第27話 綱田奈津
屋根から屋根へと飛び移りながら軽やかに世那の部屋へと向かわれ、異界に行く前にドッと押し寄せてきた疲労感で気息奄々な状態になる。しかし、門の先に広がっていた異界の図書室でグッタリとしていると、四つん這いで荒い息を吐いていた雪葉の尻が世良に容赦なく蹴られた。前方に軽く吹っ飛んだ雪葉が顔面を床に打ち付けた痛みに悶える最中、世良の茶色い厚底の革靴で背中を踏まれ不機嫌そうな声をかけられる。別に重くはないが、踵部分が背中のツボにめり込んでいて何気に痛い。
「おい、仕事前にへばってんじゃねぇぞ。お前は食い物にも狙われるんだ、さっさと立って着いて来い」
「は、初めて屋根の上を駆け抜ける体験をした割に、元気な方だと自画自賛できる」
「あんなの此処での出来事に比べりゃ月とすっぽんだろうが、情けねぇな」
謎の自信を満ち溢れさせて得意満面に胸を張った雪葉に、世良は馬鹿にしたような淡黄檗の視線を突き刺して呆れる。不安定な屋根の上を横抱きされたまま走られ、以上な跳躍力で屋根から屋根へと移動され、何度も背が凍りつき口から魂を吐きそうになった。それが普通の感覚なのに罵られ、精神的苦痛を受けた雪葉は涙目で吠える。
「うるせぇ! 至って平凡な男子高校生の臆病さを嘗めるなよ!?」
「騒がしい奴だな。着いて来ねぇなら置いて行くぞ」
「調子に乗ってすみませんでした! 回復するまでもう少し側に居て下さい!」
鬱陶しそうに眉間を寄せた世良がクルリと背を向けて歩き出し、プライドも怒りも放り投げて彼女の足にしがみつき懇願する雪葉。世良と逸れてしまった暁には、無数の食べ物に黄泉戸喫をさせられそうになり、悪霊と対峙しても戦う手段などないに等しく、門を開いてもらえない為、脱出もできない。世良が嘆息して止まってくれた。
本棚の正面に並んだソファーに腰掛けて足を組み、うつ伏せに倒れた雪葉をジトッとした目で見下ろす。早く復活しろと言わんばかりの眼差しが居心地悪く、身体を起こして床に座り込みズラリと並ぶ本棚を見回した。小学生の身長に合わせて低い本棚に鎮座している本は、高校のものと違ってひらがなやカタカナの題名ばかりである。
すると、慎重にゆっくりと開いた図書室の扉から、涼と黒フレームの眼鏡をかけた少年が顔を覗かせた。空色の髪と瞳を持つ少年の名前は
「おや、何だか聞き覚えのある声が情けなく媚びていると思ったら、はすにゃんとともにゃんだったんだな。今回の呪いの被害者は随分と大人数じゃないか。噂では一人だけのはずだが?」
「一つ、私達は被害者を助ける側だ、呪われてねぇ。二つ、お前の側に居る男が、今回の犯人だ。三つ、私の名前は巴江世良、お前の知ってる世那じゃねぇ」
「う、えっ? ちょ、ちょっと待ってくれたまえ。一気に理解するには、情報量が多すぎるだろう!?」
見知った顔を見つけたからか愁眉を開いて扉を閉めた涼だったが、ソファーに腰掛けたまま指折り数えて説明した世良の言葉に戸惑う。あれ以上、詳しく話すつもりなどないらしく、世良は立ち上がって近くの本棚を漁り始めた。情報の過剰摂取で苗色の瞳をグルグルさせている涼に、チラチラと縋るような眼差しを送られるも、雪葉もあまり分かっていない故、教えられることはほとんどない。
しかし、涼は七瀬高校二学年の成績発表において、毎回、一位を掻っ攫う実力の持ち主である。「むむむ……」と唸りながら瞼を閉じて両腕を組み、聡明な頭脳を回転させて無事に理解を追い着かせることに成功したらしい。そして、悲しそうに眉を八の字に垂らして傷付いた表情を作り、奈津に恐る恐る問う。
「……――涼ちゃんを呪ったのは、本当につなにゃんなのか?」
「せ、先輩を呪うつもりはなかったんス! ただ、今回の期末テストも学年二位だった焦りから、母さんが勉強中に持ってきてくれたドーナツを食べながら、学年一位を取るまで付き合ってくれない先輩に苛立って、女々しく愚痴ってしまったんス」
「……そうだったのか。すまない、君はこんなにも真剣に好いてくれているのに、つまらない条件を決めて返事を言う機会を先延ばしにするなど呪われて当然だな」
もげそうな勢いで被りを振って焦燥に駆られながら釈明する奈津だったが、涼は自罰的な色を宿した仄淡い焔の如く儚げな哀愁漂う苗色の双眸を眇めた。胸中で軋み回る焦燥感に背中を押されたみたく慌てふためき、奈津が頭に銃を突きつけられたみたく彼女を励ます。何だか下手を打つと、涼よりも奈津が泣き出してしまいそうだ。
「そ、そんな! 黒猫先輩は何も悪くないッス! 先輩のことが大好きなのに、一階も一位を取ることが出来ない僕が悪いんス!」
「だが……ッ」
「そうだな、二人とも悪くない。悪いのは呪いを広めた奴だ。こんな陰気臭い場所で仲直りするより、現実で話し合った方がいいだろ。さっさと此処から出ようぜ」
お互いに自分を責め合って苦悩する涼と奈津に明るく声をかけ、雪葉は活力を溢れさせた満面に爽やかな笑みを浮かべて中断する。何度も異界に来ていることによる余裕が満ちた笑顔に、色々な情報に圧倒されて少し情緒不安定だった涼が、面食らった表情で苗色の瞳を何度か瞬かせて首を傾けた。
「出られるのか?」
「ああ、犯人と共に屋上から飛び降りりゃ、被害者もこの異界から現実に戻れる」
奈津と涼の喧嘩の間、つまらなさそうに本を見ていた世良が、読んでいる途中だった分厚い図鑑を持ったまま会話に参加する。図鑑の表紙に猫の写真が印刷されていた。結衣と一緒に読んでいたようだが、世良は猫派なのだろうかと興味を惹かれる。
涼やかな淡黄檗の瞳を伏せて図鑑を捲る世良の好物を知る好機に、胸を昂ぶらせながら窺うような眼差しを突き刺して観察をする雪葉。何故だろうか、今まで知り得なかった世良の情報の露呈は、前人未踏の銀世界に足跡をつけたみたくわくわくする。
「涼ちゃんを助けに来たと言ったかと思えば、呪いやこの空間にやたら詳しいときたもんだ。はすにゃん達は一体何者なんだい?」
「七瀬高校に通う普通の高校生に決まってるだろ」
「ふふっ、誰しも暴かれたくない秘密はあるものだ。そういうことにしておこう」
世良に鳩尾を蹴られて観察を強制終了させられたところで、眉尻を下げた涼が晴れ晴れとした面持ちで元気を取り戻した。茶目っ気を宿して冗談っぽく問いかけてきたものの、雪葉がニカッと口角を上げて誤魔化すと楽しそうに話を切り上げてくれる。図鑑を律儀に元の本棚へと戻しに行った世良が、扉の方へと向かって足を動かす。
置いて行かれないよう慌てて着いて行った雪葉だったが、世良によって扉が開いた瞬間、廊下に詰まっていた大量のドーナツが傾れ込んできた。どうやら、ドーナツ達を一掃する為に、敢えて入り口を解放したらしい。自我を持つ食べ物に襲われるなどという初めての経験に、涼が大きく目を見開いて泡を食ったような声で叫喚する。
「うにゃっ!? ドーナツがたくさん涼ちゃん達に襲いかかってきたぞ!」
「食ったら此処から出られなくなるぞ、気をつけろ!」
「ええっ、ドーナツが敵なんて鬼過ぎるのだよぉ」
召喚した大鎌を周囲に遠慮なく横に薙ぎ払った世良の忠告に、大袈裟なほど絶望感を醸し出しながら焦りを顕にして戸惑う涼。幼少期から両親や商店街の人達に止められなければ、三食ドーナツ生活を続けようとする彼女には酷な状況なのだろう。雪葉も黄泉戸喫だと知らなければ、肉まんを全て胃袋で処理するか悩んでいたぐらいだ。
「黒猫先輩は僕の後ろに隠れて目を閉じるッス!」
「そ、そうだな。視界に入れていると、うっかり食べてしまいそうだ」
「黒猫先輩にはデコレーション一粒も触れさせないッスよ!」
涙目の涼をドーナツから守るべく彼女の眼前で仁王立ちした奈津は、「あうう……」と珍しく不安と焦燥に襲われている好きな先輩を庇い、被害者と雪葉を集中攻撃する敵の群れへと人差し指を向け啖呵を切る。しかし、世良みたいな異空間送りにする武器も、雪葉のように守護霊も憑いていない奈津が敵うはずなく、あっさりと大量のドーナツに囲まれて真ん中の輪に押し込まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます