第29話 黒猫涼Ⅱ
「悪霊って物理攻撃も効くんだな」
「黒い靄の時は無理だ。人間に取り憑いた状態だったり、人間を模倣した姿ならできる。その人間を攻撃できる度胸があればな」
「ああー……俺には無理だ」
蜘蛛の子を散らすように逃げた悪霊達を眺めて感心していた雪葉は、大鎌でドーナツをしばき終えた世良の説明に開いた口を引き攣らせた。今までの中だと木之橋凪、佐倉咲、白石杏子、綱田奈津の四人だが、いずれも悪霊に操られているとはいえ、世良みたいに何の躊躇もなくボッコボコになど出来る気がしない。
「だから、ずっと涼が奈津の目を隠してたのか」と、困惑と呆れを孕んだ半笑いで二人を見た雪葉の視界に、魂が抜けたような顔と虚ろな瞳で天井を見る涼が映る。いつも活気溢れる苗色の瞳から生気が抜け落ち、打ちひしがれたみたいに茫然自失としていた。違和感に気付いた雪葉は、屈んで涼の顔を覗き込んだ。
「涼、どうした?」
「涼ちゃんを呼んでる……」
「はい?」
「く、黒猫先輩!」
ゆっくりと立ち上がり意味の分からないことを呟くと、涼は素っ頓狂な声を出した雪葉を無視してドアに向かう。衝動的に誓約を破ってしまいそうになるほどの嫌な予感に包まれたのか、咄嗟に手を伸ばした奈津の手を振り払って図書室を出て行った。
そのまま、ふらふらと覚束ないが迷いのない足取りで廊下を進み、角を曲がる。長年連れ添ってきた目で確かに見たのに、混乱で真っ白になって理解が追い着かない。唖然として固まる二人と違って把握した世良が、面倒臭そうに舌を打って駆け出す。
「チッ、人間を操る力まで手に入れてやがったか」
「嘘だろ!? そんな催眠術みたいな技、どうやって対抗するんだよ!」
「知るか、とにかく追い掛けるぞ」
口から心臓が飛び出すかと思うほどの驚きで顔色を変え、雪葉も走る世良を追い掛けて彼女の背中に向かって叫んだ。背中を向けたまま苛立たしげに叫び返した世良は、恐らく雪葉や奈津に気遣って本気を出して走っていないだろう。それでも、足を縺れさせそうなほど必死で食らいつかなければ、置いて行かれそうな速さだ。
にも関わらず、徒歩で移動したはずの涼の後ろ姿を視界に捉えることができない。心中穏やかでない状況に焦れったさを感じ、歯を食い縛って世良の速さに食らいついていると、不意にふわりと身体が浮かんだ。雪葉と奈津が世良に片腕で抱えられたと気付くと同時に、ジェットコースターに乗っているみたいな感覚に襲われる。
爆速すぎて腹の底から絶叫しそうになるが、舌を噛み千切ってしまいそうで口を噤む雪葉。その間、世良は新幹線にも勝てそうなスピードで廊下を走り抜け、屋上へと続く階段を駆け上がった足で扉を蹴破る。屋上に着いて真っ先に飛び込んできた光景は、身を投げ出しそうな雰囲気でフェンスの上に立つ涼だった。
「まさか、あのまま屋上から飛び降りる気か!?」
「く、黒猫先輩が一人で飛び降りたら、どうなってしまうんスか? もしかして、帰ることができるんッスか!?」
抱えられていることも忘れて瞠目する雪葉の反対側にて、奈津が可哀想なほど青白い顔で縋るみたく世良を見上げて、今にも泣き出しそうな祈るような必死な声で同意を求める。残念ながら奈津の希望は叶わない。この姿を奈津に見せる為、わざと到着を待っていたのだろうか。世良は雪葉と奈津を下ろし、涼を見つめて口を開く。
「呪った犯人であるお前と一緒に飛ばねぇと帰れねぇよ。普通に下の地面に全身を叩きつけられて即死か大怪我だ」
「そんな……―――」
「落ち着け、綱田。って、世良!?」
奈津が有識者からの冷酷無慈悲な正論に絶望する中、不意に真っ直ぐ柵に向かって駆けだす世良。かと思えば、動転した雪葉の焦った声音の叫喚を無視して、背中から落ちる寸前だった涼の右腕を掴んで方向転換をし、奈津の方に瞼を閉じたままの彼女を勢いよく投げ飛ばした。
「おい後輩、此奴から抱きつくのは違反じゃねぇんだろ!? 受け取れ!」
「えっ、わっ、わわっ!?」
興奮して我を忘れた猪みたく突進してきた涼に少し躊躇した後、世良の説得に納得した奈津は背中を打ち付けながらも受け止める。それと同時に、勢いを殺しきれなかった世良が、強かに身体をフェンスにぶつけた。柵を吹っ飛ばしそうな強さで叩きつけられた世良が、朽ちた囲いと共に落ちるかもしれないと、背筋を凍り付かせる錯覚を起こすほどの激しさに顔を歪める。
「ぐっ」
「世良!」
「騒ぐな、触るな。たいしたことねぇよ」
「よかった、心臓に悪いから無茶すんな」
雪葉が猪突猛進に駆け寄り詰まった息を整える世良の背を摩ると、掠れた声と共に厭わしそうに振り払われて強張った肩の力を緩めた。緊張から解き放たれた緩みきった顔で説得された世良には、居心地悪そうな仏頂面を背けられる。機嫌を損ねたというよりは、気遣われて照れているように見えた。言ったら殴られるから言わないが。
すると、奈津に脱力した身体を預けていた涼が、視界の端でゆっくりと細い体躯を起こして笑った。操られる前に見ていた明るく朗らかな笑顔ではない。背筋を凍り付かせるような冷たく不気味な類の嘲笑だ。小首を傾けながら薄気味悪く邪悪な笑みを添えて、雪葉と世良の方へと光を失って闇一色に染まりきった凍てつく顔を向ける。
「意識を飛ばせば涼ちゃんの催眠が解けるってよく気付いたな」
「黒猫先輩、気がついたんスね!」
「折角、涼ちゃんの力を勝手に用いて此処の異界を創ったこの男を絶望させて、二度と引き剥がせないようにしようと思ったのに、とんだ邪魔が入ったもんだ」
「く、黒猫先輩……?」
長時間、悪霊に取り憑かれた咲の時みたく涼と同じ口調なのに、涙目で喜ぶ奈津を覗き込む瞳は冷徹で負の感情しか宿っていない。絶対零度の敵意だけ含まれた冷色の双眸と、ゾッとするほど綺麗な冷笑で気付いたか、奈津が困惑気味に名前を呼ぶ。禍々しい雰囲気を背負った好きな相手の氷の微笑で、身体どころか思考も凍り付かされたようで離れる気配の後輩に、雪葉は切羽詰まった声色で捲し立てた。
「綱田離れろ! そいつは涼じゃなくて取り憑いた悪霊だ!」
「で、でも、僕が身体を差し出して、黒猫先輩を返してもらえるなら――」
どうやら涼を助ける為、悪霊に身を捧げようか逡巡し、彼女から離れようとしなかったらしい。恋は盲目という諺通り、取り憑かれた後のことなど考えず、大切な先輩を助けることだけしか頭にないようだ。このままだと、本当に悪霊に取り憑かれそうな危機感に襲われ、雪葉は世良から離れて彼の元に駆け出す。
否、駆け出そうとした途端、誰かに腕を掴まれてフェンスの前に引き戻された。咄嗟にバランスを取れず尻餅を突いたと同時、何度か体験した暴風が屋上だけに吹き荒れる。そして、台風や嵐を彷彿とさせる大風を真正面から受け、地に足をつけて耐えきれず屋上のドアの方へと飛ばされた涼と奈津を引き離した。
「貴方が取り憑かれると涼さんは二度と此処から出られなくなります。涼さんを現世に帰してあげる為に、悪霊と取引なんてしないで下さい」
大風を巻き起こした巨大扇子を片付け、世那が揺らいでいた奈津を説得する。不意に抗えない強さで吹き飛ばされて強かに打ち付けた奈津は、雰囲気を変えた世那に不思議そうな顔をしていた。軽傷に見えるが、眼鏡のレンズにヒビが入っている。
心身共に悪霊のものになるよりマシとはいえ、割と財布の中身をごっそり持っていく為、やはり弁償するべきだろう。巴江家の財産なら余裕だと思いつつ、世那だけの所為にしたくない雪葉も、役に立てなかったし半分ぐらいは支払おうと決めた。
「にゃっはっは、取引せずに帰すわけないだろ。随分と嘗められたものだ、な!」
「雪葉君、避けて下さい!」
「うおおっ、何だこれ!?」
茶目っ気溢れる本物同等な涼の声を耳に捉えたと同時、雪葉の足下から身の丈程の細く黒い針が飛び出してきた。切羽詰まった世那に押し飛ばされて回避し雪葉は、先程まで居た場所から伸びる禍々しい茨に生えた棘みたいな鋭さに戦く。黒い刃物は有刺鉄線を巻いたみたく表面全て刺々しく、先端も一撃で殺されそうなほど鋭い。
「ふっふーん、凄いか? どこからだって生やせちゃうから気をつけるんだぞ!」
勝ち誇った表情で口の端を吊り上げた涼の忠告の後、細長く黒い針が全員の足下から一斉に飛び出してくる。間一髪、飛び退いたお陰でパーカーが僅かに犠牲になるも、何とか避けることに成功した雪葉。しかし、それと裏腹に戦いに不慣れな奈津は、右上腕部の皮膚を服ごと切り裂かれて出血している。
何の代償もなく回避した世那が奈津に駆け寄り、苦しそうに眉間に皺を寄せて蹲る彼に壺を被せた。雪葉も持ち歩いている救急セットを持って二人の元に行くと、強張った身体が少しずつ脱力している奈津の怪我を治療する。壺を頭から離した世那は額に脂汗を滲ませた奈津の顔に目線を走らせて口を開いた。
「雪葉君に綱田君、あまり攻撃を受けないようにして下さい。あの針は悪霊の身体の一部なので少しずつ魂が汚染されます。何度も触れた暁には魂を悪霊に取り込まれ手しまうでしょう」
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