第5話 夜咲結衣
「茶番中に割り込んで悪いが、此処からは誰一人として出す気はない。お前達が次に別の景色を見るのは、魂を失った後だ」
白子が泣き疲れて眠った後、微笑ましい光景を壊す幼女の冷たい声。世那と揃って声の主に意識を戻すと、瑠璃色の髪を風に靡かせフェンスに腰掛けていた。あんなに隙だらけだったのに何も仕掛けてこなかったのは、手を出さなくとも目的を達成できるかららしい。雪葉は瞠目して特に異変のない自身の身体を観察する。
「えっ、嘘だろ? 俺、此処で肉まんに追われてる間、ずっと魂吸われてたのか?」
「今更、気付いたのか。少しずつしか奪えないが、お前達が迷い込んでから今に至るまで、確実に私の力に変えさせてもらっている。そこの淡黄檗の髪の女は、さっきまで全く干渉できなかったがな」
「ああ、それは世良が表に出ていたからでしょうね。世良はこういう空間とすこぶる相性が良いんですよ」
焦る雪葉を鼻で嗤った幼女に訝しげに睨めつけられた世那が、普段と変わらない落ち着いた表情で世良を褒めた。どうやら大鎌で肉まんを異空間に送り込めるだけでなく、黒幕らしき幼女の攻撃すら無効にできるようだ。「世良、だいぶチートだな」と胸中で軽く引きつつ、雪葉は心配と不安を滲ませた視線を世那に向ける。
「なら、世良のままで居た方がよかったんじゃ……」
「僕はこの空間の耐性がない代わりに、攻撃されると相手の深層心理を読むことができるので、成仏などを促すのは世良より得意なんです」
「なっ!?」
「今更、僕の魂を吸うのをやめても遅いですよ。
少し得意げに悪戯っぽく双眸を眇めた世那の能力を聞き、幼女が泡を食ったような声で驚嘆を漏らした。世那曰く魂の吸収を中断したらしいが、名前や本音を的確に読み取られ、悔しそうに歯を食いしばる。だが、すぐに自分の胸元の服を皺になるほど強く握り、瑠璃色の瞳を伏せた。そして、心に芽生えてしまった仄かな期待と、長年蓄積された悲しみや不安で表情を勢いよく上げ、怒りに塗れた表情で世那を睨む。
「だから何だ! お前が私とずっと共に居るとでも!? 出来もしない提案をして、余計な希望を抱かせるな!」
手負いの獣が最後の力を振り絞って威嚇しているような、見知らぬ場所で迷子になって泣いている子供のような、必死の形相で怒号を浴びせる結衣に雪葉の胸が痛くなる。まるで心が助けてくれと叫んでいるみたいだ。何とかしてやりたい衝動に背を押されて駆け寄ろうとすると、それよりも先に世那が結衣の方に歩いて行く。
ハッと我に返った雪葉は、情緒不安定な結衣に一人で近付く世那を、慌てて追いかけた。そして、腕を伸ばせば届く範囲で足を止め、瞳に慈しみを乗せて莞爾として笑う。そのまま、我が子を愛する母親を彷彿とさせる愛情溢れる優しい笑みに、目を丸くして戸惑う結衣へとそっと右手を差し出した。
「貴女を僕の守護霊にさせてください。そうすれば、ずっと一緒に居られます」
「……世那、そんなことができたのか」
「はい。僕は攻撃してきた相手の深層心理を読む能力と、霊を人間の魂に憑ける能力を持っています。ちなみに、世良は大鎌で斬ったものを異空間に送る能力が強力すぎるので、一つだけしか持っていません」
胸中から溢れる感心を抑えきれず、雪葉の口からポロリと溢れる声。どう考えても空気を読めておらず急いで両手を口元に当てるも、世那は丁寧な解説と共に世良の能力まで教えてくれた。この空間でずっと世良と白子に冷たくされていたからだろうか、久々に感じる温かさが物凄く身に染みる。世那が女神に見えてきた。
「――だが、人間の魂に憑けることができる霊の数は一体。お前は既に副人格が居る分、新しく霊を憑けるような余裕などないはずだ」
「任せてください。なんとしてでも、無理やり僕の魂に憑けてみせます」
世那から受けた友愛の温かさに感動している雪葉の傍らで、暗い顔をうつむかせた結衣が静かに残酷な現実を突きつける。そんな幼い少女を優しく下から覗き込んだ世那の、濁りのない強くはっきりとした宣言に胸元で組んだ両手をギュッと握った。小さな身体を微かに震わせ、恐る恐る右手を世那の方へと伸ばす。
が、あと少しで触れそうだという距離でピタリと止め、怯えたように勢いよく引っ込めてしまった。信じたいけど信じられないと幼い体躯で訴える結衣の心に、雪葉はもどかしさを感じて今すぐ抱き締めてやりたくなる。同じ衝動に駆られているだろうに、腕を伸ばした状態で辛抱強く待っている世那に、結衣が仄淡い焔のように揺れる瞳を向けた。そして、消え入りそうな弱々しく切ない声で問う。
「……――本当に、できるのか?」
「必ずやり遂げてみせます」
相も変わらず、曇りのない真剣な瞳で強かに言い切る世那の肯定を聞き、結衣は縋るような双眸を潤ませて怖々と差し出された手を掴んだ。吹き抜ける風に引き離されそうなほど控えめに握る結衣と手をしっかりと繋ぎ、世那は愛しさを乗せていた淡黄檗の瞳を閉じる。瞬間、結衣の青白い光が、二人の手を伝って世那も包み込んだ。
決意を固めた少女達を見ていることしか出来ない雪葉は、祈るような気持ちで成功するのをハラハラと待つ。しかし、神様は残酷だった。眠っているみたく安らかな表情の結衣と裏腹に、世那が苦しそうに眉根を寄せて唇を噛み締め始める。繋がっていない方の手で心臓部の服を強く握り締めて、堪えきれなかった苦悶の声を溢した。
「く、ああ……ッ、う、ぐぅぅ!」
「やめろ、もういい……ッ! それ以上、無茶をすれば、世那が壊れてしまう!」
「嫌です! 絶対に貴女を一人にしません」
世那の呻き声を聞いて瞼を上げた結衣が、畏怖に似た感情に打たれた表情で手を離そうとする。だが、結構頑固な世那に力強く握られ、体格差によって離れられなくなっていた。結衣の顔から血の気が引いていき、瑠璃色の瞳も潤んでいく。
雪葉は咄嗟に動いた身体で結衣の反対側の手を掴んだ。魂に幽霊を憑けると何が起こるのか全く分からない。世那は何も言わなかったが、きっと魂魄に負担をかける危険な方法なのだろう。それでも、苦しむ世那に聞こえるように叫んだ。
「世那、結衣を俺に寄越せ!」
「ゆ、雪葉くん!?」
「取り憑くのは俺でも良いんだろ? 俺は副人格も守護霊も居ねぇんだ、魂もガラ空きでお得だぜ?」
額に脂汗を滲ませて苦痛に耐えていた世那が、痛みにより浮かんだであろう水気を含む瞳を見開く。悪戯っぽく口元に弧を描く雪葉を凝視し、凜とした双眸の奥から覚悟と本気を読み取れたのか、服を掴んでいた手を差し出してくれた。やっぱり駄目だと拒否されない為、ガッチリと世那と握手すれば、雪葉の全身からも光が生まれる。
「た、確かにお前に憑けば、世那の魂を壊さず、孤独を脱することができるが……」
「結衣さん、安心して下さい。雪葉くんは優しくて頼りになるお兄さんです」
「それは知っている。世那の副人格によって、新たな性癖に目覚めた場面まで、バッチリ脳漿に刻まれているからな」
よほど痛く苦しい試練らしい。結衣までもが自罰的な色を宿した目で雪葉を見上げ、雪葉を申し訳なさそうに気遣ってくれる。そんな幼女の罪悪感を世那が温和な笑みで取り除いた刹那、小さく頷いた結衣に爆弾を投下された。明らかに誤解を招く言い方で吐露され、雪葉は鬼灯の花みたく真っ赤な顔で、慌てて食ってかかる。
「目覚めてねぇよ!? ちょっと扉を開きかけただけで、まだ目覚めてねぇ! ていうか、印象に残ってる記憶、そこなのおかしくね!?」
「結衣さん、是非とも雪葉くんに取り憑いて、世良を守ってくれませんか?」
「世那さん!? なんか説得の方法が変わってる気がするんですが!?」
「分かった、任せて。私を救ってくれた恩返しとして、世那の大切な人は必ず守る」
「誤解! 誤解だから!」
神妙な面持ちで世良を気遣う世那と、嘘だと思えない真顔で頷く結衣に、喉を枯らす勢いで否定を叫ぶ雪葉。確かに、世那の姿で罵倒する世良に目覚めかけたが、ギリギリ目覚めてはいないのだ。これで変態扱いされるなどたまったものではない。それを呼吸を荒げながら訴えたものの、世那が安心した顔を綻ばせて追い打ちをかける。
「有難う御座います。これで、雪葉くんの魂に結衣さんを憑けることができました」
「えっ? 俺、何もしてないんだけど……」
「僕以外の人間の魂に憑ける場合、幽霊の了承が条件なんです。幽霊が納得すると同時に、宿主となる方の魂に自動的に憑きます。これにて一件落着ですね」
「俺を変態に仕立て上げてハッピーエンドにするな!」
予想外の展開に黒い双眸を点にした雪葉に、世那が霊を魂に憑ける方法を教えてくれた。そして、にこりと満面の笑みを浮かべて、茶目っ気たっぷりのウインクと共に、ぐっと親指を立てる。結衣を救えて嬉しいのだが納得いかず、雪葉はすっかり薄暗くなった空を仰ぎ見て、心の底から吠えた。
ちなみに、世那から結衣を譲渡された時、雪葉に苦しみは全くなかった。世那は無理に結衣を魂に憑けようとして苦しむことになったのだそうだ。無痛で結衣を引き取ることに成功したのに、雪葉は免罪で名誉を毀損されて不貞腐れた。が、その後、異空間から出る為、白子と共に全員で屋上から飛び降りた際、紐なしバンジーの恐怖で怒りが全部吹き飛んだ。
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