七つも離れている。伊平は父の下で働きたいと願ったが 良作は首を縦に振らない。

「身内だと甘くなっていけねえ」と言って聞かなかった

日頃は呑み崩れることはない父なのだが大店の隠居家の建て前の日、勧められる儘に呑んだのがいけなかった。ふらふらと歩いていて破落戸に絡まれ、寄ってたかって半殺しの目にあわされた。懐の祝儀も盗られて仕舞った。

鑿も鉋も二度と持つことはできなくなった。それからの父親は酒に溺れ、みてはいられなかった。

治療費を三浦屋で用立てて貰ったが中々返せなくて借金の返済の為におみよは奉公を五平から強いられた。


{砕かれた夢}


伊平はまだ見習の身、正太も幼く母の助けにはならない。

おみよは良作が元のように真面目になってくれると信じてやまなかった。どんなに荒れることがあっても、家族に手を挙げるような事もなかった。心は優しい人なのだと知っていた。

そんな折も折、さやと佐吉の噂を耳にした伊平は、

背中をどつかれ、こん棒で頭を殴られた思いがしていた。誰も居ない川べりで泣いた。

さやと所帯をもつ為に早く一人前の大工になろうと頑張っているのにと、涙がとめどなく流れ落ちる

さやは佐吉の 「あざとさが嫌だ」と言っていた筈なのに、

こんな姿は誰にも見られたくもない。

いいや、これで良かったのだ。

今の自分にはさやを幸せにできるものは何一つ持っていない。

さやの裏切りは恨めしいが、約束を交わしたわけでもない。全て一人よがりなのだ。

心変わりを責める資格もない。 そう、自分に言い聞かせもした。

佐吉は伊平とさやの仲を羨ましく思っていた。伊平は佐吉が手にすることが出来ない物を持っていた。佐吉は父親と遊んだ記憶が無い。何でも買い与えてもらえてはいたが 寂しかった。

良作の作った独楽はよく回ったし 凧も誰よりも上がった。伊平を誰もが羨やんだ

ある日、伊平の独楽や凧が大川に投げ捨てられたことがあった。犯人は分かっていたが

良作に追及するなと言われた。

人の物が欲しくて、手に入らないとなると排除する、佐吉にはそういった我が儘なところがあった。

佐吉の居丈高な顔が浮かぶ

佐吉の様な遊び人に、惚れたさやを奪われたことは情けないとわが身の優柔不断さにも

腹が立つ。

さやと佐吉の式に伊平も招待された。佐吉はしてやったりと鼻高々かもしれないが伊平はどのような顔をして参列すればいいのか?とてもにこやかに二人を祝う気にはなれない。

式は来月と決まったらしい。




{父の謎の死}


肌寒い朝、長屋の早起きの爺さんが大声で伊平の家の戸を荒々しく開け雪崩込んできた。母のおみよは朝餉の支度をしていたが 驚いてしゃもじを落としてしまった。

爺さんの口から出た言葉が言い終わらないうちに伊平はうちを飛び出していた

後ろからおみよと正太の声がするが、夢中で走った。

大川のほとりには明けやらぬのに人だかりができていた。掻き分け莚を捲った。

呆然としていると正太が「ちやんだ、兄ちゃん、ちやんだ」と大声で泣き出した

われにかえった伊平を突き飛ばすかのようにおみよがやってきた。

「なんで、なんで」とおみよはびしょ濡れの良作に縋って泣いた

己に起きた難事を収束出来ず 大川に身を投げたのだと言う者も居たが、伊平もおみよも

納得できなかった。

夕べは特に冷え込んで人通りも少なかったため 目撃した者もいなかったと

何度も掛け合いに行ったが、番所はけんもほろろであった。

良作は伊平が一人前になることを楽しみにしていた、日ごろ通る筈もないこんな所に何故と不可解に思う事ばかりであった。

家族のまえでは元気に振る舞って居たが、伊平の胸の内は良作にはよく分かった。「可愛いそうに」と呟いていたのをおみよは聴いている

伊平を追いかけていたさやのことをおみよと二人して微笑ましく見ていた。

何か事情があるのやもしれない、大和屋は後添えが来てから何かと揉めているとの噂もある。「大和屋さんは後添えの尻に敷かれて、好き放題されている」噂は大袈裟としても

さやの居場所はあったのだろうか?

お店も上手くいっていないとの噂もあった。

良作は家族の足手まといになっている事を苦にはしていたが 正太や伊平の行く末を案じていた。自ら命を断つとはとても考えられない

良作の葬儀には大勢の人が弔問に来ていた。大工仲間は口々に良作の腕の良さを惜しんだ

初七日の午後に昔一緒に働いていたという男が訪ねて来た。年は良作と変わらないように見えた。穏やかな物腰とは違い眉間に深い皺が頑固な一面を感じさせた。

無言で暫く手を合わせていたかと思うと呻くような声で滂沱した。

名を六蔵と名乗った。

おみよは良作から幾度となく六蔵さんの話を聴いていた。

伊平が大工になると言った時も「預けるなら六蔵に」そう言っていた。

「この人なら、安心して任せる事が出来る」とひと目でおみよもそう思った。

六蔵は腕がいい。評判を聴いて地方の大店からも依頼がきていた。

がっちりした背中が小刻みに揺れた。

「許してくれ、許してくれ」

畳についた手に涙が零れ落ちた。

、おみよと伊平を振り返り深々と頭を下げた。

「大工が出来ない身体になっていたことは仲間内から耳にしていたが、仕事で江戸を離れていたので会いに来れなかった、許してくれ」と呟いた。

良作に「俺の息子が、大工になりたいと言ったらお前に鍛えてもらいたい」と頼まれていたという。伊平は六蔵さんの話は聞いていたが父がそういう話しを交わしていたことは初耳であった。 親方にもいろんな人がいる。酒に溺れていたり、やたらと暴力振るったり、利益を上げるため手を抜いたりと問題のある人も少なくない。この人はどういうひとなんだろう?伊平は訝しげにまじまじと見つめた。

六蔵は不安気な伊平の気持ちを察して、「気が向いたらおいで」と帰って行った。

伊平は父の気持ちが嬉しかった。その思いに応えるように精を出そうと思うのだった。

さやのことも父の死も乗り越えて正太や母を守らなければならない。




{決心}



継母の福が来てから、父は変わって仕舞った

楽ではなかったがどうにかお店も回っていた。この頃は父と番頭が何やらよく話しこんでいる。 それとなく立ち聞きいてしまった。奉公人のお給金が払えないとの話の内容であった。 継母の浪費で火の車になっていたのだ。

継母は資産家のお店にさやを嫁がせようと算段していた。 

継母の福は佐野川年松という歌舞伎役者に夢中であった。年松は押しも押されぬ人気役者だ 福など相手にもされない。だが福は現実が見えてない。高い着物を次々と誂えて、手土産を持って上桟敷の高い席で年松にうっとりしているのである。

何時まで待っても伊平ははっきりしないし、家庭の事情もあるからさやも強いて口にする事も出来なかった。

さやは悲しげに項垂れている父の為になるならと決心するのだった。

おみよは辛かった、もうすぐさやが三浦屋に嫁いでくる。伊平の事を思うと恨み事の一つも言いたくなる。どのような顔をして接すれば良いのか、死にたい位に胸が痛むのだった

お店に向かう足どりも重かった。

店に着くなり、番頭さんに、奥様のお部屋に行くように言われた。

おかよは、「長い間ご苦労様でした」と金数と三人にと品のいい反物を差し出した。

ぽかんとしているおみよに、「辛い思いをさせて申し訳ありませんが、色々な事情があってさやさんと佐吉が夫婦になることとなりましたので、おみよさんにはお暇を取って頂きます。おみよさんもさやさんと顔をあわすのは嫌でしょうから。新しい奉公先は貴方もよく知っている米問屋さんにお願いしています。播磨屋さんは少し遠くなるけれど評判の良いお人柄ゆえ安心して奉公できると思いますよ」そういうとおかよは深々と頭を下げた。

おかよが持たせてくれた布袋には、三人が半年は食べていけるであろう金数が入っていた。

「これは、長い間働いてくれたご苦労賃です、もっと早くにお暇をあげたかったのですが

おみよさんに辞めては欲しくはなかったのです。貴方に助けられることが沢山ありました」おかよの頬に涙がこぼれた。

伊平には、お金の事も反物の事も話さなかった。きっと不愉快な思いをするだろうし、良いほうに解釈しろという方が無理だと思えた。

佐吉との婚姻を承知したものの さやの気持ちは煩悶としていた。佐吉の母のおかよをさやは慕っていたが、親というものはどんな放蕩息子であっても子がかわいいものである。さやの気持ちを察していても佐吉を庇うに違いない。

さやの居場所はもう何処にも無くなるのだ。

幼き頃小さな蛙を踏みつぶし、微笑んでいた佐吉が頭から離れないのだ。端正な顔だちの中に計り知れない冷冷たるものが隠されているようで薄ら寒さを感じずにはいられなかった。


{漣}

泣いても叫んでも駆け寄って来てくれるのは奉公人であった。母の目は何時も一馬に向けられていた。物心つくようになってからは、問題を起こすことで母の関心を引こうとするようになっていった。すさんでいく自分を抑えることが出来なかった。

良作の死を考えると六蔵はまんじりともしなかった。真面目な男だけに仕事が出来ない事を苦しんでいるだろうと、気にはなっていたが仕事を完成する事の方が優先した。

今更、あれこれと

悔やんでみても奴は帰って来ない。

今の自分に出来る事をやらないとあの世に行っても合わす顔がない。

役人に幾ら尋ねても身投げだと言うばかりで調べ直す気など微塵もない。

おみよが案じているのは、六蔵さんの住家は遠い、通うのは大変だ かと言って住み込みとなると幼い正太もいる。出来ればおみよは伊平に傍に居てほしい。だが、伊平がそうしたいと思うなら阻む訳にはいかない。

半年ぶりに行商の与平さんがおみよを訪ねてきた。

与平は越後の田舎から地方をまわって商いをしているのだ。商売人からは、何処でどのようなものが流行っているか情報が得られるので重宝もされてもいた。おみよが三浦屋に奉公する前からの顔見知りである。与平はおみよの優しい心根に好意を感じていた。良作の不幸も耳にして心痛もしていた。何か力になれることがあればと、長屋を探して来てくれたのだった。おみよは寒いときは温かい飲み物をそっと出してくれ、熱い折は濡らした手拭いを手渡してくれた。三浦屋の五平は糞尿さえも少しでも高く売るどけちであるが、おかよは、「人様あっての商いです」とおみよの心配りを誉めてくれていたのだった。

おみよの悩みを察した与平は、「お客様に、お子様を亡くされ身寄りのないご隠居様がおられます。最近は元気もなく臥せっておられることも多いとか、昔からおられるばあやさんが年だから何方かいい方はいないかと相談をされていますが如何でしょうか」

場所はその六蔵さんの家と、奉公先の米問屋さんの中間辺りにあるとのことだが

おみよの身体が持たない。米問屋で働き、ご隠居の世話をし正太の面倒も見ることなど

不可能な事である。

与平は詳しい話しを聞いてくると飛び出して行った。一刻位立ったであろうか

与平さんが帰ってきた。

おみよが手渡した手拭いで汗を拭きながら口早に話出した。

ご隠居さんの名はちかさんと云い、ご主人が元気な折は浅草寺近くで団子やを商って居たが年を重ね体の自由が利かなくなり隠居したのだが、半月前にご主人を亡くされ一人暮らしとなった。時折仲良し友達が訪ねてきて手伝いをしてくれ、寂しさを紛らわしてきているとの話だった。まだ足腰は大丈夫だから自分の事は出来るから おみよさんが働きに行っても構わないとの話だった。ただ「洗濯だけお願いできないか」とのことだ。

伊平は反対した、その内にあれもこれもしなければならないかも知れないと心配しているのだ。おみよの身体を案じてやまない伊平の気持ちはとても嬉しいが正太の事もありまだまだお金は掛かる。店賃が無料になるのはとても助かるのだ。伊平が一人前になるにはまだ時が必要だ。


おみよの心は揺らいだ。

いつかは伊平も所帯を持つであろうし、みんなで暮らせるのも今だけであろう。

伊平も反対はしたものの悩んだ

母が奉公する米問屋にも近くなる。

重い大工道具を肩に背負って通うには半里がせいぜいである。

二人を残して住み込むのもせんない。今の親方に不満が或るわけでもない。

正太がもう少し大きくなってからでも遅くはない、そう考えていたが 与平さんの話は悪い話ではないようだ。休みの日は母を助けていくようにすれば何とかなるのではないか、正太も友達と離れることにはなるが、見習いの伊平の雀の涙の給金では食べて行くのもやっとの事である。何かと辛い思い出の多い長屋を離れて、心機一転やり直すのも必要かも知れない。おみよと伊平はちかさんの家の離れにお世話になることに決めた。

おかよ奥様に戴いたお金は本当に困った時の為に置いておこうと思っている。人の一生は分からない。

おかよ奥様やさやの不幸を垣間見るに至っては、貧乏暮らしに慣れてはいても子供達に背負わせるわけにはいかない。



{嫁とは}

おかよは 佐吉がさやと一緒になって商いに身を入れてくれるのが何よりの望みであったが、幼い頃のような接し方はできそうにない。さやが伊平を好いていたことは十分に承知していたから、二人を割く様なこういう結ばれ方は心が痛むのであった。

おかよが三浦屋に嫁いで来たのもさや同様家族を、村人を救う為でもあった。どうしても好きになれない五平に嫁ぐ決心をしたのは、愛する人との別れがあったからだ。

おかよには将来を誓いあった人がいた。おかよをとても可愛いがってくれた祖母の墓参りに西山寺に行った折に、和尚にお茶をご馳走になった。その時に紹介されたのが一之介であった。一之介は諸大夫の三男坊である。家督は兄が継ぐと決まっている、屋敷にいても肩身が狭く寺子屋で子供達に読み書きを教えていた。和尚とも親子のように仲が良かった。

大名とはいっても一族の内情は楽なものではなかった

寺子屋に来る子の中にはその日の食事にも欠く家の子もいた。おなかを空かしている子には、和尚がお供え物をそっと与えた。

裕福な家庭や町の寄付で手習い所は成り立っている。そんな状況だから一之介も無償である。但し昼と夜の食事は和尚に是非にと言われて馳走になっていた。

ひと目でおかよと一之介は惹かれ合った。

何かと理由をつけおかよと一之介は西山寺で会っていた。寺子屋の終わる頃を見計らっておかよは心踊る思いで会いに行った。

和尚も微笑ましく二人のことを見ていたが、二人の仲は無残に割かれてしまった。

一之介に良縁が舞い込んだのである。父親に一族の為だと言い切られてしまうとおかよの事を話せずに途方にくれていた。いっそのこと剃髪して寺に入ろうとさえ思うのであった。

一之介を見初めた息女は何としても婿にと言い張ってきかないのだと、身分が違うと反対されても部屋に籠って食事もとらない始末である。一人娘の身体を案じて仕方なく父親が人を介して縁談を言ってきた。相手は足元にも及ばない身分である。話しを断れるわけはない。父にも兄に取っても願ってもない話しである。母が健在なら一之介の味方にもなってくれたであろうが、出世欲に駆られてしまった父達には何を言っても無駄であった。

「お前は一族を路頭に迷わせる気か」と烈火の如く喚きだすのだ。

一族は、ずっと冷や飯食いで上司の顔色ばかりを伺ってきたのだから無理もない。どんなに足掻いても叶わない僥倖なのである。

もし、この話しを断ったら兄の将来は無論甥達の将来もない。

一之介にとっても、明るい将来となる。一之介が胸の内を押し殺して一族と穏便に卒無く日々を送る事が第一の条件ではあるが。一之介も又己を殺す生き方を選ぶこととなった。

亡くなった母はこの縁談をどう思うであろうか?頑固な父と病弱な兄、気苦労も並大抵ではなかったであろう。一之介に偶には零す事もあったが、斯く言う一之介も母の悩みの種であったろうに。自分の決心一つで家族が良い方向に進めることができるのであればと苦渋の選択に迫られたのだった。

おかよも、父の悩みを立ち聞いて心を痛めていた。このところの日照り続きで不作が心配されていた。村人たちの生活もある。多少のお目こぼしは許されても年貢米は課せられる。

呉服問屋三浦屋からの縁談が待ち受けていたように舞い込んだ。両親は丁重に断るのだが

三浦屋の孫の五平が承知しなかった。おかよの母は反対した。

三浦屋は大奥にも出入りを許されている大店である。並みの覚悟では務まらないであろう。とても可愛い娘を行かせる気持ちにはなれなかった。

一之介を恋してやまないおかよには死ぬほどに辛い話である。

大婆様が直々に出向いて「娘さんを不幸にするような事は私の目の黒い内は決してさせません」深々と頭を下げた。

一之介とおかよはどうにもならないお互いの立場を話し合い、この世では添えられない事を涙するしかなかった。


{決心}

二人は己の感情を押し殺して生きる道を選んだ。もう二度と会う事も許されないそう思う気持が二人の分別を超えてしまった。二人はその日だけの夫婦となった。

働き者と評判のむすこを亡くしてから、孫の五平を跡継ぎにと懸命に育ててきた大婆だが、

肝心の孫の五平は大婆の思いを知ってか知らずか我儘に育ち、奉公人にも疎まれていた。

ところが、おかよが輿入れしてからは五平は人が変わったようによく働いた。

おかよも三浦屋の嫁として身を粉にして気配りをし、大婆を安堵させた。

長男の一馬が生まれたときなど大婆の喜びようは大変なものであった。

成長するにつれ、五平には似てないと言う者もいたが 「おかよの父親にそっくりやのー」と笑っていた。大婆はおかよに好きな男がいることも全て理解していた。

五平はおかよの気持ちが自分に向いてないことを十分に承知していた。おかよが良い嫁であろうと頑張っている姿を見ているとそれだけで満足であった。

次男坊の佐吉が生まれ五平はより幸せを感じていた。

二人の息子達は育つにつれ 眉目秀麗となり大婆や五平の自慢でもあった。

年ごろになった佐吉には手を焼いた。昔の五平をみているようで胸が痛んだ。

一馬は穏やかでお客様の評判も良かったが身体が弱く、時折床に着くことがありおかよを心配させていた。おかよは名医と聞くと診てもらい、高い薬も惜しまなかった。

おかよが一馬にかまけているのを見るたびに佐吉の放蕩が目に余るようになっていった。佐吉は寂しかった。母は何時も一馬の傍にいた。佐吉の世話は、ばあやがしてくれていた。兄の事は大好きであったが、何時も一馬に母を取られている気がしていた。

母への思いが歪んだ形で仲良しの幼馴染への横恋慕となってしまった。佐吉には、付き合っている娘が居る。

五平は三浦屋は自分の代で終わりかと、親戚筋に譲る事も考えていた。佐吉がさやをどうしても嫁に欲しいと言って来たときは驚いた。伊平を好いている事は幼い頃からの三人を見てきたものなら、誰もが知っていた。「さやさんが承知しないだろう」五平はそう思ったのだ。「さやが嫁になってくれたら家業に精をだすよ」佐吉は約束した。

五平は三浦屋の為佐吉の将来の為にと、大和屋に足を運んだ。

後添えの浪費のせいもあってさやの家は大変な事になっていた。支援を申し出ると強欲な後添えの福が食らいついてきた。

さやの気持などお構いなく、輿入れの日は進んでいった。

約束どうりに佐吉は家業に精進するようになり大婆も胸を撫で下ろすのであったが大婆も心から喜べない後味の悪い思いであった。五平といい、佐吉といいこの親子は人の弱みにつけ込んだ生きざまをする。その手配をしてきた己が恨めしく思うのであった。

一馬の体調がこの頃どんどんと悪化している。おかよは必死になって看病をした。

寝屋は一馬の隣の部屋にした。襖を少し開け、一馬の寝返りすらにも動揺していた。さやが嫁いできて、佐吉が働く姿を確認するかのように

一馬は眠る様に静かに逝ってしまった。

おかよの悲しみは深いものであった。心から愛した人の子を守れなかった自分が悔しくてならなかった。ずっと避けてきた西山寺の、今は亡き母の墓に参った。和尚から一之介が昨年の暮れに病にて亡くなった事を知らされたおかよは、その場に崩れてしまった。一之介は時折寺に赴きおかよの様子を聞いていたとのことであった。おかよは声を出して泣いた。和尚は優しくおかよの肩を撫で、静かに本堂から出ていった。

一馬の一周忌を終えたおかよは,全てをなし終えたように一馬のもとへ逝ってしまった。五平は腑抜けのように何日も仏間の部屋から出て来なかった。さやは心配のあまり度々様子を見に行った。食事ももう何日も口にしてない。大婆様に相談してみるが大婆様もおかよの死は受け入れがたいものであった。おかよの存在は三浦屋にとって大きなものであったのだ。「私より先に逝くなんて」と大婆様は泣き明かしていた。

火が消えたようになった三浦屋をこのままには出来ないと佐吉は奮起した。佐吉の頑張りに五平も店に顔を出すようになっていった。


{沈鬱悲壮}

おかよの死はおみよにも、大きな衝撃であった。良作を失ってからも何かと気にかけてくれていたのだ。姉のような存在になっていただけにぽっかりと穴が開いたような日々を送っていた。

ちかの隠居家に産婆のお富さんが訪ねてきた。伊平に縁談話を持ってきたのだった。

仲良しの蕎麦屋のご夫婦が、「悪い虫が付かない内に嫁に出したい良い人はいないかしら」

その時に伊平の話しをすると、女将さんが大乗り気になり是非に会いたいと言うので、はせ参じたということらしい。

おみよがちかと同居するようになってからは、ちかの部屋の障子を開けると庭が見えるように、知り合いから頂いた草木を植えていた。今日も庭を眺めていたら、お富さんの声が大きいのでちかさんに全部聞こえていたらしい。

おみよが「まだ 伊平は見習いの身だから」と断わっていると、ちかは「口を挟んでごめんね、会ってみてから決めたんでいいんじゃないかい」そう笑いながら言った。

お富さんも「そうだよ、そうだよ」と更に大声で「じゃあ、段取り決めるよ」と去っていった。

おみよは躊躇したが、伊平の心中を思うとさやのことは忘れて幸せを掴んで欲しいとも考えるのであった。

六蔵は暇を見つけては探し回っていた。

良作が自殺するとはとても思えない。それも待ち屋の多いこの辺りにどのような用事があったのだろうか?

あの夜は雨が降っていて人通りもなかったようだ。目撃した者も見つからなかった。

河原乞食が塵を漁っていた。彼らは人がいない場所を探して塒にしている。

六蔵はこの辺りを塒にしていた者を尋ねてみた。その頃此処を塒していた男は今、小石川養生所にいるという。六蔵は会いに行った。もう長くはないと医者は言ったが何とか話は出来た。彼は暗闇で争う声を聞いたと途切れ途切れに話してくれた。

一人は背の高い男だったと、その男は引き留める男に「しつこいですよ、良作さん」と言っていたとも。間違いないやはり良作は殺されたのだ。

殺したのは誰だろう?

幕府の財政は悪化していき質素倹約、贅沢禁止との厳しいおふれが下された。

三浦屋にも過大な影響を及ぼすこととなった。

高額な寿司屋は捕らえられたりもした。花見でのどんちやん騒ぎなど以ての外であった。

庶民の不満は積もり一揆も起きていた。

六蔵は待ち屋を一軒ずつ聞いて回った。事件の日に利用した男の名に聞き覚えがあった。

思い出せない。

お富さんの計らいで、伊平とおみよが蕎麦を食べに行く事になった。蕎麦屋の娘はきぬと言った。よく気のつく可愛いい娘だ。おみよは気に入ったが肝心の伊平は全く関心を示さず 「旨い旨い」と蕎麦のお代わりまでしている。

帰り道、伊平にそれとなく娘のことを聞いてみたが覚えていないという。

今日は見合いだった事を話すと、「そうか」と応えたきり黙ってしまった。

正太は寺子屋から帰ると真っ先にちかの部屋に行っていた。外で見たことや習ったことなどを話して聞かせた。ちかには男の子が居たが幼い頃流行り病で亡くしていた。ちかは正太が息子の生まれ代わりのように思えた。

夫婦の落胆は想像を絶するものであった。 その後二度ほど流産をしてからは、商いに身を入れて子供を望まないようになっていた。正太は優しい子でちかをおばあちゃんのように慕い肩を揉んだり、花を摘んであげたりして大切にしていた。おみよは伊平も正太もいい子に育って嬉しかった。伊平は益々良作に似てきた。休みの日は家の修理や力仕事を引き受けてくれた。六蔵の下で真面目に働いていた。

風が強い蒸し暑い夜だった。 火の見櫓の鐘が激しく鳴り響き伊平達は通りに出てみた。野次馬の一人が「日本橋の方だぜ」と言った。江戸の町にはこのところよく火事が起きていた。数か月前まで住んでいた日本橋の方角の空が真っ赤である。

おみよと伊平は無言で立ちすくんでいた。

思い思いの感情がよぎった。伊平はさやの安否が、おみよは大婆様はどうしたろうかと脳裏を過った。

二人はどうしょうもない事を悟り、家に戻った。密集した家が多いために大火事となる。

明日は我が身かも知れない、何時も心構えだけはしておかなくてはならない。

伊平に大八車を作ってくれるようにお願いしていた。。いざという時着替えとちかさんを運べるようにする為だ。

六蔵さんと伊平は何日もかからず作りあげてくれていた。大八車が出入り出来るように塀の一部も改造してくれていた。普段は塀になり、いざという時は閂を外すと出入り口となる。

貴重な大八車は盗られる可能性があるので、植木鉢で隠していた。

不景気な世の中になると、心悪しき者が少なからず現れる。

どさくさに紛れて火事場泥棒に成り下がる奴、親切ごかしに付け入って金品を詐取する奴。

地獄の閻魔も呆れかえるであろう。煮ても焼いても食えぬ輩が伸う伸うと生きている。

一番質の悪いのが、善人面してこの時とばかりに値を吊り上げ金儲けに余念がない輩だ。

人間という生き物程残忍な生き物はいまい。

日本橋の大店のほとんどが焼け落ちたという。おみよ達が住んでいた長屋も全滅であった。

おみよの奉公する播磨屋さんは困っている人達には炊き出しもした。


{灰の中}

着の身着のままで焼け出された長屋の人には、ちかさんがもう着なくなった着物を提供してくれた。寺や縁者に身を寄せれる者はまだましだった。

行く当てのない者は橋の下で莚に包まって過ごすしかない。雨に濡れるくらいはまだ耐えれた。寒い冬の火事の時は凍死するものが続出した。夏は蚊に刺され熱をだし亡くなる人もいた。

さやの父もその一人だった。後添いの福はさっさと見切りをつけ金目の物を持って遠の昔に娘と出ていった。無論の事、さやの結納金をもってである。

さやは何の為に嫁いで来たのか、父や店の為と思って伊平への思いを捨てたのにと恨めしい気持ちでいっぱいであった。年月が過ぎても佐吉の嫁には成り切れてない。まだおかよが生きて居た頃は何とか自分を誤魔化してこれた。おかよも気にかけてくれ優しくしてくれた。その おかよはもういない。五平の店三浦屋も大火事で蔵のみ残して焼失してしまった。

佐吉は無我夢中であった。店の再建と掛け金の集金と身体が二つ欲しい位である。

兎に角資金を集めなくてはならない。火事の多い江戸の大店の知恵で掛け帳は油紙に包み井戸に入れていた。紙も字が滲まない和紙が使用された。三浦屋も番頭が半鐘の音を聴いた途端に大切な物を土蔵に、井戸に庭の穴にと佐吉やさやと共に置いて回った。

唯々 狼狽えている五平に構っている余裕はなかった。

それでも五平は大婆様の事は気にかけて、姿を常に確認した。五平にとって大婆様は親も同然の人である、本能的にそのことは頭から離れなかったようだ。

相変わらず暇を見つけては、良作の足取りを調べていた六蔵は三浦屋に行き着いた。佐吉があの日待ち家で、登勢という娘と会っていたことが分かった。登勢は佐吉がさやと結婚をする前からの仲であった。佐吉は登勢と別れる気はない、さやにはない艶やかさがあった。さやが伊平を好いていたのがずっと気に入らなかった。大抵の娘は佐吉に興味を持ったのに、さやだけは違った。母の気持ちが一馬に向けられていることと重なりどうしてもさやを手に入れたかった。あの日良作に伊平の為に別れて欲しいと頼まれたが冷たくあしらった。その後の事は知らないと佐吉は六蔵に答えた。

誰も佐吉が良作を大川に突き飛ばしているのは見ていない。佐吉がそう言いはる限り誰も佐吉を犯人だとはいう事は出来ない。

六蔵が帰ろうとした時番頭の叫ぶ声がした。 「離れの瓦礫の中から焼死体が二体」と言うと、へなへなとその場に崩れる様に座り込んだ。

佐吉は五平と大婆様の姿を目にしてなかった事にきずいた。夢中になって再建の事ばかりを考えていたのだ。大婆様にも父にも何一つ商いの事を教えられていない。

頼りになるのは、番頭のみである。好き放題に生きてきた報いかと今更悔いても仕方がない。

六蔵は佐吉の横顔を見ていた。

「若しも此奴が良作を殺したとしても証拠が無いが、此奴はこれから死ぬほどの苦しみを味あうことになるだろうな。此奴の生き様を俺は死ぬまで見届けてやる。」

佐吉は六蔵の冷ややかな鋭い眼光に身の凍る思いを感じていた。

蔵の床下に大婆様が何かの時の為にと小判を壺に隠していた。その事を知っているのは亡くなったおかよとさやだけであった。


{誓い}

さやは佐吉と六蔵の会話を聴いていた。登勢の事も輿入れする前から知っていた。町の娘たちの間では遊び人の佐吉は噂の種であった。

大婆様の隠し金の事は佐吉には伝えなかった。黙々と嫁としての仕事をした。

さやにはもう帰る家もない。父が亡くなった後に人手に渡ってしまった。後添いの福が借金の形にしていたようである。父はその事を承知していたようだ。

佐吉に対して何の感情も持てなかったが、出ていく宛もない今となってはどうしょうもない。

さやが笑顔を見せることはなかった。佐吉はそれでもさやを離縁しょうとはしなかった。

さやには女将としての裁量があるが、登勢にはない。登勢は寝屋を共にするだけの存在なのだ。人形のようなさやには無い色ぽさが登勢にはある。佐吉は色恋も身勝手な計算なのである。

好き勝手に生きてきたのに、何時も満たされないものが佐吉の体の中で渦巻いていた。

店を再建することで、もやもやするものからは少し解放された気もしていた。

一馬と何時も比べられていたが、その一馬も居ない。三浦屋の主人はこの俺なんだ、誰にも文句は言わせない。必ず再建して見せると意気込みはしてみせるが

中々思うようにはいかない。

集金も捗らなかった。信用貸しだとか、ある時払いだとか五平が居ない今はなんだかんだと口実を設けて支払いを逃げる輩ばかりであった。

大婆様の偉大さ、母の苦労、父の努力を思い知らされていた。

焼け残った土蔵から反物を出し、さやは着物を仕立て売ってまわった。

大火から一年がこようとしていた。三浦屋も以前のようにはいかないが店も構える事が出来た。

六蔵は良作が最後に会っていたのが佐吉であることはおみよや伊平には黙っていた。

さやの努力も垣間見て、良作の敵をとることが必ずしも皆の幸せに繋がるとは思えなくなっていた。伊平もきぬと幸せに暮らしている。ちかの申し出で正太は養子縁組をすることとなった。

だが 佐吉の何事もなかったような生き様を見ているとむかむかしてくる気持ちを抑えるのは至難でもあった。

登勢とて、佐吉に対する気持ちは面白くないものがあった。

最近は連絡も取れずにいた。腹には佐吉の子がいる。日ごとに大きくなる腹の子の事を話すと、「俺の子かなあ」ととぼけた言葉が返ってきた。

さやを見てやろうと店に行ったりもした。

佐吉にとって都合の良い女で終わるのは許せなかった。

本来ならばさやの座にはこの私が居る筈なのだ、そう思うと煮えくりかえる程に腹がたった。

いっその事、洗いざらいさやにぶちまけてしまおうかとも思ったがそれをすると佐吉だけでなく登勢も磔となる。さやの方が後から割り込んで来たのに登勢の方が悪いことをしたようになっている事が納得できないのだった。

さやを殺す事も考えた。どうしてやろうかとその事ばかりが頭を駆け巡るのだった。

おみよの働く店に、米を買いに来た婆さんが「わたしゃ見たんだよ、昔大工の男が土座衛門となって大川からあがっただろう、前の晩三浦屋の若旦那と死んだ大工が話しているところをさ、 見たんだよ、」それだけ喋るとさっさと帰って行った。

おみよは合点がいかなかった。良作が伊平の事を考え佐吉に結婚を取りやめてくれるよう

頼みに行ったとも考えられるが、どれほど探しても目撃した者は見つからなかった。

なのに今になってと、不思議に思えた。ご主人に掻い摘んで話し、急ぎ婆さんの後を追った。年寄りとは思えないほど足は速い。尾行を避けるためなのか何度も小道へと曲がった。一里位歩いただろうか、婆さんは銭湯に入って行った。半刻経っても出てこない。おみよは暖簾をくぐり番台のおかみに尋ねると、さっき出て行った娘がそうだと答えた。

女将も初めての客だと言う。

風呂敷を抱えた艶のある娘が出てきたのは見たが婆さんのことしか頭にはなかったから、顔は覚えていない。

おみよは六蔵に相談をした。六蔵は調べてみると応えた。

さやと一緒になる前からの仲の登勢の事を探ってみることにした。佐吉は登勢の婿養子になる腹ずもりであったが、一馬の死によって三浦屋の跡を継ぐ事になり登勢にも飽きて来た頃であった。佐吉の心変わりを察した登勢は腹の虫が収まらなかった。

与平も又、気になる噂を耳にした。佐吉に焦がれていた町娘のやっかみが混じった噂では、登勢のお腹には佐吉の子が居ると。登勢の家は日本橋で大きな茶屋をやっている、そこの一人娘故我儘放題に育った。派手で金に不自由が無いものだから男も寄ってくるが佐吉は相手にもしなかった。自尊心の高い登勢はそんな佐吉に惹かれていった。

それが佐吉の狙いであった。

所詮乳母日傘でちやほやされて育った者など佐吉にはいとも簡単に落とせた。後は佐吉の思いどうりである。佐吉が金を出すことはない。小遣い迄も登勢は持たせてくれていた。佐吉が要求した訳でもないが、くれるというものはありがたく頂戴していた。

都合の良い女子である。佐吉好みの小股の切れ上がった登勢と本心で所帯を持つつもりでいた。だが状況が変わった。昔から伊平の後ばかり追いかけていたさやの事が腹立たしかったが、それも金の力で思うようになりそうだと分かった。

偉そうな二本差しの侍さえも呉服のつけを払わない。おまけに何かと難癖つけては小遣い銭をたかる。

人の心も金次第、そう思うと笑いがこみ上げてくる。

佐吉は必死になっていた。頼みの家族は誰もいない。さやとて伊平から無理矢理奪ったものだ。心許しているとは到底思えない。母が兄に構っていた時よりもずっと孤独を感じていた。

与平は六蔵に登勢と佐吉の噂を話した。二人はおみよにだけ話した。おみよもその噂は聞き知っていた。全てを承知してさやは覚悟して嫁いだのだと、さやの父親から聞かされていたのだ。伊平も今ではさやを恨んではいない。きぬもちかの家にも時折訪ねて来ては、庭いじりを手伝っている。二人はいい夫婦になりそうだと六蔵も安堵している。

さやは佐吉に内緒で小さな一軒家を買った。無論さやには持ち合わせはない。大婆様とおかよがコツコツと貯めた蔵の金でだ。佐吉を許すことは出来ない。かと言って飛び出しても行くところもない。お店に出入りしていた与平さんなら口も固い、相談に乗ってくれるかも知れない。与平は二つ返事で引き受けてくれた。お金のことは父親が残してくれていたと話した。さやの気持ちを察してそれ以上の事は聞かなかった。

与平はさやの父親の店にも出入りしていたから、父親にそんな余裕はなかったと承知している。大婆様かおかよがさやの行く末を案じて残していたのだろうと推測している。

どちらにしても佐吉が登勢と別れることはできないであろうと思うのだ。登勢の腹には佐吉の子がいる。火事で焼けたお店を立て直すには、登勢と別れるのは得策ではないと考えるのではないか。佐吉は計算高い男だ、さやを捨て登勢と再建を図るのではないかと与平は疑念を持ったのだ。離縁ならまだしも、もしかすると命さえ奪われるやも知れない。

そういう不安がよぎった。家は直ぐに見つかり、大切なものは少しずつ移していった。佐吉や番頭にきずかれないように風呂敷に包められる程度のものしか運び出せなかった。

浅草に手頃な家が見付かった。築何年も経ってないので綺麗なままで住めそうである。

日本橋から二里位あるであろうか?仕立て物を届けるという名目で行って帰れる。

商いに身を入れたことのない佐吉は、人に頭を下げたこともなく毎日が苦痛の連続であった。

だが佐吉にも意地がある。放蕩息子はやはり使えないと言われたくもない。

代々の暖簾を下ろす訳にはいかない。

さやはよく働いている、が佐吉の思う助けにはならない。金が欲しい。金さえあれば直ぐに三浦屋を昔のように出来るのに。

佐吉は、婚姻の折にさやに「先渡し離縁状」を書かされていたことを思い出した。さやからは「返り一札」は貰ってないが、それさえもらえれば縁は切れる。登勢と再婚すればこんなにしんどい暮らしをしなくても済む。登勢は自分の言いなりになる女だ、何でこんな回り道を選んだのか馬鹿な事をと今更悔やむのであった。

今夜にでも さやと話し会おう。

隅田川の近くを歩きながら登勢の事を考えていたら、いきなり老婆がぶつかって来た。

危ないじゃないかと言おうとするが声にならない。崩れるように地面に倒れた。

周りのざわめきが小さくなっていく。気のせいなのか、ぶつかってきた老婆の目が涙目であった。涙で潤んだその目が登勢に似ていた。

佐吉の死に顔は少し微笑んでいるようであった。

佐吉が亡くなってから、さやは三浦屋の暖簾わけを番頭に行った。

さやは全てを失ったが悔いてはいない。三浦屋から、佐吉から解放された事の方が数倍嬉しかった。伊平はもう幸せな家庭を築いている、水を差すつもりもない。

浅草のこじんまりとした家で倹しく生きていこうとそう思うのだった。与平さんが時折覗いてくれ、地方の話しをしてくれる。

その後登勢は 手代と結ばれ佐吉の子を産んだ。世間には手代の子としていたが世間には知れ渡っていた。

三浦屋の先祖の墓参はさやが行っている。さやがいなくなった時の事を考えてお寺には永代供養をお願いしている。

さやは、浅草寺近くの団子やで働くことになった。おばあさんが一人で商っていたから、よく働くさやは大事にしてもらえた。

団子の作り方、仕入れのやり方を教わり行く行くは店も任せたいとも言ってくれたのだった。

温かい風が吹く頃には与平さんが商いにやってくる。

さやにももうすぐ春がやってくる。

此れまでは夜が明けなければいいのにと思う事が多かったが今の自分は、明日に想いを馳せる事が多くなった。

土手の河津桜が一つ二つと開き始めた。

桜を眺めながら歩いていると両親に手をひかれ乍らよちよちと歩く可愛い男の子とすれ違った。母親がじっとさやを見つめていたがさやには見覚えがない。軽く会釈をして見送った。かなり離れてからもしかしたら「登勢さんでは」と振り返ったがもう親子の姿はなかった。

「どうぞお幸せに」とそっと手を合わせた。


おわり


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