第24話 竜胆さんは決意する…
俺は高校生になった。
同時期に母の転勤が決まり、俺の一人暮らしが決まった。
ここのところ母とはずっと気まずい関係が続いていたし、俺自身一人暮らしに憧れもあったからちょうどよかった。
「え、いいのか?」
そして母は俺のために一軒家を建ててくれた。前の家は色々思い出してしまうから思い切ったと言っていた。
庭付き二階建ての立派な家だった。
俺は母が普段何をしている人なのかは知っていたが、こんな金額をぽんぽん出せるような職業ではないと思っていた。
母は投資で儲けたんだよと飄々としていたが、どうにも胡散臭かった。
俺がしつこく聴き続けると母は溜息と共に諦念を含んだ表情を浮かべて、『これからの人生は何かと入り用だから。子供の幸せの補助となる為に若い頃からずっと貯めてきた。それにはもちろんカナメの分もあった』と白状した。
…聞かなければよかった。
人々が高校生活とはと聞かれてまず思い描くものは薔薇色で笑顔溢れる青春のイメージだろうが、俺は全く期待していなかった。
正直早く働きに出たかった。自立したかったというのもある。
母には悪いけど、この新しい家ともいつかおさらばしたい。
ここにいると、自分は母に守られるべきか弱い子供なんだという事実を突きつけられているみたいで嫌だった。
だが、済んでのところで俺はなんとか思い直す。中卒で働くよりも高校を出て勉学に励み、良い大学に入ってから就職した方が高い給料が期待できると子供の頭ながらに必死に考え至る事が出来た。
もちろん全額は途方もなさすぎて無理だと思うけど、このままは気持ちが悪いし、就職した際は毎月数万円は母に返していこう。
そんな風にまだ子供でいる事が許される時期に無理に大人ぶってスカしてた俺は、
高校入学式の日、宮沢庵との出会いによって衝撃を与えられた。
「っ…ぅ…」
気がつけば、頰に幾つもの雫が流れていた。
彼は道端に出て車両に轢かれそうになっていた子猫を大切そうに抱きかかえていた。
そして優しく子猫を仲間たちのいる石垣の上へと帰してあげていた。
たったそれだけ。
しかしその優しさは弟を想起させた。それくらい元気だった頃の弟によく似ていた。
なにも見た目がってわけじゃない。その善なる行動、醸し出す優しい雰囲気、ふっと笑った時の表情など。
とくんッ
あ、これ恋してしまっている。
昔から思っていたんだ。弟以外で弟のように優しい心を持った素敵な男性がどこかに現れないかと。
それが今目の前に。こんなクソみたいな人生の中で出会った。
一目惚れという言葉では片付かないくらい、ズドンと強烈に胸に迫る初恋を俺は体験したのだった。
凍っていた心を溶かしてくれたあいつとなら、これから弟のいない世界でも諦めずに頑張って生きていけるかもしれない、そう思えた。
「え…」
だが、次の瞬間に俺は失恋した。
彼は俺ではない別の奴に恋する視線を向けていたんだ。
それは少し野暮ったい女だったが、只者ではないオーラが出ていた。いいところの出自なんだろうことが容易に想像できる。
自分が恋をしているからか。すぐに他者のそれに気づいた。否、気づいてしまった。
「っ…」
俺は散々迷ったあげく、恋に落ちた相手の幸せを願う、つまり好きな奴が幸せになるならたとえ相手は俺じゃなくてもいいというスタンスを選択してしまった。
本当は内心ぐちゃぐちゃで複雑だったが俺にもやるべきことがあった。恋にかまけてばかりはいられない。
邪魔にならない程度に俺は遠くから彼らを見守ろう。そうしよう。うんいいじゃん。それで十分だ。
幸い彼らとは同じクラスにはならず、傷心に優しかった。
俺自身も新一年生となって、最初は周りに馴染むのに必死だった。まあ結局のところ俺は友達も作らず部活にも入らず将来のために一心不乱に学業に打ち込んだだけだったが。中学よりもさらに難しい授業内容に置いていかれないようにただ必死に、黙々と。
彼らのことを考えている余裕や暇なんてなかった。
気づけばあっという間に一か月が過ぎていた。
俺は学業に専念したおかげで自分で問題を作れるくらい理解力が深まり、余裕ができていた。
元々地頭はよかったらしい。あとは本気になれるかどうかだった。
それならもっと早くやればよかったと思った。しかし今更後悔しても遅い。俺はこれからも怠けずにコツコツ頑張って行こうと自らの肝に銘じた。
その時になって風の噂で彼らが付き合ったらしい事を知った。
一般的に地味と評される彼が通学路や廊下で見かけるたびにどんどん綺麗になっていく様はこちらに複雑な感情を抱かせるのに十分だった。
…醜い嫉妬はやめろ。俺は勉学に集中すればいい。
三ヶ月ほど経った頃。久しぶりに廊下ですれ違った彼の様子は明らかにおかしかった。
頰にガーゼを貼っていて、どうやら腫れているようだった。
俺はクラスまで彼の跡を付けて行き、聞き耳を立てた。
…ぶつけた?
そんなの嘘に決まってるだろう。ただぶつけただけでそうはならない。そもそも、どうやってそんな部分をぶつけるんだ。
不信感でいっぱいだった俺は、その宮沢の無理して微笑む痛々しい表情に対して、周りはなんで何も疑問に思わないのか酷く苛立ちを覚えた。
本当はすぐにでも問い詰めたい衝動に襲われたが、いきなりそんな事をしても怖がられるだけだろう。
見守るって最初に決めただろ。外野の俺がでしゃばるのも…
「……」
それに今の俺は終わってしまった恋よりも学業だ。
今振り返ると、もうこの時点で宮沢は危険だった。俺は俺をブン殴りたい。
その日以降、露骨にガーゼを貼ってくるような事件はなく、でもなんとなく日に日に彼はやつれて暗くなっているような気がした。
結局のところ俺は宮沢のことが気になりすぎて、それまで頑張っていた勉学も疎かにし、休み時間は積極的に隣クラスの彼の様子を観察するようになった。
バレて変な噂が立たないようにさりげなく行うのがポイントだった。放課後や休日の学校外でも偶然彼を見かけた時は常識の範囲内で見守ったりもしていた。
二年生に上がってからの俺は碌に教室にも行かず、サボる日々を送るようになった。これまで頑張ってきた勉強についていけなくなって萎えた、というのは多分言い訳で。本当は教室にいる神坂朱里と宮沢庵の姿を見ていたくなかったから。俺は逃げていたのかもしれない。
そして昨夜とある用事で偶然あの繁華街にいた俺は、その日はなんとなく歩いてゆっくり帰ろうとふと思い至った。
「…宮沢?」
そしたらあの場所で涙を流す宮沢と出会ってしまった。俺は声をかけずにはいられなかった。どうしても弟の姿と重なる部分があった。
「っ…」
ほんの一瞬だが、宮沢の上衣がずれて変色した肌が見えた時は本気で頭が沸騰しかけた。どういうことだ、なにをされたんだと声を荒げてしまいそうになるがなんとか堪える。
冷静に、冷静に。ただ助けてやりたいその一心で声をかけるも、
「あ、おいっ」
結局逃げられてしまった。くそ。俺やっぱ嫌われてんのかな。
見た目のせいであらぬ誤解を受けていることは知っている。面倒臭いと思ってわざわざ否定はしてこなかったけど。こんなことならちゃんと否定しとけばよかったか。
「……」
まあ明日だな。改めて宮沢と関わるのは。たとえ今から追いかけてもただ宮沢を怖がらせるだけだ。
それに十中八九神坂朱里といるんだろうし、何の策もなしに突っ込んでいくのはただの愚行、宮沢にも迷惑を掛けるよくない行いだ。
「ん?」
外道を走る車のライトに照らされて、キラッと一瞬光るものを見つけた。
拾い上げるとそれはキーホルダーだった。二つ揃って初めてハート型になるというもの。
「……」
宮沢が落として行ったものなのか。
無意識に俺はそれを力一杯握りしめていて、潰してしまいそうだった。
「朱里ちゃん…」
「っ…」
…寝言か。
深く沈んでいた意識が浮上する。
見渡すと辺りはまだ暗かった。少しの間俺はウトウトしていたみたいだった。
「はぁ……」
ベッタリと汗で衣服が背中に張り付いていて気持ちが悪かった。
俺は宮沢を起こさないようにスッと静かに起き上がり、彼の様子を窺う。
「っ…」
…涙、まだ流れるのか。
そっと優しく宮沢の目尻に触れ、指で涙を拭ってやる。
悲しい夢でも見ているのだろうか。
「……」
当然、まだ宮沢の心の中には神坂朱里が絶対的に居座っていて、まるで呪いのようにこびりついて離れないものなのだろう。
一刻も早く俺は宮沢をあいつから開放して楽にしてやりたい。
この一日、二日で好きな男の泣き顔ばかり見ている気がする。気がするのではなく、ただの事実か。
見ているだけでこちらも胸が抉られる痛みを覚えるし、できればこれ以上宮沢の苦しむ顔は見たくない。
まだ弟の件があったから冷静に考え、立ち回ることができているが…
「……」
いや、俺が自分の気持ちから逃げて、これまで何もしてこなかったから宮沢は苦しんでいるのか。
本当ならもっと早くに、こうやって宮沢と関わる事が出来たんだ。話を聞くことだってできた。
そしたら今頃はもう既に宮沢は神坂朱里の魔の手から解放されていたかもしれない。
「はぁ…なにやってんだよ」
俺はまた弟の時と似た失敗をしてしまったんだ。
いったい何度選択肢を間違えれば気が済むんだ。人生にはやり直しがきかないんだぞ。
このままでは本当に取り返しがつかなくなる。
「くそっ…」
もうあんな想いは二度としたくない。
もし宮沢が…と思うと文字通り胸が張り裂けバラバラになり身体の中心部から爆ぜてしまうくらい苦しい。
ならば今度こそ、だ。
今度こそ俺は救って見せる。
一度目、二度目と大きすぎる失敗をしてしまった俺だが、三度目こそは。
明日から俺も積極的に動こう。
そうだ。もっと早くにそう思うべきだった。
もう決して後悔しない為に。
そう決意を固めた俺は再び眠りに落ちるまでずっと宮沢を眺め続けた。
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【★あとがき★】
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