第10話 ねえ逢いたいよ…

 LDKから出ると、仕事終わりのパンツスーツスタイルの女性と鉢合わせした。



「はぁ~疲れた…」



 凝り固まった肩を揉みほぐしうっとりした吐息を漏らすこの人は僕の母親である、宮沢菊子だった。



「お、おかえりなさい」



「……」



 サバサバとした雰囲気、艶やかなショートカット、とても四十代には見えない若々しい容姿をしており、目元の黒子が色気を漂わせていた。



 この人に僕は昔この世の天使の如く甘々に愛された。しかし今ではまともに目が合う事さえ珍しい。それくらい母との関係は希薄だった。



 まあでも毎月お小遣いは多めにくれるし十分優しいと思う。そのおかげでバイトはせずとも朱里ちゃんに尽くす事が出来るんだし。



「……」



 母はいつも通り僕の事が見えていないかのように素通りしていく。これが有名SF作品みたいに実は僕が透明人間でしたというオチは何度考えただろうか。



 母はまるで汚いものに触れるのが嫌だというように、しっかり数十センチ横にズレて僕を避けていくから、いつしかそういう望みは抱かなくなったけどね。



 ズキッ



「小春~お疲れ様~今日のご飯はなぁ~に?」



「あっお母さん!おかえりー。今日はオムライスだよっ」



「え〜!私の好物じゃないっ。嬉しいわぁ。小春”は”本当によくできた娘ねぇ〜いつもありがとう~!」



「えっへん。もっと褒めてくれてもいいんだよ?」



 うふふ、あははと室内から和やかな二人の話し声が聞こえる。



「……」



 同じ家族のはずなのに、当然のようにそこには僕は含まれていなかった。



 これもいつも通りだと僕は自身の心に言い聞かせ、今すぐ暴れ出しそうな心を落ち着かせようと試みる。



「うっ…」



 しかし今日はなぜだか失敗して僕は吐き気を催してしまう。身体を休ませる為にも急いで僕は自室へと駆け込んだのだった。





 部屋の電気も点けずに僕はベッドの上でぽけーっと天井を見上げ、虚無の時間を過ごしていた。



「なんでだろう…」



 疲れているのかな。今日はいつにも増して心が弱っている気がする。



 いつもは気にならない事にも今日は一段と気になって仕方がない。



 さっき感じた胸の痛みも、教室で感じた痛みも…



 ピロンッ



 その時、ちょうどスマホに着信を知らせる音が鳴る。



『来い』



  確認すると、朱里ちゃんからメッセージが飛んでいた。たった一言。それだけで僕は今夜の朱里ちゃんは機嫌が悪そうだと察する。



 僕は即座に『わかりました、今から向かいます。』と当たり障りのない文章を返信をし重い体を無理矢理起こした。



「お風呂入る暇なかったな…」



 いつもより早い時間の呼び出しだった。僕は素早く外出用の鞄に必要なものを詰め込んでいく。



 といっても今回はホテルではなく朱里ちゃん宅に呼び出しだ。予め嵩張るスキンケア用品や化粧道具は置かせてもらってるから、僕が用意する物は必要最低限でいい。



「充電器セットOK、財布OK、鍵もOK、あとは飲み物に…」



 一応というか絶対必要になってくる替えの下着類。そして生を好む朱里ちゃんが嫌うけど0.01避妊具も入れる。



 それと朱里ちゃんは制服姿でのプレイを好むから楽な格好から再び制服を着直し、その上に上着を羽織る。



 仕上げに僕は学習机の照明をオンにして、卓上ミラーで髪や顔の崩れを軽く直した。



「よしっ」



 そうして準備万端!と部屋を出ようとした時、



 (なんか嫌だな…)



 え、なにこの感情…



 今までこんなこと感じたが事ない。むしろ学校だけではなくオフでも朱里ちゃんに会える!と楽しみになるはずなのに。



『なんか悩みがあるなら言えよ。』



「えっ」



 その時、屋上で見たリンドウさんの顔が浮かび上がる。僕を見つめるあの真剣な瞳。優しさに満ちていて、こちらを柔らかく包み込んでくれそうな温かい人。



 僕は数秒間のうちにあの屋上での時間を鮮明に思い出す。



「……」



 ピロンッ



 その時、再びスマホに着信を知らせる音が鳴った。



 朱里ちゃんからかもしれない。僕がモタモタ準備をしたせいだ。急がないといけない。



「あっ」



 スマホ片手に僕は扉のドアノブに手を掛けたまま停止してしまう。



 届いたのはリンドウさんからのメッセージだった。



『夜遅くにすまん。ただどうしても気になって。俺の勘違いならいいんだが、』



「…っ」



『宮沢お前大丈夫か?一人でなんかでけぇもん抱え込んでねえか?…昨夜宮沢とあそこで会った時も感じたが、もう限界って面してたぞ。』



 僕はいつしか呼吸する事を忘れてしまう。



『別に話す相手は俺じゃなくていい。誰か頼れる奴に相談とかできねえか?それができねえってなら、もし宮沢が頼ってくれるなら俺がお前の力になりたい。だから一人で無理だけはしないでくれ。』



 その後にもリンドウさんの思いやりや誠実さが伝わってくる文章が続いた。



 僕は一文一文、時に読み返しながら、最後まで丁寧に読み進めていった。



「え…」



 あれおかしいな…



 なんで今僕泣いてるんだろう?



「うっ」



 ダムが決壊したようにポロポロと目元から溢れて止まらない。頬を伝い、床へと吸い込まれていく。

 


「うぅっ、うっ」



 我慢できなくてその場で膝をつく。絶対家族には聞かれたくない。スマホを持つ手とは反対の手で口元を押さえる。



 室内に一人の男のうめき声が響く。



 あぁ、僕って本当にダメだな。今から朱里ちゃんの所へ向かわないといけないのに…



 ズキッ



 まただ。またこの胸の痛みを感じる。今まで一度も感じた事なんてなかった。



 僕も鈍感じゃないから、逆に言えば、原因だと思われることなんて一つだけしか思い当たらない。



 それはきっとリンドウさんと出会い、話して、彼女の優しさに触れたことだ。



 僕の中で脆くひび割れそうな何かの感覚がする。もしそれが一度壊れたらもう後戻りができなさそうで、僕は怖くなってギリギリの所で目を背ける。



 潤んだ視界の中、震えた指先でスマホを叩く。今はただ寒い。暗闇の中一人孤独で寂しかった。無性に誰かに…



 『あいたい』



 そう。僕は朱里ちゃんにではなく”リンドウさん”に無意識に送っていた。



 ピロンッ



 すぐさまリンドウさんから返信が来た。



 『すぐ行くから、◯△駅前公園で待ってろ。』



 それを見た瞬間また涙腺が刺激され、泣きじゃくりながら僕は部屋を飛び出した。



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【★あとがき★】


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