第18話 佐倉咲Ⅲ

 どういう意味なのか聞くのも憚られ、雪葉が凍り付いた思考で悶々としていると、三階から複数の騒々しい足音が聞こえてきた。下着をしまった世那と顔を見合わせ、急いで階段を駆け上がると、次いで女性特有の高い悲鳴も耳に飛び込んでくる。轟く騒がしい音の方に走る二人の視界に、北館から昇降口を駆けてくる人物が映った。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁーーッ!」


 甲高い悲鳴と共に近付いてきた女の子は、前回、雲里に頼まれて呪いを行使した佐倉咲。目ん玉が飛び出しそうなほど驚く雪葉を見つけると、藁にも縋るような潤んだ瞳で胸板に飛び込んでくる。涙目の彼女を咄嗟に両腕で受け止めた瞬間、聞き慣れたローファーの足音を拾った雪葉の目が、顎までの黒髪を揺らした女の子を捉えた。


「でぇぇぇぇぇぇぇぇーーッ!?」


「今回の犯人は十つ子だったんですね」


「それは違うと思う!」


 それに続いて、黒髪女子と全く同じ容姿をした女の子が十人も登場し、とぼける世那にツッコミながら南館の方に引き返す。すると、人間の大量発生に驚いて騒ぎ過ぎたらしく、南館三階からチョコレートが流れ込んできた。南館の三階と昇降口、北館の三階という広範囲故、二階より茶色の液体が浅くなっている。


「挟み撃ちは聞いてない!」


 前門の虎、後門の狼に叫喚しながら、昇降口の真ん中付近で立ち止まる雪葉。苦衷を抱えている間にどんどん距離を詰められ、覚悟を決めてチョコレートに掌を翳す。南館三階にある教室は二学年分。恐らく、結衣に頼んで全ての魂を取り込めば、雪葉自信が食べ物になるだろう。だが、掃除機もない今、このままだと全滅してしまう。


「うおっ!?」


「きゃっ!?」


 あと少しで雪葉の手にチョコレートが触れる。そんな矢先、突然、世那が雪葉と咲を両脇に抱え、廊下を蹴って跳躍し天井を走り抜ける。何が起こっているのか分からず唖然としている間に、廊下に着地した幼馴染はコンピューター室に飛び込んだ。

 侵入される前に扉を乱暴に閉めて、窓の外から様子を窺っている。昇降口を流れるチョコレートの波に呑まれたのか、暫く息を潜めていても複数の女子は襲ってこない。ようやく理解した雪葉は、仄かに畏怖の感情を抱きつつ慄然と疑問を述べる。


「せ、世那……今、天井を走らなかったか?」


「おい、お前。かっこつけて世那を守るって言ったよな?」


「うえっ、世良!?」


 その瞬間、容赦なく胸倉を掴まれたかと思えば、怯んで強張った体躯を壁に押しつけられた挙げ句、鋭い睥睨と共に低く怒気を孕む声で聞き返された。それにより、ハチャメチャな逃走手段を選んだのは世良だと察知し、気を動転させる。同時に、芳しくない戦歴しか持たないことに後ろめたさを感じて、二の句を継げなくなった。


「次、同じような展開に陥ったら、誰か分からなくなるぐらい顔面を凹ませるぞ」


「はい。その節は大変申し訳ございませんでした」


 危害を加える意志を見せる世良に強かに牽制されて、心胆を寒からしめながらも、即刻、謝罪を述べる雪葉。「どちら様ですの?」と満面に書かれた咲に、今は世良だと説明すべきだがそれどころじゃない。主人の心情を察したか、結衣が戸惑う咲の視界を手で塞ぐ。半透明の身体故、隠せているかは分からないが。

 心臓を鷲掴みにされているような恐怖に包まれつつ、誠心誠意、謝ったからか、世良が溜息を吐いて服から手を離して雪葉を解放し、淡黄檗の瞳を瞼の奥に隠す。竦んでいた身を脱力させて、雪葉は床に座り込んだまま安堵する。


「……やはり、僕は巴江家失格です。悪霊の浄化で霊力を消費している世良に、また迷惑を掛けてしまいました。パンツまで脱いで戦う準備をしたのに」


「世那が失格な訳ないだろ? 足手纏いの俺が我儘を言って着いて来てるから、本来の実力を発揮できてないだけだって。あと、パンツは隠そうか」


「ですが……」


 ブレザーのポケットから霊力を込めた下着を出し、泡沫のような儚い表情で皮肉な笑みを浮かべる世那に、呆れ顔で励まして視線を逸らす雪葉。信頼されているのは有難いが、女子の下着に慣れていない男子高校生には刺激が強い。それでも、青菜に塩を振ったみたく消沈したままの世那に、幼馴染を馬鹿にされ堪忍袋の緒が切れた。

 結衣の力を過度に使うこともできず、何故か呪われていないのに敵に狙われ、なのに霊力も能力もない雪葉より、断然、役に立っているのに自虐が多すぎる。副人格の世良が優秀すぎて自信を持てないのだろうか。雪葉からすればどちらも十分凄い。故に、世那自身だとしても、頑張っている幼馴染を卑下されることに怒りを覚える。


「これ以上、俺の大切な幼馴染を貶すな!」


「――……は、はい」


 怒鳴られてビクッと肩を跳ねさせた世那は、ご立腹な雪葉に暫し面食らっていたが、泣き出しそうな表情でおずおずと首を縦に振った。女の子を涙目にしてしまった焦りで怒りを消した雪葉は、如何に世那を大切二思っているかや、自分自身をあまり嘲笑してほしくなことを、慌てふためきながら身振り手振り伝える。

 意外にも結衣も同じ気持ちだったらしく、女子を泣かせた雪葉を責めずに静観していた。「すみません、分かっていますよ」と涙を拭った世那が、風で靡く桜みたく淡い笑みを咲かせたところで、咲に申し訳なさそうに声をかけられる。


「あの、もう宜しいでしょうか?」


「はい、弱気なところをお見せしてすみませんでした」


「構いませんわ。こんな意味の分からない場所に初めて来たんですもの、怖くて泣いてしまうのも当然ですわよ」


 雲里を呪った際、記憶に鍵をかけられた咲は、困り顔に弱々しい笑みを刷り世那を宥めていた。こんな薄気味悪い夕方の小学校で、あんな何人もの同じ人間に追われていれば、精神が磨り減り弱るのも当然だ。複数の同一人物に襲われたり、世良と会えていなかった場合、雪葉も流石にあそこまで元気に異界を彷徨っていないだろう。

 胸中で助けてくれた世良への感謝を吐露した後、「そういえば、佐倉先輩は此処に来るのは二回目だが、今回も記憶に鍵を掛けられるのだろうか?」と、ふと脳裏に過った疑問に悩んでいると、咲がニコリと愛想良く口元を綻ばせて自己紹介をした。


「私は七瀬高等学校三年の佐倉咲。突然、此処に連れて来られて、大量の白石様に追い掛けられていますの」


「俺は七瀬高等学校二年の蓮見雪葉、こっちはクラスメイトの巴江世那で、こっちが守護霊の夜咲結衣です。先輩、あの女子高生は知り合いなんですか?」


「ええ、同じクラスで白石しらいし杏子あんずという名前ですの。最近は避けられてますけれど、私はまだお友達だと思っておりますわ」


「呪われる原因に心当たりはありますか?」


 代表として全員分の名前を紹介した雪葉は、咲の言い方に引っかかりを覚えて、先程の大量発生した女子について聞く。それに頷いてシャボン玉の如く儚く微笑み、希望を宿した桜色の瞳を伏せた彼女に、世那が凜然とした表情で本題を告げた。


「分かりませんわ。突然、嫌われてしまいましたの」


「井上先輩と何かあったとかはないんですか? それで、幼馴染の佐倉先輩に手を出したとか……」


「いえ、彼は手当たり次第に女の子を口説いておりますが、白石様に声をかけたことは一度もありませんでしたわ」


 うつむいたまま悄然としていた咲が、雪葉の疑点に首を横に振って否定する。誰から漏れ聞いたのか知らないが、その話だけを頼りに世良を口説こうとした雲里が、全く手を出していないという情報に面食らう雪葉と世那。確かに世良と世那は、クラスで高嶺の花扱いをされる美少女だが、先程の女子も端整な顔立ちをしていた。


『さっきの女子は好みじゃなかったってこと?』


「どうなんでしょう。そういえば、井上様の女性の好みなんて、聞いたこともありませんわね」


 言葉を失う二人の代わりに結衣が狙わない根拠を推測すると、考えたこともなかったらしく不思議そうな表情で首を傾げる咲。あんなに大切にされているのに、雲里に好かれていると気付いていないのだろうか。傍から見ても甘々だった二人を思いだし、雪葉と世那と結衣は顔を見合わせる。そして、無言で頷き、本音を暴露した。


「好みの女性は佐倉先輩だと思います」


「無差別に堕としていようとも、理想の恋人候補は先輩でしょう」


『貴女以外、考えられない』


 曇なき眼で真っ直ぐに咲を見つめ、特別な存在であるとハッキリと告げる。少なくとも、咲は確実に雲里に恋心を抱いていたし、雲里も彼女をファンの一人みたく言っていた割に、他の子達と違う扱いをしていたように見えた。ということで、三人は目線だけで話し合いをして、彼女の背中を押すことに決めたのだ。


「――……へっ?」


 何を言われたのか理解できていないのか、咲は暫くキョトンとして桜色の双眸を瞬いていた。が、少しの間、森閑とした校舎内で考える時間を与えると、理解したのかボッと満面に赤い薔薇を咲き渡らせ、さっきの雪葉みたいに間抜けな声を漏らした。

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