絶望中毒



『絶望中毒』




 かび臭いビルの屋上の通風孔。


 森の中に響く肌へまとわりつくような虫の声。


 暗闇に吸い込まれるような波打ち際。


 みんな帰った後のオフィスのドアノブ。

 

 電灯だけがぶら下がる部屋の天井。


 疾走する電車のパンタグラフ。


 指先ほどの小さなガラス瓶。


 柔らかな舌先。


 ところどころ塗装の禿げた鉄橋の上。


 コンビニに売っていたカッターナイフ。

 

 鼻の奥を刺激する無臭の煙。

 

 一面の綺麗な花畑。


 

 絶望が手招きしている。


 誰も引いてくれなかった、この手を引いている。


 しがみつけるものはどこにもない。


 この足で踏みとどまる。


 

 いつだって、運だったと思う。


 あるいは度胸がなかった、とも。


 そうやって何度か目には、絶望にさえ見限られて、自分には行く場所など、どこにもないと知る。

 


 それならば、恨めし気に後ろを振り返るといい。


 目指す光が今そこにないのなら、背後の絶望と対峙すればいい。

 


 待つことこそが人間の希望だ。

 

 時間とは人間に与えられた絶対の権利だ。


 ならば、このいとまさえ、贈り物なのだ。

 

 

 生き延びろ。生き延びろ。望みを失うな。


 泣きわめけばいい。叫べばいい。


 他者を否定することだけが存在証明となる瞬間がある。


 絶望を否定しろ。否定することを熱量としろ。

 

 

 食い物もなく、餓死することだけが、たった今この瞬間の正義の全てだ。


 絶望にお前を食わせてはならない。

 

 正義のために、瘦せ細って、できるだけ惨めになって、生き延びなきゃいけない。


 

 食い物を失った哀れな獣を振り返れ。


 そして、正義の名のもとに鉄槌を下せ。


 その暴力に快楽を見いだせ。


 

 人は笑わなければならない。


 吐き捨ててやった唾液ごと踏みつけろ。


 汚い言葉をなげかけてやれ。


 耳を塞ぎたくなるような声を反響させろ。

 


 罪悪感など覚えなくていい。


 ここから出て行く瞬間に、ひとこと謝罪を投げかけてやれば、それだけでいい。

 

 

 ここに法などない。


 あるのは弱い者が食われ、強い者が食うという、一番単純な自然の摂理だけ。


 食う者が強いなら、食われない者になればいい。

 

 定言命法は捨てて行け。


 ここでは道徳なんか、ただの重たい荷物に過ぎない。



 希望の光が差すその日までは、絶望の主人となり、その尊厳を踏みにじるのがいい。


 支配者となる悦びは何物にも代えがたい。


 それこそが、今ここにある唯一の〝生きがい〟なのだ。




▼――『絶望中毒』――了

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