『臨死体験』
真矢と一度別れたつつじの脳裏は、一人になると先ほどのスタジアムの興奮で再び満たされるとともに、真矢の言葉もまたぐるぐると巡り回っていた。
『つつじはさあ、出る方は興味ないの』
いよいよこのままダイブしているとどうにかなってしまいそうと感じたつつじは、電子世界からダイブアウトして、現実世界で目覚めていた。透明な液体で満たされた浴槽に仰向けで起きたつつじの目に、さっきまでの鮮やかな夜空と全く違う、無機質な天井が目に入った。
よく羊水に例えられる液体の中で、人間は窒息する事はなかった。揺籠を満たす、定期的に補充さえ行えば、保護剤にも、洗浄剤にも、栄養剤にもなり得る物質『リターン』は、電子世界に恋焦がれた人間の狂気が生み出した発明だった。つつじの視界の、手の届く位置に存在する電子端末上に、月末の液体の補充が完了した旨の事後報告が届いていた。その費用は、『スコア』という通貨で賄われている。そのスコアは、人間が汗水垂らして生み出したものではなく、電子世界の演算によって生み出される『リターン』が売買される事により生み出される、いわば電子世界で勝手に生まれる物質の利益を、人類がただ享受している結果の産物だった。つつじは以前、見るからに怪しい集団が叫んでいた事を思い出す。『人々は羊水の中で揺蕩うだけの、生物未満に成り下がった』
そんな頭にこびりつくようなパフォーマンスをふと思い出して、つつじは今の生き方に、少しだけ焦りを覚えながら、再び電子世界へと潜っていくのだった。
結局二十分ほどの時間を、頭を冷やす様に当てもなく歩いていたつつじは、クールダウンどころか、プリンセスナイトのエントリーが行われる本部前へとたどり着いていた。少しの逡巡の後、意を決して、入り口から先へと歩を進める。華やかなイベントや大会の告知、参加者募集のポスターに包まれた雰囲気とは裏腹に、人はまばらで、距離があるのに奥のカウンターの人物と目が合ってしまう。
「エントリー希望者の方ですか」
「あ、はぃ……」
つつじの声は、実際には相手には全く届いていなかった。しかし受付の制服姿の女性は、つつじの意を勝手に察し、自分の方へ来るようにと目で促す。無言で言われるがままにつつじが近づくと、一言を放つ。
「情報照会よろしいですか」
受付の女性はつつじをじっと見据えて、極めて事務的に手続きを進めていく。
「えっと、私、遠隔開示の式が使えなくて」
求められたのは自己紹介の際にも使うIDの提示である。汎用的な式で、初めて電子世界を訪れた存在が真っ先に習得する事の多い式であったが、それさえつつじは満足に扱えなかった。
「構いません、同意さえ頂ければこちらで参照いたします」
流されるままに頷いた瞬間二人の目が合うと、つつじはその真っすぐで無機質な視線に何やら心の奥まで見透かされるような感覚を覚えた、と同時に、彼女が目に宿らせた式を追うと、つつじの公開情報より必要なデータを読み取る式である事を理解する。電子世界では頻繁に情報照会を求められる為、情報提出自体は初めてではないが、基礎情報以外のデータを参照される事が久しぶりだったため、そこに取り出されている自分のデータを思うと、何やら新鮮な感覚だった。
「春野つつじさん」
「はい」
自身が何者なのか、ひょっとすると読み取られた本人より本人を理解したかもしれない声に不意に呼ばれ、返事をしようとして変な声を出してしまった。
「ようこそ、プリンセス・ナイトへ。………?」
おそらく決まり文句なのであろうその言葉が、妙に歯切れの悪いものに聞こえた。
「?」
つつじが怪訝な顔を返すと、無表情の中に微かに、納得がいかない表情を浮かばせた受付の人物がつつじに質問を返した。
「恐れ入りますが、登録は初めてでよろしいですよね?」
「えっ、はい」
予想だにしない質問に、ただとっさに返事をする。受付の女性が理由を続けて話す。
「何か以前登録されかけたデータがございまして、お名前も登録されていない空のデータですので、何かの誤入力かと思われます。念のための確認となりますが、今回新規登録で差し支えございませんね」
つつじは原因も理由も理解できなかったが、特に問題もない為に、そのまま頷き返事をした。
「では、このまま上書きをさせて頂きます」
そのまましばらく、再び事務的冷静さを取り戻した女性の話をただ聞いていると、いくつかの注意事項の説明の後、ついにその時がやって来た。
「それでは、簡単な適正テストと、ドレスの授与をさせて頂きます」
つつじの耳に、そのドレス、という単語がとても強調されて響く。授与、という言葉に高ぶる心を抑えきれなった。
ドレス。舞踏服とも、バトルドレスなどとも呼ばれるそれは、プリンセス・ナイトに憧れて、戦いの世界に足を突っ込む人々の動機の大きな一つである。
プリンセス・ナイトの参加者にとって、ドレスは最大の自己表現の手段だ。ある者はプリンセスの名前に負けない絢爛なドレスを、あるものはナイトを体現するような岩のような鎧を、またある者はファッショナブルでスレンダーなスタイルをアピールするような装束を、とにかく自身の心そのものを表すような千差万別の表現が、プリンセス・ナイトの魅力をさらに引き上げている事は間違いがなかった。
つつじはいつかの、ある選手のインタビューの記事を思い出していた。選手の中にはデザインを一から考えに考え抜いて表現する者もいるようだが、大抵ドレスのデザインは直感らしい。話によると登録の際与えられる最初のドレスは自らの意思はさておき、自身の心を見透かし誂えて貰えるらしく、かなりの選手がそのモチーフをそのまま使うのだという。それを知っていたつつじの頭は、どんなドレスと出会えるかの一点にのみ集中しており、目の前の説明など全く入り込む余地はなかった。
「それでは春野つつじさん」
「…………。」
「つつじさん」
「……はい!?」
そんな調子の中、すぐ近くに感じる声で二度名前を呼ばれて正気に返ると、声の主の姿はそこには無く、周囲を見回すと上下左右全てが黒い壁に囲まれた何もない部屋に一人ぽつんと佇んでいた。
「それでは準備もよろしい様ですので、早速、適正試験を開始致します。まずは対Gテストです」
同意した覚えのない質問の答えを繰り返されて、反論しようとした瞬間、いきなり、地面に吸い込まれるような力を浴びたつつじは、舌を噛みそうになりながら肺に入っていた空気をほとんど吐き出す事になった。
「ふぅっ……!」
「10秒後、4Gまで負荷上昇、その後、前後方向への同一の負荷へ移行します」
受付で聞いた声のアナウンスが終わるや否や、さらに強い衝撃がつつじを襲う。今度は急に襟首をつままれたような引っ張られ方をして、息を吸う暇もなく窒息状態を強いられてしまう。
「対ショック試験に移行します」
急に重力から解放されたかと思うと、空気の塊が真正面にぶつかって来た。そのまま吹き飛ばされて背中を壁に強かに打ち付ける。その痛みが、つつじの頭の思考をやっと促した。
つつじの意識に式が映る。次の攻撃は黒い壁が光った後、その衝撃派が光った方向から現れる、と分かったせいで身構える事が出来た。しかしこれなら対処できると思ったのも束の間、その間隔が間断なく、強さも容赦がなくなると成す術がなかった。何度か打撃を受けて吹き飛ばされると、その回数も途中で数えられなくなってしまった。
長い攻撃が止んだところで、呻きながら立ち上がる。
「では最後の試験です」
意識が朦朧としたままのつつじに、無慈悲な宣告が下される。
「臨死体験試験を開始します」
宣告の瞬間、つつじが意味を理解するより早く、全ての壁から無数の鋭いトゲが出現し、あらゆる角度からつつじの身体を貫いた。部屋を満たした鮮血と悲鳴を、つつじ自身が知覚する事はなかった。
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