第17話 巴江世那Ⅲ
部室で世那と世良、家で結衣にチョコレートを貰い、幸せに満ち満ちていた気持ちを一瞬で覆された雪葉は、見慣れた夕方の小学校の廊下に半眼で突っ立っていた。バレンタインデーだというのに、誰かが誰かを呪ったのだ。呪いの発動を見越していたらしい世那が、ポーチから出した掃除機片手にポツリと呟く。
「やはり、被害者が出てしまいましたね」
「まぁ、幸せと不幸は表裏一体だからな」
『なるほど。女の子に好かれることもなく、友達も居ない奴の僻みが原因ということか』
あの恋色に溢れていた空間の裏側で、バレンタインデーにドン底に堕とそうと、呪いの準備をしていた人が居た。そんな人間の濃い闇を垣間見てげんなりする雪葉。呆れたような結衣の酷なトドメを聞いたら、完全に闇落ちしてしまいそうな勢いだ。
世那と幼馴染じゃなければ、女友達も恋人も居ない雪葉でも、十二分に有り得た未来に、背筋を凍り付かせゾッとした。顔を引き攣らせてチョコレートを貰えたことに胸を撫で下ろしていると、世那が意味深長な険しい表情で顎に手を当てて考える。
「ですが、呪いの成功率が少し高くなっている気がします。いくら呪い方が爆速で流行っているとはいえ、呪いたい相手に対する強い憎悪が必要なので、実際に成功する確率はかなり低いはずなんです」
「そういや、佐倉先輩もあんなに相思相愛だったのに、呪うのに成功してたよな」
疑懼の念を抱く世那の不審点を聞いた雪葉も、不正の臭いを感じ取り心に引っかかりを覚えた。異界での二人の絡みや廊下で見た光景を鑑みて、頼まれたとしても咲が雲里を恨むなど不可能に近いはずだ。だというのに、雲里は世良を追い掛けて異界を訪問し、咲も犯人として待ち合わせ場所で彼を待っていた。
「どういうわけか、少しの憎悪もない相手ですら、好物さえ把握すれば呪える環境になっています。このままでは、非常に不味いです」
世那が渋面に滲んだ警戒の色を強める。刹那、現在地である二階の奥に佇む図書室の扉から、豪雨の際、道路を勢いよく流れる雨水の如き速さで、甘い香りを纏う茶色の液体が大量に押し寄せてきた。鼻腔を擽る芳醇な匂いで液体の正体を把握する。
「今回の被害者の方は、チョコレートがお好きなようですね」
「なんで湯煎した後の状態!? せめて冷やして固めてから出て来いよ!」
激しく打ち寄せる荒波のようなチョコレートに呑まれ、勢いに踏ん張りきれず尻餅を突いて流される世那と雪葉。階段の踊り場に押し潰されながら騒ぐ雪葉の指摘通り、チョコレートはよく見る固形状ではなく溶かされた状態だった。お湯を入れたボウルに浮かべて湯煎した直後なのか、今回の敵も火傷しそうなほど熱々だ。
「もう何回も言ってる気がするけどあっちいんだって! 熱々じゃないと襲ってはいけないルールでもあんのかよ!?」
「雪葉君、あまりツッコミばかりして口を開けていると、チョコレートが体内に入ってしまいますよ」
「分かってるけどツッコまずにいられねぇ!」
壁に背を預けて掃除機の先端を廊下に向ける世那に倣い、圧倒的に彼女よりも多い量の甘味に埋もれつつ、相手の策略に歯噛みして雪葉も何とか道具を起動する。ヘッドをチョコレートに突っ込むと、壊れる前兆みたいな音を立てながら吸い始めた。
二人がかりの掃除機に吸い込まれて、徐々に量を減らしていくチョコレート。しかし、液体の過剰摂取により容量を超えたのか、掃除機が変な音を立てて壊れてしまった。隣の世那も瞠目していた為、霊力が尽きて壊れたわけではないらしい。
かさを減らしたことで圧迫感から解放された故、雪葉が世那を横抱きし三階に続く階段に逃げた後。眼下の廊下を埋め尽くす茶色の液体を見ていた世那が、自信なさげに眉尻を下げてしょんぼりとした声色で自虐する。
「やはり、こういった探索パートは、世良の方が圧倒的に適任ですね」
「掃除機と液体の相性が悪すぎただけだろ。そんなに落ち込むなよ」
「ですが、掃除機が使えなくなったので、次に襲われた際、抵抗する手段がありません」
元気づけても淡黄檗の瞳を伏せた世那の顔色は晴れない。彼女から罪悪感を払拭する為、雪葉は掃除機を用いない対策を思案する。チョコレートの川と化した二階の廊下を見下ろすも、食欲をそそる甘い液体は階段を浸食してくる気配を見せない。
最大力で吸っても吸っても少しずつしか減らせなかったのは、図書室だけでなく二階の全ての教室から溢れていたからだろう。この階にあるのは、図書室から階段までの間に、自習室、四年生、三年生の教室だ。が、チョコレートは今までの敵と違い、自ら口の中に飛び込んできたりしない。特に抵抗力がなくても問題なさそうだ。
「まぁ、逃げ回るのにも慣れてきたし、今回の敵は食べさせようとしてこないし、攻撃手段がなくても大丈夫だろ」
「――そうですね。僕も狙われないのを利用して、雪葉君のサポートをします。気休めかもしれませんが、これで口を塞いでください」
楽観的な雪葉の慰撫で冷静を取り戻せたのか、同様の考えに至った世那が不思議なポーチから何かを取り出す。受け取った雪葉の視界に映った道具は、生後数ヶ月の赤子に用いるおしゃぶり。真っ白な表情でそれを凝視し、雪葉は世那に尋ねる。
「……何これ?」
「黄泉戸喫を防ぐ目的で造られたおしゃぶりです。咥えると口に迫る悪意ある攻撃を防ぐことができます」
「……もうちょっとデザインどうにかならなかった?」
心強い性能を持っているが、男子高校生には不釣り合いだ。口に入れるのに躊躇しない同級生が居るのであれば見てみたい。それでも、黄泉戸喫し易い湯煎されたチョコから、口だけでも守っておきたいのも事実。
「祖母が生まれて間もない僕をあやしながら造ったそうなので、口を塞ぐ道具を考えた際、真っ先にそれが浮かんだのでしょう」
「そっかぁ」
葛藤中の雪葉に憐憫の眼差しを送りながら、申し訳なさそうな笑みで制作過程を答える世那。雪葉は深く溜息を吐いて、ガックリと頭を下に垂れる。そんな心温まる家族愛溢れる事情を聞かされて、尚も文句を言えるほど皮の面は厚くない。
世那は一人っ子故、祖母にとって初孫だったのだろう。久々の子育てで疲弊して正常な思考をしてなかったか、孫の可愛さに夢中で上の空で製造したのかもしれない。そもそも、守られる立場で迷うのも失礼だ。ようやく意を決しておしゃぶりを咥えようとした雪葉は、視界の端で唐突に映った下着を脱ぐ世那に驚いて咽せる。
「ぶふっ!? ゲホッ、ゴホッ」
「雪葉くん、大丈夫ですか?」
「何で急にパンツ脱いでんだよ!? ていうか、隠せ! 堂々と手に持つな!」
「掃除機の代わりとしては少し役不足ですが、僕の下着に霊力を込めて敵を吸収しましょう。一番長く身に着けている物の方が効果的なんです」
ゴムの部分に黒いフリルを付けた同色の下着を手に寄って来る世那が、咄嗟に背を向けて熱くなった顔を両手で隠して恥じらう雪葉に釈明した。脱いだ理由は理解したが、プリーツスカートの中に何も履いていないことに、動揺と羞恥を抑えきれず頭を抱える雪葉。意外と大人びた下着の幼馴染に、少しときめいた自分に嫌悪感を抱く。
「……――世那、いくら気の置けない幼馴染だからって、異性の前で下着を脱いで見せるのはやめた方が良いぞ」
「ご忠告有難う御座います。ですが、ご安心ください。僕がこんなことをするのは、雪葉くんの前だけです」
「なら、いいけどよ……――――は?」
脳漿にくっきり刻まれた下着を記憶の片隅に追いやり、後ろを向いて目を隠したまま忠告した雪葉は、呆気らかんな世那の答えに納得しかけた後、思考を停止させた。
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