希望と絶望の穴(1)

 穴は深かった。横幅も、ぼくの肩が充分に通るくらいある。

 思いきって頭を突っこんでみると、だいたい十度から十五度くらいの傾斜で上にむかってのびているのがわかった。


 両手を前に突きだしたかっこうで、奥へ進んでみる。すぐに苦しくなった。この姿勢は、あまりにもつらい。両肘を左右の壁に突っぱり、イモムシみたいに這いのぼる。

 長い。長いトンネルだ。ぼろぼろ土が落ちてきて目に入るし、そもそも暗い。空気も土のにおいばかりして、息苦しかった。スポーツウォッチの夜光塗料がやたらとまぶしく感じられる。

 かなり進んだところで、指先にふれる感触が変わった。ぐっと押すと、動く。

 穴の中に光がさしこんできた。


 穴の口をふさいでいたのは、ぼろぼろに朽ちかけた薄い木の板だった。板をずらして、穴のふちから顔を出すと、ものすごく天井の低い、薄暗い空間が広がっていた。一定の間隔を開けて、太い柱が並んでいる。

 床下だ。

 古い日本家屋だから、下がコンクリートの基礎じゃなくて、そのまま土の地面になってるんだ。空間は縦にはせまいけど、横にはかなり広い。床下の端には、ところどころに目の細かい木の格子みたいなものがはめてあって、そこから光が入りこんできていた。


 外だ。


 ぼくはイモムシみたいに土の上を這いずって、柵のところまで移動してみた。

 さわってみると、思ったよりしっかりしている。完全にはめ殺しになっていて、押しても引いても動かない。格子を切ったり折ったりすれば脱出できそうだけど、ノコギリみたいな道具がないと無理そうだ。


 ぼくはパニックに襲われた。

 出口は。どこかないか。


 あたりを見回してみると、一か所だけ、木の格子の代わりに緑色をしたプラスチックのネットが張ってある場所を見つけた。息を切らしながら、そこまで這っていく。

 ネットは、明らかに後から応急処置で貼りつけたような感じで、しかも雨風のせいでかなり痛んでいた。日の当たる部分が、白っぽく変色している。端のあたりがめくれているのをつまんで、強めに引っぱってみると、ぷちんとちぎれた。

 口の中がかわく。

 ネット越しに外を覗いてみると、枯れた草と、雪に埋もれた地面が見えた。なんとなくだけど、家の裏手──あの夜、リアの部屋の窓辺をたずねるために通ったあたり──に面しているように思えた。


 いけるか。

 いや……でも。


 ネットをむしって、外に出るだけ。わかっているのに、どうしてもその決心がつかなかった。

 チャンスがあるとしたら一度きり。失敗したら……終わりだ。

 迷ったすえ、ぼくはトンネルへ戻った。木の板で穴にふたをして、斜めになったトンネルを下へすべり落ちてゆく。おりながら、とちゅうでなにかに引っかかって動けなくなることを想像して、また少し怖くなった。

 足がタイルの床にふれたときは、心の底からほっとした。

 穴から這いでて土をはらい、改めて時計を確認してみると、行って戻るのに十分ちょっとしか経っていない。個人的には、ものすごい大冒険に感じられた。


 もう少し穴のまわりを調べてみると、割りばしやつまようじの残骸が、いくつか見つかった。ぼんやり想像していたことが、これで確信に変わる。

 これは……歴代の花嫁たちの誰かが掘った、脱走用のトンネルだ。監視の目を盗んでちょろまかした食器で、少しずつ、少しずつ……。


 ぼくはしばらく、トンネルの入り口をぼうっとながめていた。

 と、そのとき。地下に通じる扉を開ける、がこんという金属音が遠く聞こえた。いつの間にか、昼食の時間になっていたんだ。そして気づいた。


 ──これを見られちゃいけない!


 心臓が跳ねあがった。

 入口の板をきれいにはめ戻している時間はない。できる限り、そっと立てかけてから、収納のとびらを閉じる。そうしてから、絶望的なことに気がついた。今のぼくは、手も顔も服も土まみれだ。床にも土が飛びちっている。


 トン、トン、トン、トン……。


 階段を降りる音が聞こえてくる。

 ぼくは、床に散った土をあわててかき集めると、掃除用具の奥に押しこんだ。ぞうきんで床をざっとぬぐってから、自分はシャワールームに飛びこむ。

 シャワーの栓をひねる。すぐにはお湯が出ない。かまわず、服を着たまま全身にあびた。浴衣についた土も、手や顔のよごれも、まとめて洗い流す。


「……くん。志筑くん。昼食だ。……シャワー中かい?」


 鴻介さんの声が聞こえる。

 返事をする余裕はない。ぼくは大あわてで、びしょびしょになった服を脱いだ。洗面所からバケツを引っぱってきて、浴衣も下着も全部、放りこむ。


「志筑くん。もしや、気分でも悪いんじゃ……」

「だっ……大丈夫! 今出る!」


 ぼくは一枚だけ渡されているバスタオルでざっと体を拭くと、体にそれを巻きつけて、洗面所の扉を開ける。ぼくの姿を見て、さすがの鴻介さんもぎょっとしたようだった。


「おい、待ちまたえ。なんてかっこうをしているんだ。──服は? どうしたんだい」

「……ごめん。さっき、吐いちゃって……服にもかかっちゃって気持ち悪かったから、自分で洗ってた」

「……本当かい? 気分は」

「もういいよ。吐いたらすっきりした」

「ならいいが。……ともかく、早く着替えたまえ。風邪でもひいたら、今夜のおつとめにさし障るからね。ほら、着替えはここに置いておく」


 鴻介さんはそう言って、例の小さな扉から昼食のトレイと着替えを中に入れると、きびすを返して出ていった。

 ぼくは大きく息をつくと、その場にしゃがみこむ。

 足が、がくがくと震えていた。

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