第9話 もう戻れないのかな…
寄り道はせず、真っすぐ自宅へ帰って来た。
「ただいま…」
手洗いうがいを済ませ、僕は二階の自室へ赴き、着慣れたゆるTに着替えた。
「あ」
水分補給のため一階のLDKへの扉を開けると、リビングのソファに、だらぁんと白黒ショートパンツから覗く細い足を延ばし、スマホを弄る、黒髪ボブの女の子の姿があった。
「た、ただいま。こはる帰ってたんだね…」
「……きも」
ジロッと僕の肢体を上から下まで舐めるように凝視し、罵倒して来たこの子は今年中学二年生になった、妹の宮沢小春だった。
本来は溌剌とした雰囲気の少女のはずが、今は不機嫌そうに眉を吊り上げ、その可愛らしい丸目は冷たい侮蔑の眼差しをとっていた。
昔は『おにぃちゃんだいすきっ、けっこんするっ』と言って、片時も離れない様な子だった。
しかし今では見る影もなく僕のことを不良だと勘違いしていて、このように嫌われている。
「…で、なに?」
「え、えっと…今日の夕飯はどうしようかなって…」
「……」
「たっ、たまには僕が作ろうか?」
「は?まじ無理なんだけど。妹にも色目使うようなビッチの作った物なんて何が入ってるか分かんないし汚くて食べらんない。」
色目って一体どういう事なんだろう。聞き返したら怒らせてしまうだろうか。
そう考えていると露骨にため息を吐く音が聞こえた。
「うざ。もうテキトーに私がオムライス作るから、文句ないよね?」
「う、うんっ、もちろんだよ…いつもありがとね。もし僕にも何か手伝えることがあったら…」
ドンッッ
そう提案した瞬間、凄まじい打撃音が室内に響き渡った。思わずビクッと身体が震える。
どうやら小春がローテーブルに向けて拳を叩き付けたようだった。
「ふぅ…まじでうざい。私がするって言ってんでしょ?耳付いてないの?それ飾りなの?」
「ご、ごめんっ…」
「はぁ…ビッチは大人しく部屋で勉強でもしてなよ。二年になってから成績落ちてんでしょ?」
「うっ」
痛いところを突かれた。朱里ちゃんはもちろん、元々断れない性格も相まって二年生に上がってから葵くん達にもより一層時間を使うようになった。だから勉強する時間が減少した。
これは決して朱里ちゃんたちのせいという意味ではない。全て僕自身の気の緩みのせいだ。これではあの朱里ちゃんの彼氏として相応しくない。頑張らないと。
「小春の言う通りだね…勉強してくるよ。」
そう言ってLDKを出る僕だったが、自室までの距離がいつもより遠く感じた。
今更だ。妹からのああいう扱うには慣れているはずなのに…
「だめだめ。今はとにかく勉強しないと。朱里ちゃんの隣に立っても恥ずかしくないように。」
だが、勉強机に向き合うも頭が上手く回らず、簡単な部類の課題すら終わらせる事ができなかった。
・
先程から室内にはカチャカチャという食器同士の擦れる音しか聞こえない。後は断続的に聞こえる対面からのはぁぁ…という深い溜息の音のみ。
「……」
「……」
気まずい。さっきからオムライスの味が全くしない。機械のようにただひらすら無味無臭のもちゅもちゅした固形物を口内に運び続ける。
お昼にリンドウさんから貰ったパンはちゃんと味がして美味しかったのに…
それでも手間暇をかけて作ってくれた妹の失礼にならないように美味しいフリとまではいかなくても、なんでもないフリはしよう。
僕は黙々とオムライスの咀嚼嚥下を繰り返していく。合間になんとなく気になってチラリと妹の顔色を盗み見る。
「…っ、なに?」
しかし、どうやらこちらを同じタイミングで見ていたらしい妹とバッチリ目が合ってしまう。
「ううん。なんでもない…」
「……あっそ。」
妹はまだ訝し気な視線を送ってきたが、僕は気が付かないフリをして食べ進めた。
昔はこんな風ではなかった。食事の場はもっと笑いが絶えなかった。今みたいに沈黙はあれどそれを気まずいなんて思うこともなかった。
妹がまだ小学生で僕が中学生の頃は当番制でご飯を作り、その出来栄えをお互い褒め合って楽しんでいたくらいだ。
でもある日、妹の作ったご飯をいつもの調子で美味しい美味しいと褒めて食べていたら、唐突に左頬に衝撃が走った。
「え…」
数秒呆然とするが、次第に状況を把握する。その衝撃の出処はなんと妹の右拳だった。
小春自身も驚いた顔をしていた。たぶん中学という新天地にストレスでも溜まっていたんだと思う。
そんな中、実の兄に褒めちぎられるという行為は鬱陶しい以外の何物でもなかったのだろう。
幸い彼女はまだ中学に入りたての幼い女の子だったので、大した威力は無く数日で頬の腫れは治まった。
だが、その事件をきっかけになんとなくお互い気まずくなり、今の今まで腹を割って話すことはなく、決定的に溝が深まってしまった。なんたって僕はビッチだそうだから。
「んっ」
やっと食べ終えることができた。中々に大変だった。
手を合わせてご馳走様と心の中だけで唱える。
食べ終えた食器を持ち立ち上がる。流し台に皿を置いたところで、やっぱり何も言わないのは良くないなと思い直す。せっかく作ってくれたんだ。少し恐ろしかったけど、
「…ご馳走様、美味しかったよ。小春、いつもありがとう。」
そう告げて、僕は逃げるようにLDKを後にした。これが今の僕にできる精一杯だった。
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