第34話 琴吹恋夜
屋上から投げ出された里緒の身体が、地面に当たる寸前でフッと消えた景色を目の当たりにし、雪葉は今の最悪な状況を嫌でも理解してしまう。絶望した表情で唖然とフェンスから身を乗り出して下を見ていると、不意に男子生徒に話しかけられた。
「助けられなくて残念だったみゃね。これで、今回の呪い主を強制送還みゃ。即ち、もう香奈ちゃんは帰ることができないみゃ」
ふざけた語尾を付けているのに、不適で不気味で怪しい笑顔で、背筋をゾッとさせるような畏怖に襲われ、思わず男子生徒から飛び退く雪葉。一人で立ち向かわなければいけないのに全身が総毛立つ。男子生徒は人間なのに人間でないように感じた。完全に雰囲気に気圧され、彼の赤い髪と瞳すら薄気味悪く思う。
「雪葉くん、無事ですか!?」
「世那! クラゲは全部倒せたのか!?」
その時、怖じ気づいて戦慄する雪葉を助けるみたく、慌ただしく乱暴に開かれた屋上の扉から世那が登場した。タイミング良く現れた救世主の声が、一瞬で萎縮していた雪葉の身体から緊張を解いて安心感で包む。息を切らしながら飛び込んできた世那は、安堵で胸を撫で下ろした雪葉の弾んだ声に頷いた。
「はい、世良がこの身体に傷一つ作ることなく全て消してくれました」
「相変わらず、スゲぇな」
『世良、強すぎ』
「恐ろしい女だみゃ」
「会話に混ざってくんな、ストーカー」
世良の頼もしさと一人で無双というかっこよさに男心を昂ぶらせる雪葉だったが、尊敬の眼差しで呟く結衣に続いて男子生徒が入ってきた為、辛辣な言葉で拒否する。先程までラスボスの如く雰囲気で雪葉を圧倒してきた癖に、冷や汗を垂らして苦虫を噛み潰したような顔で怯えていた。
世良を雪葉達と引き剥がしたのは、単純に彼女と戦うのが怖かっただけなのかもしれない。そんな考えに至り、一気に敵への恐怖心を雲散霧消しつつも、油断すると何をされるか分からない故、さりげなく世那の近くに行く。ここでようやく、世那と共に香奈も屋上に来ていることに気付いた。
「香奈姉、目を覚ましたのか! 悪い、佳奈美さんが屋上から落とされちまった」
「あ、ああ。世那の言っていた通り、本当に雪葉も此処に居たんだな」
「邪気で意識を失っていたので僕が祓いました。それより、事態は思っていたより申告のようですね」
覇気を戻した青い瞳に戸惑いを滲ませて頷いた香奈を補足し、世那は里緒を屋上から落とした犯人に鋭く冷たい視線を向ける。世那の登場による安心感と世良の無双っぷりで空気が緩んでいたが、里緒を現世に戻されてしまったのは最悪の事態だ。
「そ、そうだ。里緒は無事なのか?」
「はい。先程、道中で説明した通り、香奈姉さんを呪った佳奈美さんは、屋上から落ちても怪我を負うことはありません。現実世界に帰るだけです」
「けど、香奈ちゃんはもう此処から出られないみゃ。僕と一緒にこの世界で永遠に暮らしてもらうみゃ」
話題に出たことで大切な親友の存在を思い出したのか、香奈が焦燥に駆られた切羽詰まった表情で世那に尋ねた。世那は香奈を落ち着かせる為に穏やかな口調で説く。が、それを覆したいらしき男子生徒が、口元に弧を描いて不気味な笑顔で手を差し伸べた。名前を呼ばれた香奈は、男子生徒に見覚えないようで、怪訝な表情をする。
「誰だ?」
「僕は
「猫の幽霊? そういえば、何ヶ月か前の登校で見かけたな」
この一連の事件は、赤髪の男子生徒ではなく、彼の身体に勝手に取り憑いた霊の仕業らしい。ならば、琴吹恋夜という少年も被害者だ。なんとか助けられないかと思案していた雪葉だったが、特に驚いた様子もなくあっさり信じた香奈の言葉に集中力を掻き消される。
「その時の幽霊だみゃ。香奈ちゃんに一目惚れしちゃったのみゃ」
「それで、学校内に呪いの噂を広めて、力を蓄えていたんですね」
まるで当然のように幽霊の存在を認知していることに戸惑う雪葉を置いて、香奈の脳裏に浮かぶ霊が自分だと主張するストーカーと魂胆を理解する世那。おそらく黒幕であろう最後の敵と、今までの知識と経験を活かして、答え合わせをしている展開。邪魔をするわけにはいかない。が、雪葉はどうしても混乱をそのままにしておけず、震える声で恐る恐る香奈に問う。
「えっ、待っ……まさか、香奈姉って幽霊が視え――」
「ああ、黙っていてすまなかった。家族以外には言わないようにしているんだ」
「さぁ、香奈ちゃん。僕の近くに来て、この手を取るみゃ」
一人だけ狼狽えている雪葉の方がおかしいみたいな雰囲気の中、律儀に答えてくれた香奈に妖しく口の端を吊り上げて手を招く霊。香奈が視える側の人間だったという
、雪葉にとって割と衝撃だった事実をあっさりと終わらされてしまった。不完全燃焼に似た気持ちを胸中に渦巻かせ、モヤモヤする雪葉だったが、香奈の様子に違和感を感じて脳内を塗り替える。幽霊の方へと一歩踏み出した香奈に怪訝な表情を向けた。
「香奈姉?」
『また操られている?』
「香奈姉さん、行ってはいけません」
光を失った虚ろな瞳で自らフラフラとストーカーに歩み寄る香奈は、訝しげに眉を歪めた結衣にも慌てて止めようとする世那にも無反応だ。初めて教室で会った時、里緒が言っていた通り、香奈の腕力が普段よりかなり強くなっており、引き摺られている世那を助ける為、雪葉も急いで駆け寄り彼女を止める。
それでも、余裕の色を宿した不気味な笑顔で、両手を広げて待つストーカーと距離を詰める香奈。二人がかりでも少しずつ進まれ、雪葉は歯を食いしばりながら霊を睨めつける。香奈を止められないのであれば、たとえ差し違えてでも黒幕をどうにかするしかない。覚悟を決めて突っ込もうとした矢先、世那が小さく謝罪をしたかと思えば、香奈の身体から厄介だった力がフッと抜けていく。
地面に身体を打ち付ける前に受け止めると、香奈は全身を脱力させて瞼を固く閉じていた。緊迫感に支配された手で恐る恐る呼吸を確認したところ、眠っているだけだと分かった雪葉は上がっていた肩から力を抜く。香奈を眠らせたであろう世那は、片手サイズの小さな銃を持っていた。見たことがない道具だが、あれの効果だろう。
「チッ、巴江家の人間如きが我輩と香奈ちゃんの恋路を邪魔するとは生意気みゃ。まずは、貴様等を消してやるみゃ」
などと呑気に疑問を解消していた最中、邪魔をされて怒髪衝天のストーカーが、こめかみに青い癇癪筋を走らせて地を這うような低く暗い声色で怒りを顕にした。咎めるみたいな宇容赦のない視線を世那に突き刺し、憤怒の炎を背負った長い長い猫の尻尾で攻撃してくる。世那と雪葉は互いに目を合わせ、同時に頷き行動を開始した。
世那が綺麗な後転を披露して伸びてきた鞭の如く尻尾を避け、貯蓄しておいた霊力が尽きるまで安全地帯になるテントを召喚。雪葉が我武者羅に失神した香奈を横抱きしテントへと駆け込む。長年の付き合いと異界経験の積み重ねによる以心伝心で、無事に身を隠せた。雪葉は全力疾走と緊張と焦りで乱れた息を整えつつ問いかける。
「せ、世那。今までと全然雰囲気が違うけど、俺達だけで本当に祓えるのか!?」
「あんなに強大な力を得た悪霊は普段の道具で除霊することができません。僕の全ての霊力を使うことになってしまいますが、この巻物を使います」
「巻物?」
苛立ちをぶつけるみたく尻尾で何度も殴打されても、びくともせずに佇む無敵の要塞の床に巻物を置く世那。丸められて筒状になった状態の巻物は、簡単に解けそうにないほど厳重に紐で縛られており、目を落とした雪葉に緊迫感を与えてくる。少し震えた声で紡がれた雪葉の質問に、世那は小さく首を縦に振り説明を始めた。
「まだ未熟な僕に祖父が作ってくれた封印術です。あれほど覚醒した悪霊を封印しきれるほど、僕の霊力が足りるかどうか分かりませんが……」
「だったら、俺も協力する。霊力卵を全部使えば、ちょっとは足しになるはずだ」
『私も手伝う。雪葉の魂が持って行かれないように補うから、遠慮なく世那に協力して』
「サンキュー、結衣」
凜然とした表情だった世那の声色が、最後だけ少し自信なさげに儚く揺れる。それだけで、不安の波に溺れそうになる自分を、必死に叱責していると一目瞭然だ。そんな幼馴染を一人で戦場に立たせる選択しなど、雪葉の中には存在しない。拒否を認めない強い瞳の雪葉と結衣の申し出を受け入れた世那は、安心感と嬉しさを孕む笑顔に申し訳なさや罪悪感を滲ませて頭を垂れた。
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