第3話 蓮見雪葉

「はぁ、はぁ、ゲホッ、ゴホッ……はぁ。く、くそっ。この学校はどれだけ肉まんを貯蓄してるんだよ」


 背中を丸めて軽く曲げた両膝に手を突き、雪葉は悪態を吐きながら荒い呼吸を整える。南館にある屋上へと続く扉の前。この学校の屋上は北館と南館に二箇所あるのだが、最初に向かった北館の方に誰も居なかった。お蔭で北館の三階から移動する途中、夥しい数の肉まんに熱烈なアタックを受けて、体力をかなり消耗したのである。


「平均的な全校生徒数と各教室の担当教諭、あとは保健教諭とか校長とかを合わせて、ザッと五百個ぐらいか?」


「何回も追いかけられるし、熱々のまま突撃されるし、食わされそうになるし、犯人は肉まんを嫌いにさせようとしてるだろ」


「まぁ、それがこの呪いの効果だからな」


「言葉だけだとしょぼく聞こえるのに、地味に精神的にキツいことしやがって」


 指折り数えて肉まんの数を推測した世良が、ポケットから取り出した保冷剤を布で包んで、軽く火傷を負い文句を言う雪葉の頰に当てた。大好物のものを食べる楽しみや幸せを、心にトラウマを植え付けることで奪う。一見するとしょうもなさそうだが、中々に辛い精神攻撃である。

 相手をこの場所に引き摺り込むのに、最も好きな食べ物を媒介にするのも、幸せの象徴を恐怖の対象に変換する為だろうか。よくよく考えれば、一緒に行動していた世良は、肉まんに一度も狙われていない。犯人にとって、肉まんを見て怯えてほしい対象は、雪葉だけということだ。


「畜生、意地でも嫌いになんかなってやんねぇ。好物のまま此処から出て、肉まんを食いまくってやる」


「なら、もうドアを開けるぞ」


 世良に助けてもらったおかげで、そんなに恐怖を味わっていないからか、犯人に対して苛立ちを募らせる雪葉。散々、追い回された苦労や火傷の痛みにより、思惑通り嫌いになりかけていた心を叱責すると、退屈そうな待ちくたびれたような顔の世良が、ドアノブに手を掛ける。


「いや、それはちょっと待て。走り回った疲労と、犯人を知る為の心の準備が——」


 視線を横に逸らして口元を引き攣らせながら、何とか理由を捻り出して誤魔化そうとした途中、雪葉の言葉を遮るかの如くドアが大胆に開いた。犯人との対面を躊躇う雪葉を無視して開けたのは、当然ながらドアの取っ手を掴んでいた世良である。


「うおぉぉぉーーい!?」


「うざっ」


「やめろ! 世那は俺にそんな顔でそんなこと言わない!」


 目ん玉が飛び出そうなほど見開いて抗議する雪葉だったが、世那の顔で露骨に不快感を露わにした世良に容赦なく罵られ、世那に嫌われたと錯覚した脳による胸の痛みで片膝を突いた。長年、信頼し合って仲良く共に居た幼馴染に嫌われるのは、こんなにも辛く悲しく心を痛めるのだと、身を以て知らされる。


「誰?」


 すると、耳の上で結われた白銀のツインテールを揺らし、屋上を取り囲む柵に背を向けて立つ女子に声をかけられた。世良と同じく雪葉の母校の制服を身に纏った彼女は、大人顔負けの実力と美貌を持つ女子高校生モデル月井つきい白子しろこ。世間に認められた整った顔を盛大に歪めて、白銀の瞳に嫌悪やら憎悪を混ぜた冷たい色を宿す。


「うげぇ、白子の視界に最期に映るものが、大っ嫌いなあんたの顔とか最悪なんだけど」


「……世良。何で俺は初対面の女の子に汚物を見るような目を向けられてるんだ?」


「私が知るわけねぇだろ。それより、お前。そこから飛び降りるのは待っ——」


「巴江ちゃん!」


 名前と職業しか知らないモデルに嫌われて、戸惑う雪葉を雑に往なし説得を試みた世良が、暴走車に轢かれたみたく白子に飛びつかれた。あまりの勢いに押し負けて屋上に尻餅を突いた世良を、白子は感極まった笑顔で自身の腕の中に閉じ込める。


「巴江ちゃん。まさかこんな場所にまで、白子に会いに来てくれるなんて嬉しい。最近、全然一緒に遊べなかったから、巴江ちゃんも白子と同じで寂しかったの?」


「あー、悪いな。誰だか知らねぇけど、私は世那じゃないから離れてくれるか?」


「えっ?」


 恍惚とした表情で嬉しそうに世良に擦り寄っていた白子が、距離の近さに軽く引いている世良の言葉で目を丸くして瞬く。驚きを宿した白銀の瞳で困惑気味の世良を見つめ、無遠慮に何の前触れもなく両手で頰を揉み始めた。むにむにと頬を揉みしだいた手で輪郭をなぞり、親指の腹を使ってゆっくりと世良の唇を撫でる。

 擽ったそうに嫌そうにピクッと肩を跳ねさせつつも、世良は同性だからか先程の雪葉の時みたく抵抗しない。そんな世良の我慢に気付いているのかいないのか、白子は怪訝な表情で容赦なく腕の中に閉じ込めて、豊満とは言い難い胸に顔を埋めながら腰を掴む。まるで胸の大きさや腰の細さを確かめるみたいな手つきだ。


「本当だわ。巴江ちゃんとそっくりなのに、全体的に何かが違う」


「何でお前、俺の時は鳩尾に蹴りを入れた癖に、今は大人しいんだよ。差別だろ」


「……気持ち悪さの差だな」


 瞠目して得心する白子に細い足を撫で回されながら、世良は対応の差に少し不満気な雪葉に素っ気なく返す。その間も白子の手は忙しなく世良の身体を這い回り、スカートの中へと潜り込んで太腿付近を揉んでいた。そんな白子よりも気持ち悪がられ、雪葉が微かに紅潮した顔で抗議する。


「月井の方が際どいしセクハラだろ!」


「うるせぇ、見るな。変態」


「やめろ、世那の顔で蔑みながら罵倒すんな! そろそろ何か新しい扉が開くぞ!」


 白子の手で焦茶色のブレザーを脱がされた挙句、匂いまで嗅がれているのに大人しい世良に蔑まれ、うっかり胸中に秘めていた本音を吐露してしまう。急いで両手で自分の口を覆うが、白子のドン引きした顔で手遅れだと悟った。変な欲をぶつけたことを謝罪する為、冷や汗を垂らしつつ恐る恐る世良を見る。だが、世良は先程までと違って仄かに頰を色づかせ、照れているのを隠すかの如く端正な顔を歪めていた。


「いきなり変なこと口走んな……ッ」


「な、何で今まで冷たい態度だったのに照れてんだよ! こっちまで照れるだろ!」


「……照れてねぇ」


 釣られてボッと頰に火を灯した雪葉の、羞恥を込めた故の大きな声による指摘に、世良が淡黄檗の瞳を横に逸らし否定する。その照れていると一目瞭然な態度を受け、雪葉と世良の周囲に居た堪れなくなるような、甘酸っぱくむず痒い空気が流れた。どうすればいいか分からず視線を逸らしていると、餌を頬張る栗鼠みたく頰を膨らませた白子が、耳を劈く怒号を響かせる。


「もぉぉぉぉぉぉーーーーッ!!」


「げっ、ここに来て大量の肉まん!?」


「あの肉まんって使役できるんだな」


 瞬間、勝手に開いた屋上の扉から、多すぎる肉まんが雪崩れ込んできた。当然ながら狙いを定められて苦い顔をする雪葉の横で、世良は感心しながら溢れる肉まんに目を丸くしていた。あまりにも大量で屋上の床に擦れて潰れているものや、積み重なった山の土台となって型崩れしたものがある。追い回してきた肉まん達は遥かに少なかった為、全て宙に浮いて移動していた故、そんな自滅みたいな展開など一切なかった。


「蓮見くんってば、こんな場所でも白子から巴江ちゃんを奪う! 目の前でイチャイチャしないで!! 取らないでーーーーッッ!!!」


「ギャァァァァァァ、無理無理無理無理! 多すぎるだろ、ふざけんな!」


 涙目で不満を暴露した白子の感情に煽られるかの如く、更に増幅した肉まん達が我先にと雪葉に擦り寄ってくる。四方八方を囲まれて四面楚歌状態なうえ、背中の下にある肉まん達が後ろから押され、波に運ばれるみたいに屋上の橋へと流され始めた。


「大変だな」


「世良お前、自分は襲われないからって、呑気に傍観してんじゃねぇ! 助けて下さい!!」


 押し出されるスピードは今の所ゆっくりだが、確実に屋上から突き落とされそうな命の危機に、雪葉はフェンスで見物中の世良に助けを求める。どうやら世那と違って身体能力は人間離れしているらしく、軽い跳躍でフェンスの手摺りに白子を連れて避難していた。

 そう、この屋上には、そこそこの高さのフェンスが立ち並んでいる。だが、跳梁跋扈する数多の肉まんに押されれば、壊れて柵と共に心中コースだろう。もしも、ギリギリ壊れずに済んだとしても、多すぎる肉まんに押し潰されて圧死する。すると、腰にくっついた白子を剥がし、世良が静かに腰を上げた。


「まぁ、量は多いに越したことないしな」


 なんて意味慎重なことを言いながら、不敵に妖艶に淡黄檗の瞳を少し細める。月光を浴びて柵に立ち、大きな鎌を肩に抱えて肉まんを見下ろす世良の双眸は、獲物を見つけた獣の如く鋭い光を帯びていた。

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