第15話 佐倉咲Ⅱ

 出来ることなら二度と見たくなかった黒い靄の登場に、雪葉は軽く身を引いて苦々しい笑みを口元に浮かべる。雲里の身体は既に太股まで闇に沈んでいた。それに、偽物でなく悪霊に乗っ取られた咲の場合、彼女も雲里と共に確実に命を落とす。そもそも、二人とも悪霊と接近しすぎているが、心身への影響はないのだろうか。


「僕を騙せるようになるほどの時間、身体を奪われている佐倉先輩も危険ですが、そんな悪霊に引き摺り込まれている井上先輩の魂も危険ですね」


「また、二手に分かれるしかないな。以前、ハリセンだけで魂を全部持っていかれそうになったし、引き剥がすのと成仏は世那に任せても良いか?」


「……はい。また苦しい思いをさせることになってしまいすみません」


 以心伝心、幼馴染の絆で伝わったらしい世那が、雪葉の作戦に頷いて慚愧に堪えない様子で詫びる。自責の念に駆られて良心を痛めながら、ポーチから取り出した扇子を雪葉に渡した。受け取った雪葉はわざとらしく呆れたように溜息を吐くと、晴れない表情で申し訳なさそうにする世那の頭を撫でた。


「謝る必要なんてねぇよ。俺は世那の負担を少しでも軽くしたくて、毎回、此処に着いて来てるって、前にも言っただろ?」


『また雪葉の魂を奪い返して私の魂で補う。心配しないで』


 結衣からも心強い慰めを受けて小さく首を縦に振った世那は、大きくなった扇子の使い方を軽く説明してから悪霊と向き直る。雪葉も両手で持たなければよろめくほど、重くて巨大な扇子を開いて悪霊の左側に駆けた。一定距離、離れた真横に立ち、高く上げた両腕を大きく振り下ろす。

 瞬間、音楽室の備品を倒しながら強風が吹き荒れる。同時に、雪葉の身体から力が一気に抜けていき、ガクリと膝から崩れ落ちた。この魂を根刮ぎ持っていかれる感覚は確かに苦しいが、世那に危ないことを全てを任せる方が心苦しくて嫌だ。故に、役割分担を提案したことに後悔はない。


 左横から強風を直に浴びた悪霊の靄が消し飛び、咲と雲里を強制的に引き離す。そのまま風圧で壁に押しつけられた雲里は、微かに唸り声を漏らして激痛に顔を歪めていた。それを見届けた後、不意な暴風で近郊を崩して尻餅を突いた咲に突っ込み、世那が大きく変化した壺を頭にスッポリ被せる。

 引き剥がすのに成功して愁眉を開く雪葉だったが、いつまで経っても壺から眩い光も放たれないうえ、悪霊の黒い靄から咲が弾き出されてこない。嫌な予感に脳漿を支配され、緩めたばかりの緊張感を再び強いられる。だが、結衣に補ってもらったといえど動けない雪葉はどうすることもできない。


「あぐっ、うあああっ!」


 違和感を抱いて警戒していた雪葉の視界で、世那が咲に片手で勢いよく投げ飛ばされた。屋上から物を落としたみたいな轟音を立てて、骨折しそうな強さで背中を強打する世那。聞いたこともない出来れば聞きたくなかった悲鳴に、雪葉は駆け出したいのに動けない焦れったさで舌を打つ。悪霊に取り憑かれたままの咲を睨んだ。


「くそっ! 何で壺を使ったのに、悪霊に取り憑かれたままなんだ!」


「ん、ぐぅ。けほっ、けほっ。この道具でも引き剥がせないということは、佐倉先輩の魂と身体は既に完全に乗っ取られてしまっています」


「……ッ、咲! おい、聞こえてるだろ!? 目を覚ませ!」


「無駄ですわ、もうこの身体は私のものですの。そして、あなた方も私に取り込まれて、更なる力の強化の為の礎となっていただきますわ」


 息を整えた世那の掠れた声で紡がれた回答を聞き、腹の底から声を振り絞って必死に呼びかける雲里に、胸を昂ぶらせた咲が恍惚とした表情で優越感に浸る。慕わしい相手を腕の中に閉じ込めるみたく、自分の身体を自分の腕でそっと抱き締めていた。火と思えば、目を爛々と輝かせて好戦的な笑みを携え、靄で世那の足首を掴んだ。


「まずは、生意気にも私に挑んできた貴女からですわ!」


「うっ」


「世那、逃げろ!」


 壁際に倒れた世那の足首に絡みついた靄が、ズルズルとゆっくり引き寄せていく。仰向けでどんどん咲の方に引き摺られていくが、まだ力が入らない雪葉も心身を消耗した雲里も動けない。裂けそうなほど口角を上げた悪霊の眼前に連れて行かれた直後、世那の右手に見覚えのある大鎌が現れて咲の身体を斬り裂いた。


「なっ!? まさか、この生身の持ち主ごと攻撃するなんて……ッ」


「大鎌ってことは、世良!?」


 咲の身体を人質にされているような状況なうえ、ハリセンや壺以外の道具を扱えない世那では、本来ならば有り得ない反撃に悪霊も雪葉も面食らう。食べ物の時は一瞬で灰燼と帰していたが、強力な悪霊だからか徐々に透けていた。世良であろう幼馴染は仰向けに寝転んだまま妖しく双眸を眇め、勝ち誇った表情で悪霊の疑問に答えた。


「この鎌で生きてる奴は斬れねぇよ」


「あああああああああああああーーーーッッ!!」


 世良の煽りを合図に一気に、悪霊の身体が消えていく。音楽室に充満していた黒い靄が、換気扇をつけたみたく一気に綺麗になった。断末魔と共に刃に吸い込まれたことで、長時間、憑いていた悪霊を引き剥がせたらしく、桜色の瞳を瞼の奥に隠した咲がフラリと床に倒れる。

 痛みを無視してうつ伏せで咲の近くまで這う雲里に倣い、雪葉も覚束ない足取りで世良の側へと走って行った。世良は身体を伏した状態のまま、大鎌の刃をぼーっと見上げている。食べ物を消した時と違って何故か疲弊感を漂わせており、仄淡い焔のような儚さを纏っていた。


「世良、大丈夫か? それに、その鎌で悪霊を斬っちまったら、しばらく使えなくなるんじゃ……」


「ああ、怪我はねぇよ。ただ、悪霊を浄化するのに私の霊力が常に消費されてるから、あんまり身体に力が入らねぇんだ。悪いな、私は浄化が終わるまで役立たずだ」


「大丈夫だ。今度は、俺が世那と世良を守る」


 気怠そうに座り自嘲気味に困った顔で笑う世良を支え、雪葉は得意満面に胸を張って力強く口の端を吊り上げる。世那と世良を失いかけた恐怖で涙目の結衣も、世良の腰にくっついて額を擦り寄せていた。思いがけない励ましの言葉だったのか、世良が珍しく淡黄檗の瞳を何度かしばたいた。少しの間、無言で見つめ合っていると、半眼になった双眸を逸らした世良にボソッと痛い所を突かれる。


「……お前しか食い物に狙われねぇだろ」


「うっ」


「今回も怒濤の展開で碌に調査できてねぇが、被害者じゃねぇのに狙われてるのは確定だな」


 グサリと胸に刺さる指摘を受けて呻く雪葉を気にも留めず、慰めなのかトドメなのか分からないことを口にし、世良が揶揄を孕んだ視線を向けて楽しそうに相好を崩した。ほとんど愛想のない表情しか見せない彼女の悪戯っぽい破顔と、容赦なくハッキリとした口調の正論に胸を痛めつつ、雪葉はガックリと項垂れて嘆息する。


「俺はもっと凄いことを発見して世那と世良の役に立ちたいのに……」


「お前には無理だろ」


「今のは優しい言葉をかけてくれる展開じゃね?」


 落ち込む幼馴染に歯に衣を着せず辛辣な言葉で断言する世良に、そんな気はしていた為、苦笑を頬に含ませて眉を垂れ下げる雪葉。初めて会ってからずっとこんな調子で冷たくされるが、常に多忙な異界で世良に何かやらかした覚えがない。しょっちゅう敵に追い回されて、手を煩わせることになるからだろうか。

 「そういえば、名前すら呼ばれたことないな」と心中で世良との回想を辿っていると、少し身体に力が戻ってきたらしく雪葉から離れて床に座る世良。疲労感に包まれている時すら近付きたくないのかと、雪葉が脳裏に浮かんだ可能性にショックを受けていると、世那を彷彿とさせる温和な瞳の世良に微笑まれた。


「まっ、期待しないで見といてやるよ。雪葉」


「えっ、今……」


 初めて見る世良の砂糖菓子みたいな甘い破顔一笑と、初めて名前を呼ばれた衝撃で脳漿が凍り付き、真っ白な表情で世良の顔を凝視する。何を言われたのか理解が追い着いた途端、胸中からブワッと抑えきれない歓喜に包まれた。欣快のあまり緩みそうな口元を必死に引き締め、小躍りしたい衝動を耐える。


「――やっぱり呼びにくいな。これからも、名前は呼ばない方針でいくか」


「何だよ、呼びにくいって!? そこは今後も、名前で呼ぶところだろ!」


 そんな雪葉と裏腹に平静な顔でジーッと見ていたかと思えば、口に馴染まなかったらしい世良から名前呼びを撤回される雪葉。大袈裟なほど黒い瞳を大きく見開いて、先程までの喜びを一瞬で焦燥に変えて捲し立てる。身振り手振り説得した結果、気が向いたら呼んでくれることになった。

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