いぬねこ異論



『いぬねこ異論』




 ここにひとつ、物申したい。


 ヒトは、とにかく犬派だとか猫派だとか、そんなことを決めたがる。


 あれ、何か意味があるのだろうか。


 

 思えば、目玉焼きなんかもそうだ。


 しょうゆ派か、塩派か、ケチャップ派か、というあの議論。


 私は気分次第でどっちでも食べるし、なんだったらソースとかめんつゆかけることだってある。


 あと、何をかけてるかに関係なく、追加でマヨネーズもかける。

 

 そういうのは、ダメか? もしかして、私は人として何か欠けていたりするのか?


 ともすると、私は、人としての自己確証とか尊厳を、「目玉焼きに何をかけるか」という選択に託すべきなのか?

 


 犬。

 

 犬という生き物はとてもいい。


 特にあの遠慮のなさがいい。


 打ちひしがれて、何もかも失ったと思った時も、空気を読めずに、のこのこ近寄ってきてしまうのがいい。


 それから、いつもと違う私の反応を見て、「あ、やっちまった」と、少ししょんぼりした顔になるのがいい。


 仕方ないから撫でてやると、舌を出して、笑ったみたいな顔をするのがいい。

 

 さっきまであんなに反省してるみたいなそぶりだったのに、すぐ忘れてしまうところがいい。


 彼らは、言葉が話せないことをいいことに、随分と好き勝手やっている。

 

 見習いはしないけれども、彼らを見ていると、私は少しだけ、笑って生きる気になってくる。



 そして、猫。


 猫にしたって、とてもいい。


 どちらが本当の飼い主か分からなくなるのがとりわけいい。


 勝手に私を生み出した世界は、そのくせいつまで経っても私に生きる理由をくれないが、猫はくれるのでいい。


 あまりにも素っ気なくて、ついつい、こちらから構ってもらえる努力をしたくなってしまうところがいい。

 

 時折興味を持ってもらえると嬉しくて、明日や明後日はどうだろう、なんて考えられてしまうところがいい。


 振る袖は持たずとも、遠くからこちらを眺めて振るしっぽを持っているところがいい。

 

 彼らが言葉を話さないのは、たぶん約束をする必要がないからだ。


 言葉の上にあるもの、言葉の先にあるもの、その両方を、いつの間にか私は知っている。


 

「でも、強いて言うならどっち派?」

 

 

 なぜ、強いる。なぜ、ヒトはとにかく派閥を決めたがる。


 目の前にある具体的な存在や、自分の感情よりも、なぜ、とにかく普通名詞を愛でたがる。

 

 大きな記号なんかに趣味や嗜好を預けたって、自分のことなど、何ひとつ分かりはしないのだ。

 

 

 例えばの話、私は人間が嫌いだが。


 あなたは、その限りではない。


 

 これはつまり、そういう申し立てなのである。




▼――『いぬねこ異論』――了

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