救世主はメイズさん(3)

 ち、ち、ち──。

 ちん。


 硬質な音とともに、まぶたの裏が明るくなった。


 目を開けると、すり切れた畳の表面が大写しになる。

 冷たい。

 ぼくは氷のように冷えた畳の上に、うつぶせで寝ていた……と、いうより、気を失って倒れていた。

 身を起こそうと手足に力を入れたとたん、体中に激痛が走る。見あげたモルタルの天井がぐるぐる回っていた。

 体の芯から、ぶるぶると震えがきた。全身が冷えきっている。

 首を持ちあげるのもつらかったけど、寒すぎてじっとしてもいられなかった。

 格子のむこうの壁にはエアコンが取りつけられていて、生ぬるい風を吐きだしている。ぼくは、どうにか風のあたるところまで這いずっていくと、格子の横木を支えに上半身を起こした。背中を丸め、服の上から両腕をこすって、少しでも暖をとる。

 口の中に違和感をおぼえたので、手の平に吐きだしてみると、折れた歯のかけらだった。舌先に血の味がする。


 オノゴロ童子の姿はない。

 床の間の「箱」も、元どおりの形に閉じている。昨日の痕跡を残しているのは、畳に散らばったおはじきと花札、ぼくが吐いたげろ、そしてくしゃくしゃになった紙箱だけだ。


 格子の向こうでは、コンクリートの通路が蛍光灯に照らされている。

 スチールラックの上のデジタルクロックは、午前十時すぎを指していた。

 日付は、十二月三十一日、大晦日。

 冬休み六日目。そして、ぼくにとっては──監禁生活二日目の朝だった。


 がこん、と金属のフタを外すような音がして、誰かが階段を降りてきた。

 姿を現したのは、鴻介さんだった。

 トレイの上に、湯気の立つ朝食を乗せている。白いご飯に、サラダとスクランブルエッグ。味噌汁と小分けに包装された焼き海苔のり。修学旅行の宿で出る朝食みたいだ。

 鴻介さんはぼくを見ると、不愉快そうに顔をしかめた。彼が感情らしい感情を見せるのを、はじめて目にした気がする。


「ひどいな。最初は荒れる・・・と、話に聞いてはいたが……。君、志筑くん、大丈夫だったかい。骨が折れたりしていないといいんだが」


 ぼくは、無言でそっぽを向いた。とても言葉を交わす気にはなれなかった。


「ふむ。その気力があるなら大丈夫かな。まあ……すぐにとは言わないが、おいおい、歩み寄りについても考えてくれたらうれしいね。僕としては、君になるべく快適にすごしてほしいと思っている……本当だよ。なにしろ、これから長いつきあいになるんだから」


 そう言いながら、鴻介さんはカギ束を取りだすと、格子の一角にしゃがみこんだ。カチリと音がして、格子の一部が大きく開く。ちょうど、朝食のトレイが無理なく通せる大きさで……中学生のぼくならギリギリくぐれるかもしれない。


「冷めないうちに食べてくれ。ゴミはトレイに乗せておいてくれればいい」


 鴻介さんは手早く格子の開口部を閉め、カギをかけると、通路の奥のスチールラックに向かった。同じようにカギを開けると、中から救急箱を取りだす。


「できれば、直接ケガを診てあげたいところだが……今、そっちへ行くのはやめておこう。君も気が立っているだろうからね。ただ、これだけは信じてほしい。その座敷にいる限り、君は安全だ。少なくとも僕たち神代家の人間が危害を加えることはないし、できる限りプライバシーも尊重しよう。必要なものがあれば、可能な限り手配する」

「……はっ」


 笑ってしまった。まるで、怪物と同じ檻に閉じこめるのが、危害を加えるうちに入らないみたいじゃないか。自分勝手ななうえに、恩着せがましい。

 中学生の小娘に鼻で笑われても、鴻介さんは気を悪くしたふうもなかった。

 救急箱から湿布の箱を取りだすと、格子の隙間から中にさし入れてくる。さらにブリスターパックの錠剤を、その上に乗せた。


「痛みどめだ。飲んでおきたまえ」


 ぼくは少し迷ったけど、結局、薬を飲むことにした。目がさめるにつれ、腫れたほっぺたと折れた歯がずきずき痛みだしていたからだ。


 用が済むと、鴻介さんはさっさと地上に戻っていった。

 去り際、着替えだと言って、新品の下着とヒートテックのインナー、旅館で着るような浴衣を置いていった。浴衣はなんだかくたびれていて、趣味のよくない紫色だった。


 この家で作られた食事を口に入れるのには抵抗があったけど、結局、ぼくは空腹に負け、きれいに朝食をたいらげた。


 食後、ぼくは座敷の中をひととおり調べてみた。

 土壁の一角に扉があるので開けてみると、中はタイル張りのバストイレだった。浴槽はないけど、シャワーはある。洗面台には、せっけんとコップ、誰かの使用済み歯ブラシ。壁には、鏡を取り外した跡だけが残っていた。

 トイレの中は冷蔵庫みたいに冷えていた。エアコンがあるだけ座敷のほうがまだマシけど、どこにいても地べたからじかに冷気が伝わってくるのは変わらない。


 トイレを済ませると、どっと疲れが押しよせてきた。

 考えなくちゃいけないことは山ほどある。でも、頭が働かない。

 ぼくは他人の寝床に入る気持ち悪さをこらえながら、部屋の隅に敷かれた布団にもぐりこみ、頭から毛布をかぶって丸くなった。


 昼食はレトルトのカレーライスだった。鴻介さんは。夜までに畳に散らばったおはじきと花札(と、げろ)を片づけるように言い、新品の歯ブラシセットとメモを一枚置いていった。

 メモには、オノゴロ童子が好む遊びと、そのルールが書かれていた。


 おはじき、お手玉、花札、めんこ、あやとり……。


 やったこともない、古くさい遊びばっかりだ。

 リアは、オノゴロ童子がこの屋敷にやってきたのは、明治か大正のころだと言っていた。もしかして、そのときからずっと、こんな遊びを続けてるんだろうか。

 とはいえ──相手をしてあげなかったら、また昨日みたいな目に遭わされてしまう。ぼくは必死でルールを暗記した。他の遊びはともかく、花札は複雑でわかりにくい。


 夕食には、蕎麦そばが運ばれてきた。

 なんで蕎麦なんだろうと首をかしげたところで、ピンときた。年越し蕎麦だ。

 思わずまた、乾いた笑いがもれた。これが気づかいのつもりなら、決定的にズレている。それとも──この家では、これが普通なんだろうか。


 そうなのかもしれない。

 家の中と外は、別の世界だ。家の中でどんなにおかしなことが行われていても、そう簡単には、外にはもれない。父さんと母さんだって、家では毎日あんな幼稚なケンカをしていたくせに、それぞれの職場ではそれなりに責任ある仕事を任されていたんだから。

 ぼくが行方不明になって、外の世界では丸二日経ったことになる。

 時枝おばあちゃんは、きっと心配しているだろうな。警察に通報してくれたかもしれない。

 父さんや母さんは──ぼくがいなくなったと聞いたら、どんな反応をするだろう。ぼくを探しに、壇ノ市まで来るだろうか。それとも、お互いに責任を押しつけあって、またケンカをするだけか。


 なんだか、ひどく──心細くなった。


 鴻介さんは、無言のまま地下室を出ていこうとしている。

 その背中に、声をかけた。


「ねえ」


 びっくりしたように立ち止まった鴻介さんが、振りむきながら、やわらかく笑う。


「なんだい?」

「……寒いんだけど」

「ああ……今夜は雪らしいからね。一応、暖房の温度を上げておくが、劇的に改善とまではいかないかもしれないな。後でもう一枚、毛布を持ってこよう」

「ストーブとかは……」

「戦前、火鉢を使っていて、一酸化炭素中毒で亡くなった花嫁がいたらしい。以来、その座敷で火はご法度なんだ。一応、換気設備は整っているが……オノゴロさまがね。ご機嫌を悪くされる」


 わかってはいたけど、やっぱりろくでもない場所だ。

 ぼくは話題を変えた。


「……リアに会わせて」

「それは……難しいな。あの子が会いたがっていないからね」

「ウソだ」

「なぜ、そう思うのかな」

「それは……」


 だって。だってリアは……ぼくの味方のはずだ。

 お互いの身の上を打ち明けあったときの、あのしおれた笑みも。来てくれてありがとう、とぼくの手をずっとにぎっていたことも。

 あのときのリアのようすに、ウソはなかった。


 ……本当に?


 十年以上、いっしょに暮した家族だって、わかりあうことなんてできないのに。

 出会ってたった数日のぼくが、リアのことを理解したなんてことが──あるだろうか?


 黙ってしまったぼくに肩をすくめてみせると、鴻介さんは今度こそ地下室を出ていった。


 間もなく、夜がやってきた。

 オノゴロ童子の夜が。

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