宇宙飛行士の恋



『宇宙飛行士の恋』




 私たちは何も知らない。


 宇宙飛行士はそのことを誰よりも知っている。

 


 私たちは恋に恋している。


 宇宙飛行士は恋を愛している。


 

 私たちの恋が終わるとき、恋慕れんぼは終わる。


 宇宙飛行士は、愛慕あいぼを始める。


 

 広い砂漠の中で、私たちはその内側に閉じられている。


 狭い宇宙船の中で、彼らはその外側へ心を開いている。


 

 想像力のを外すとき、私たちはどこへ向かっていくのだろうか。



 私たちが渓谷の向こう側へと足を運ぶ時。


 あるいは、誰かを愛する時。


 宇宙の果てを、私たちは直視する。



 光よりも速く。


 ヒッグス粒子よりも軽く。



 考えることは、きっと私たちに与えられた罰なのだ。



 私たちは、何かを背負いながら、生きている。


 私たちは、何かに吠えたてながら、生きている。


 私たちは、ただ産声うぶごえを変えながら、生きている。



 だのに、宇宙飛行士の足は支えない。


 なぜだか、宇宙飛行士の声は反響しない。


 よしんば、宇宙飛行士はずっと赤ん坊のままだ。



 人間とは、何か。


 宇宙飛行士とは、何か。



 恋とは、何か。


 愛とは、何か。



 何を与え、何を奪うのか。


 何を与えられ、何を奪われるのか。



 名前の意味と、この身体の重さと、心に刻まれたロゴスと、リーズン・オブ・ビーイングと、共同体主義。

 


 ソシュールを、愛に溺れさせたい。

 

 アインシュタインを、量子加速器に突っ込みたい。


 ヘラクレイトスを、人工知能に改造したい。

 

 キルケゴールを、酒でひたしたい。

 

 マイケルサンデルを、教室の片隅に座らせたい。


 

 私たちは、何も知らない。


 何も知らないことを知ったって、何も知らない。

 


 生きる意味など。


 生きる素因そいんなど。


 生きる根拠など。

 

 生きる理由など。


 生きる術など。



 ――本当は知りたくない。



 私は幸せになりたい。


 この罰を、宇宙の果てを、愛する人間でありたい。



 ピーエス――遠くの宇宙飛行士殿へ。


 世界は美しかったですか?




▼――『宇宙飛行士の恋』――了

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