第4章  ̄止常

 それは、とても清々しい朝の出来事だった。


 その日の綿貫わたぬきはとても憂鬱そうな表情を浮かべていた。


 昨日の出来事。

 ペットが猫を殺して並べていたことに衝撃を受けたから――ではない。


 自分が動じなかった

 後々になって冷静に考えると、猫の死体を見て動じないのは異常だ。



(俺はどうしてしまったんだ)



 同時に、何か重大なことを忘れている気がした。

 または大きな勘違いしているのかもしれない。


 自覚はあるのに、その内容・・は判然としない。


 自分の中にコトリバコ(女子供を殺す箱型の呪物)があるような、不気味な感覚だ。


 

(きっと、思い出さない方がいいのだろう)



 そう結論付けて、綿貫は布団を蹴飛ばした。


 洗面所で顔を洗って、適当に朝ごはんをんだ後、仕事着に着替えた。



 ヶケッ



 気怠そうなペットの声が聞こえて、綿貫の表情がゆるむ。

 音で起きてしまったのだろう。


 早速、鰹節とご飯を混ぜて食べさせると、ペットは嬉しそうに食らいついた。

 器についたご飯粒や鰹節までキレイに舐めとり、ご満悦だ。

 


 ヶケッ



「そうか。そんなにおいしかったのか」



 頭を撫でると、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。



 ヶケッ♪



 ペットと触れ合っている内に気分が良くなった綿貫は、顔を引き締めて玄関を押し開けた。



「猫野郎、仕事に行ってくる」



 外に出ようとした。

 その時。



 ヶケッ……



 ペットが足にしがみついてきた。

 表情からして寂しがっているのだろう。


 綿貫はペットの行動に対して、困ったような、でもどこか嬉しそうな表情を浮べていた。



「そんなに心配するな。すぐに帰ってくるさ」



 少し強引に引きはがすることに罪悪感を覚えながらも、綿貫は会社へと向かった。


 そして、綿貫はペットとの約束をすぐに忘れることになる。


 



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 施設に着くと、一人の女性が働いていた。



「もしかして新人ですか?」



 声を掛けると、見覚えのない女性はにこやかに笑った。


 服装からして、施設のスタッフ――つまり同僚なのだろう。


 

 この職場はかなりの女日照りだ。

 今までは若い女性なんて一人もいなかった。

 女性がいたとしても、オッサンと区別がつかないような女性か、全く笑わないし化粧もしない女性しかいなかった。


 そんなところに、現れたのだ。

 愛想がよくて、若くて、幸が薄そうな30代の女性が。



「初めまして。今日からお世話になります。乙葉おとばって言います」



 その女性――乙葉の笑みを見た瞬間、綿貫わたぬきの中で感情が弾けた。


 きっと、一目惚れと呼べるものだろう。


 気付いた時には彼女の手を握りしめていた。

 熱く、固く、逃がさなように。



「えっと、離してくれませんか? ちょっと痛いです」



 乙葉が困惑と苦痛の入り混じった表情を浮かべても、綿貫の瞳はトロンと溶けたままだ。

 完全にトリップしてしまっている。



「あなたは俺のいなくなった婚約者に、よく似ているんだ」

「はぁ……」



 乙葉は「ナンパで何度も聞いたセリフだ」と言いたげに、眉をひそめた。

 だけど、綿貫に気にする様子はない。



「なあ、今日は仕事の後、予定はあるか?」

「すみません、引っ越しの荷解きがまだ終わっていないんです」

「それなら、俺も手伝おう」

「お気持ちだけ頂いておきます」



 それからアプローチを繰り返したのだけど、綿貫は完全にあしらわれてしまった。

 だけど、どうしても諦めきれなかった。


 ことあるごとに声を掛け続け、そのたびにあしらわれ続けた。



 そして夕食時になり、事件が起きる。



「俺にも食べさせてくれないか?」



 老人の食事を介助する乙葉を見て、綿貫は指をくわえていた。

 老人は手足が不自由で、自分で食事することもままならない人だ。



「綿貫さんは自分の手で食べられるじゃないですか」



 毅然と言い放たれても、綿貫は食い下がる。



「それでもいいだろ」

「ダメです」

「一回だけでいいから」

「ダメです」



 それでもどうしても食べさせてもらいたくて、何度も押し問答を繰り返した。


 すると――



「いい加減にしてください!

 そんなに言うなら、自分の手の一つでもつぶして来てくださいっ!」



 乙葉は激昂して、どこかへと立ち去ってしまった。


 しばらくの静寂の後。


 介助されていた老人は癇癪を起こし、食事を辺りにまき散らせ始めた。


 周囲が阿鼻叫喚の中――


 綿貫は、真っ黒い瞳で自分の右手を眺め続けていた。




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 ガン ガン ガン ガン ガン、と。


 寮の裏手にて。


 まるで板金工場のプレス機のように、一定のリズムが刻まれていた。


 だが、音は機械のように無機質ではない。


 ところどころにグチャ、グチャ、ブチュ、と水袋がつぶれるような音が混じっている。


 その音の中心に、綿貫はいた。


 右手は大きな岩に固定し、左手には石を持っている。


 掴むのがやっとなほどに大きな石。


 それを、無表情に振り下ろしている。


 

 自分の右手に向かって。



 ガン ガン ガン ガン ガン



 相当痛みがあるはずなのに、リズムは全く崩れていない。

 額から脂汗が流れているから、痛みがないわけではないだろう。


 ただ作業的に、自分の右手をつぶしている。

 たったそれだけのことだ。

 


 ガン ガン ガン ガン ガン



 皮膚が破れる。



 ガン ガン ガン ガン ガン

  


 肉が削がれていく。



 ガン ガン ガン ガン ガン



 骨がむき出しになっていく。



 手の感覚が完全になくなったところで、綿貫はようやく石を置いた。


 石を振り下ろし続けた左手の指も、ボロボロになってしまっていた。

 右手は猛獣に食われかけたかのような惨状だ。


 

(なんか、もう少しやっておいた方がいい気がする)



 綿貫は自分の右手の状態がまだ不十分に感じられて、再度石を持った。


 すると――



 ヶケッ!



 ペットが、止めに入った。


 ペットは綿貫よりも大きく、力も強い。

 本気で抑え込まれてしまったら、抵抗することもままならなかった。



「おい、何をして――」



 綿貫はペットを怒鳴りつけようとした。

 だけど、その顔を見て、思わず息を呑んだ。


 大きく腐った瞳からは、涙が流れていた。

 頬を伝っている液体は、きれいな透明ではなく、ドブ水のように濁っている。


 だけど、ペットが主人を想って流した涙に違いない。


 綿貫は手を動かすのが億劫で、ペットの顔に頬ずりをした。



「すまん、これは必要なことだったんだ」



 ヶケッ……



 ペット



「あはは、ちょっと痛いだろ」



 綿貫の静止も聞かず、ペットは綿貫の手を舐め始めた。


 ザラザラの舌に痛みを感じながらも、綿貫はペットの気が済むまで続けさせてあげた。



「ありがとう」



 ヶケッ



 こうして、綿貫は自分の右手を再起不能なまでに壊してしまった。


 彼女の――乙葉の手でご飯を食べさせてもらいたい。


 たった、それだけの理由で。







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