十五枚目:そして君の父になる

 飯田橋の駅近くにはバベルをまつ大神宮だいじんぐうがある。バベルと無関係な一般人には縁結びのご利益で有名だけど、関係者たちには地上からバベルに入れる唯一の入口として知らされている。僕もバベルの役員から話を聞く前までは前者と同じ認識だった。

 「ここからは歩いて移動します。全員、車から降りてください」

 JR線の飯田橋駅から歩いて町の中に入ると、途中から道の両側に春日かすが灯籠とうろうと石段になっている坂道が現れる。その石段いしだんは八十八段であり、昨日の夜から降った雪の白色とライトアップされた赤色の灯籠とうろうが鳥居にある道に並んでいた。コンクリートのビルディング街や石段に積もった雪が境内をいろどり、朱色しゅいろが真っ白いおそれ尊ぶ水の姿との鮮やかなコントラストを描いて調和している。

 手錠てじょう腰縄こしなわを打たれている僕は、夜明けに包まれて静けさに満ちた幻想げんそう的な風景に見惚れて、しばらく街の上に立ち止まった。これはステラに一度見せたかった、と思うものの、背後から急かされる言葉に早足で歩き始めた。

 「お薬が効くまでは無理しない方がいい」隣で一緒に歩いている香月さんが注意を注いで話した。「少しでも副作用が伴う場合は、約束した通り、近くの応急室へ連れて行くから我慢せず俺

私に言いなさい」

 「そこ、罪人と距離を置いて歩いてください。また、余計な会話は禁止ですのでご遠慮させていただきます」

 僕は今、罪人の身柄みがらで首輪と手錠がはめられたまま、人影のない街の中を歩いている。たとえ通りすがりの人がいたとしても、稲わらで作った筒帽——着ぐるみの頭に似たモノを顔に被ったおかげで、身元が割れる恐れはなかった。

 「余計な会話ではありません。主治医しゅじいとして患者に注意事項を伝えました。大体この悪天気の中で、患者を歩かせる君たちの方がナンセンスです」

 香月さんが声を荒立って言い返しても向こうは一貫して無視をする。僕は深く息を吐き出し、引き続き雪が積もった階段を上がった。皆、僕以外は同じ仮面を掛けているから顔を覚えることはできない。性別も分からない服を着た人群れが一列に移動する中で、無事バベルの入口である神社まで行き着いた。

 神社内は極めて五十人が超える人々が集まるには多少は狭い場所だった。

 「なぜ、汚らわしい罪人どもが俺と同じ道を歩いているのだ?」

 とアイマスクを掛けた何者かがアイマスクを掛けた他の人に理由を問い詰めた。しかして誰もそれらしい理由を口に出さなかった。むしろ、その人から距離を置いて会話を避けようとしている。

 「『バベルに入る道は一つであり、陽様のやさしい花園から生まれた花であれば、差別されることなく、皆が同じ道を歩む兄弟姉妹きょうだいしまいである』。バベルが定めた規則に従って罪人と分類された花でも、バベルに入る時だけは、陽様の名の元で愛しい花です」

 「無礼者め!この方が誰だと思って口答えをする。この方は、自明じめい党の中でも最も次期総理に近い杉田すぎた様だ。早く謝罪の礼を尽くしなさい」

 途端とたんに雰囲気があわただしくなり、大声を出した二人を中心に人々が丸く集まった。僕と香月さんは一歩離れた所で状況がどう流れるかを見届けた。

 「『バベルが定めた規則は絶対的』。『バベルは陽様が建てた聖なる場所』。『陽様の言葉に逆らう人は、陽様が作った花園に入られぬ』」皆が合唱するように口を合わせて喋った。「感謝ができない人が陽様の楽園に入るより、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしいと考えられます。ゆえにお二方はご自宅にお戻りください」

 群れの一人が代表として頭を下げて二人を丁重に降りる階段まで見送った。二人は追い出される最後まで何かを言い出そうとしたけど、結局、地面に放り投げされ、ねんいり声をあげた。が、全然相手にしてくれなかった。

 僕は顔を伏せて後ろでできるだけ目立たないように気を配った。バベルのことを宗教レベルで信奉しんぽうする集団の噂は、現場にいる時に小泉さんから、「偶然ぐうぜんでもすれ違わない方がいい」、と注意された覚がある。ちなみに正式な名称ではないが、TGCではサンライズ団体を、やくしてエス団と呼んでいる。

 陽様と言う唯一無二の存在が、ある日、突然人類の前に現れ、全くの虚無から本当の意味での創造が可能であるという概念を人々に照明した以来、集まった追従者エピゴーネンの手によって作られた団体がエス団だ。以下の事柄は、直接見聞けんぶんした訳ではないが、噂によれば、もっぱら言行をもって周囲にも陽様の教えを伝える変な集団に見えても、バベルにも所属されている知的エリート層や芸術家が多くいるため、決して敵に回してはいけない集団らしい。

 今は、その内容が大袈裟ではなかったことをよく知った。

 「時間になりましたので全員、一列に並んで階段に上がりましょう」

 雲の扉が開かれたように空から千本の鳥居とりいが神社まで降りてきた。多くの鳥居で形成された朱色のトンネルの中に踏み込むと、しの元で歩むように、途中で吊り灯篭から柔らかい光が灯った。冬の背景から朱色の方形が遮られることなく、合わせ鏡の間に入ったかのような不思議な感覚に襲われ、宇宙うちゅうまでずっと伸びる光景に目を奪われた。

 透明な階段に足を踏み出し、未知なるものへの恐怖は地上に置いて雲の下に寄り添って歩いた。雪風が吹く天気の中で鳥居の中は揺れることも洞窟の中を歩くように静かだった。高さ的に東京タワーを超えた頃、ふっと東京の影が遠い地平線の向こうに沈み込み、視界の端っこで雲の中から何かがここに近付く場面が視野に入った。

 圧倒的な存在感で人類を脅かす石造建築物が日本列島上空を覆っている雲から徐々に姿を現した。あれは、とうだ。実物を近くて観た日は今日が初めてだけど、直観でバベルの塔であることに気づいた。至高な存在が宿る塔は、途中から建てかけたビルのようにいつ地上に落ちるか分からない不均衡ふきんこうさを保ちつつ、空中で逆さまになって一階が天辺にあり、最後の階層が底にあった。奇妙なパラドックスだ。普通はあり得ないことを、認識の歪みとして除去すれば、正常な現象として見えてくる。僕はそう思って鳥居の隙間から見え始めたバベルに感心した。

 「着きました。各自、検問所けんもんじょから指定された席を案内してもらって会場まで進んでください」

 鳥居のトンネルから抜け出して逆転した塔に着くと東京ドームより広い荒野が人々の前に現れた。その上には、花も他の生物もなく、不自然な空白を空間に埋め込んでいた。ただ一つ、例外として、古い建物一軒が壊れた大理石の柱などと一緒にぽつんと置かれていた。風が長年間、壁側に悠遠ゆうえんの時を刻んだように、円形の建物は半分以上が元の姿を失っている。

 「罪人の主治医として同席する予定の香月家のモネと言います。私たちの席まで案内してもらえますか?」

 「恐れ入りますが、出来かねます。罪人が座る席と参加者の席は分かれていますのでルールにのとってって着席をお願いします」

 「事前に話は通しております。これ、地上にいる間に使っている電話番号です。必要であれば確認してしていただいても構わないです」

 「地上からの話はバベルでは通用しません。お手数お陰しますが、バベルのルールに従ってください」

 「はあ、口喧嘩する気力はないから、上の責任者を呼んでください。または、龍崎家の人を呼んでください。中にいるでしょう?」

 「お下がりください。これ以上は公務こうむ執行しっこう妨害罪ぼうがいざい現行犯げんこうはんとして逮捕になります」

 荒野に入ってから体感的に十分ほど歩いてようやくアゴラが開催される建物の入口まで着いた。中に入る前にいくつか身分証明書を提示させてボディーチェックを受けた。問題は、その後に席まで移動する際に起きた。多少、体の具合が悪かった僕を一人にできなかった香月さんが入口で立ったまま、スタッフと舌戦ぜっせんの花火を散らした。その間に僕は空の上に人類が建てた文明を隣で打ち見た。生臭い土の匂いが壁から顔に迫ってくる。一体、誰がこれを建てたのか不思議に思った。

 「ネネはあそこにいるの」

 耳元からステラの声を聞いた。

 僕は、香月さんに事実を伝える前にステラの手に引かれ、アゴラを支える柱の間の柱廊ちゅうろうを歩いた。周りからアゴラの内部に入ることを阻止されたけれど、手錠を破って強引ごういんに突き破った。僕は、光も入らない闇の通路の中で、ひとえに赤い炎が毛筆もうひつのように一線をしたため始めた。目にはうつらない音や湿度を無の空間に描き続けて、抵抗する人々は木炭のあかりの輪の中で黒い灰の渦となってほこりのように消えた。やがて、そこから通り抜いた僕は、広場の真ん中にひざまずいているアリマを見い出した。

 「アリマ!」 枯れた声で人の名前を叫ぶ。「君は、今日から、炭咲たんさき有馬アリマだッ——」

 物凄い勢いで義理ぎりむすめを人の前で呼び掛けた。慌てるアリマの顔が遠くからでも見分けができる。うまく物事を人の前で進めるには守るべき順番があり、それを通してから初めて周りを説得できる力を持たせる。その過程を全部省略しょうりゃくするとだいたいは失敗で終わる。僕も当然ながら知っている理屈だけど、深く考える前に可哀想にアリマの顔が見えて、先に自分の娘だと宣言してしまった。

 付け加えると、アリマを僕の戸籍に入れる書類上の手続きは、香月さんの人脈を最大に活用してなんとか処理を行なっている最中だ。——と、香月さんから聞いた。確かに人事を尽くして天命を待つのたとえ通り、自分にできることは我武者羅がむしゃらになってやった。アゴラが開始する前に間に合うかは、片腹かたはらに釈然としない痛みを感じているが、無事に終わることを祈っている。 

 「地上から来た小さな花よ、なんの騒ぎだ」 

 広場の手前に置いてある監獄かんごくに閉じ込められた老人の壁龕へきがんが人の言葉を喋った。周りが不意をかれて、その圧倒的な声量に気圧されたように、内部の空気がゆがむ。それを扇形おうぎがたに取り囲むように湾曲わんきょくした木材の長椅子ながいすが七十台ほど並んで、顔を隠した人々がその場に鎮座ちんざしている。

 僕は挨拶代わりに会釈えしゃくを返して真ん中にあるステージに降りて行った。全体的に罪人を低い場所に置いてアゴラを行う模様だ。

 「オレの娘が皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません」

 「俺の娘?先ずは名を名乗れ、小さな花よ」

 「炭咲たんさき千春チハルと言います。今日からこの子の父親になる者です」

 俺の言葉に、今まで口をつぐんだ人々がざわめいて僕を見つめた。前に居る壁龕は一瞬、眉をしかめて反論を述べた。

 「事前に読み終わった報告書には別の親に関する内容は記載されていなかったと覚えている。今の話に嘘はないのか?」

 「はい、嘘ではありません。またもう一人、俺の娘だった子がいます」

 「その花は、誰だ」

 「ステラと名付けた女の子です。世間には各務家の末井と呼ばれていた子供です」

 話がここまで進むと場内はより一層騒がしくなった。僕の話は特定した人だけではなく、この場にいる皆に影響力をもらした模様だ。

 「ふ、ふざけるな。末井は、俺の娘だッ!」

 発言の源は後席で座っていた各務家の当主である。やつれた顔から予想していたのよりは声に張りがあり、深いしわが刻まれている。俺は彼の発言を無視して目の前の老いた顔面との話を続けた。

 「ノバナだったステラを俺が拾い、名前をつけてあげました。調べればすぐ分かりますが、TGCに通報された時に保護者の情報欄に俺の名前が書いてあると思います。実際、ステラも俺を父親パパとして認識してしばらく一緒に暮らしました」

 「炭咲の千春と言う名前は、TGCから貰った資料から見たことがある。でも、小さな花よ、君の発言には中身が空っぽなままだ。根拠こんきょ証拠しょうこも足りない状況では、ここに集まった他の花を説得できない」そして、壁龕は言った。「何よりも君は発言権がない状態で話を持ち出した。急いでいる気持ちは分かるが、取り敢えず、自分の席に戻って次のアゴラに参加するが良い。ルールは絶対的に守らないと混乱を招くからだ」

 アゴラに入り込むことだけを考えた俺はその場で次の作戦を一生懸命に絞り出した。説得させるための手段が足りない現状をひっくり返す何かの手段が必要である。

 「馬鹿な人。炭咲さんはここに来てはならなかった。どうしてあなたまで来て状況を悪化させるのですか?私をネネの代わりにするつもりで来たとは言わないでください」

 「まあ、なんの準備もせずに来た俺が言うのも変ですが、一応助けに来ました」俺は怒りが染み渡る言葉を聞きながら、僕を捕まえにきたスタッフの手から逃れた。「正直なところ、アリマがどんな罪を犯して逮捕されたかは興味がありません。俺はただ、今更、ステラが最後まで望んだアリマのパパになるために来ました」

 「ありえない、ありえない、ありえないです!ネネは、私ではなくあなたのことを心配にしました。自分を攻め込むから守ってあげなさい、と私に遺言まで残した。それなのに、あなたはその気持ちを無視して、自らバベルに寄ってきて死のうとしている。一体、何を考えていますか、あなたは?」

 それで満足したのか。俺はしばらくの間、アリマをじっと見つめて、やがて固まった表情を和らげてから、雰囲気にそぐわぬ苦い笑みで口元を飾った。今更事新しく述べるのも遅いが、ようやくステラの意中を察した気がする。

 「呆れた。今までの努力が台無しになって絶望のどん底に落ちた私の前で普通に笑えますか?それとも、悲しくて惨めで人生そのものに腹が立って、とても笑えずにいられないとでも言うのですか?」

 「ごめん、ごめん。これは俺が悪かった」

 笑いの波がひくまでの間をおいてから、僕は次の話題に入った。

 「俺が知るステラはアリマを誰よりも大切にして、小さく些細な心遣いを持って人と人との間を円滑えんかつにさせる優しい子だった。今の笑みは、あの子から預かった願いの意図を知って、普通に嬉しくて笑ったのだ。決してアリマの機嫌を悪くするつもりはなかった」

 アリマに近寄る人がいたから、首を掴み締めて灰にした。

「前に俺の家で壁に貼ってある写真を見ただろう。あれは、家族を見捨てた父親に復讐するために立てた人生計画だった。色々あって今は駄目になったけどね」

 俺の話にアリマは耳を持って口を黙った。

 「アリマがネネの父親になってください、とお願いしたことを覚えている?あの時、何ですぐ答えられなかったか自分なりに理由を考えてみた。言い訳と同じ理由を言い出して断っても、やはり本音は、俺も父親あいつみたいに駄目な父親パパになるのではないかと怖がっていたと思う」

 俺が見届けてきた父親の背中は頼りにもならない世俗的な人であって、亡くなった母親の優しさには訳ありの理由隠されていた。そんな二人の血を継いだ過去の記憶が、万が一でもステラや他人の人生にまで影響を与えないかと内心ヒヤヒヤした。

 一夜、その小家族こかぞくを燃やして輝いた炎は、俺の人生に決定的な影響を与えた。わずか七歳の少年が、父親に復讐ふくしゅうしようと決心して幼年ようねん時代を送ってきた。それは、死の上に眼を据えた生き方であり、普通とはとても言えないほどの壊れた人生だった。

 「だから、父親に似たような大人にならないように常に意識して生きて来た。父親の蛮行ばんこうに対して俺の手で償わない限り、先に行った二人に許されない限り、自分の人生を始めることすらできないと勝手にいのちの場所を定めた」最後の一人まで倒して、俺はアリマと目を合わせた。「仕事先で帰ったら部屋の暗闇が僕を目迎えて、冷めたコンビニの弁当が僕の空腹を満たしてくれる無彩色の日常に慣れる頃、俺はステラと出逢えた。本当に偶然だった」

 僕がステラに名付ける前は、あの子はただの野花ノバナに過ぎなかった。僕があの子をステラと呼んだ時、ステラは俺のところに来て意味を持った一枚のはなになった。僕がステラに、ステラが僕に忘れられない目顔になったように、互いが互いの花になりたがる花園の中で、君にも花が咲く頃が訪れるとアリマに伝えてあげたいのだ。

 「これは俺の意地にもやりげたい事だと思う。勿論、無茶な話であることは自覚している。それでもアリマには俺を信じて欲しいと言いたい。君を大切に思ったステラのパパである俺が、大事な娘の願いを叶えるために頑張る姿を、まだ未熟で頼りにはならないけど、最後まで見届けて欲しい」

 告白に聞こえる話を平気に喋ってから急に恥ずかしくなり、アリマからどんな顔にされるかが、やけに不安になる僕だった。

 「本音を聞かせてくれてありがとうござます」とアリマが反応を見せた。「すみません。実は私、まだ炭咲さんに言ってない話があります」

 何を、と言い返す前に何かの者によって地面に引き倒された。相手は先日から俺の人生に絡みついている不気味なカカシだった。

 「待って待って待って。こんなに面白い話をヨウを除いて語り合えるとはずるいぞ、アリスよ」

 頭の上から空間を裂けるような声が響いて聞こえた。また、温かい外風にみぞれがまじって吹いてくる。貴女ぐっと上がり、周りの騒めきが静かに収まった。

 「退け——」俺は体を押さえているカカシの体を左手で掴んだ。「俺の上から退けって言ったろ」

 赤い炎がカカシの一部を燃やして灰にした。全身に火が広がる前にまたどこから大きいハサミを持ち出して左足を切り取る。綺麗に斬れた部分からは速い速度で生気を失った麦わらが新しく伸び始めた。

 「炎…?ああ、なるほど。あの夜に燃やした種がを吹き出したのか。実に面白い」と俺の話を聞いた謎の存在は、豪傑ごうけつに笑い声を立てた。「小さい花よ、もう一度お名前を聞いても良いか?」

 自分のことをヨウと名乗った存在が、壁龕アリスの頭の上から俺の手前まで降りてきた。首がない、と僕ははっと息を呑んだ。首の断面が違和感があるほど綺麗にツヤツヤだった。衣服と思われる身なりは、紫色の裂地きれじと八角形の布を重ね当てて一枚を半分に切り、体に掛けた感覚で着ている。日本と言うよりは、古代のヨーロッパから来た風采ふうさいを人影から漂わせた。

 「オ、わたしは炭咲千春と申します」敬語で言わないと駄目な気配がして相手に『私』を使った。「娘がどんな過ちを犯したか分かりませんが、ここはどうか空の広い度量どりょうでお許しください」

 「赤の他人から見捨てられた娘を自ら義理の娘に迎え入れて、更に代わりにお詫び申し込んでいる。アリスよ、人間の情というものが犬畜生いぬちくしょう欲情それと境界線が曖昧になった今のご時世にしては、彼の話は珍しく思わないか?」と首なしのヨウがひたすら感心かんしん感嘆かんたんした。「その様であれば、娘が犯した罪も知らせる義務はあるだろう」

 ヨウ様、と壁龕の老人が困った声を出したが、手のひらを前に出した。

 「ただし条件がある。ヨウが造ったカカシを倒して見せろ。それくらいの覚悟がないと話にならない」

 カカシは意気揚々とした様子でハサミを振り回した。

 「どうだ、難しそうであれば条件を変え️——」

 と聞くヨウに向かって俺は答えた。「娘を罪から救える方法も教えてくれるのか?」

 「それは炭咲千春と言う父親の次第で、解決できる問題になるか、あるいは永久の償いになるかが決まると思う。勿論、嘘はつかない」

 確信を得た。俺は、それを聞いて迷わずカカシがいるところに進んだ。カカシから不気味ふきみなことを聞いたけど、気にはしなかった。相手の動きに集中して最小限の振る舞いで避けて、右手に火力を集める。そしてカカシが油断した瞬間を狙って、胸ところに木炭を差し込み、中から錆びた懐中時計を取り出した。今度は油断せずに時計を先に壊すつもりで力を入れて潰した。

 「おや?一瞬で終わらせて良かったのか?カカシとの間にまだわだかまる古いうらみがあったようだが……」

 「カカシにもう要件はないので大丈夫です。それより私との約束はどうなりますか?まだ何か必要ですか?」

 ヨウはしばらく考え込んだ後、落ち着いた声で命令を出した。「良かろう。アリスよ、娘がやらかした犯罪行為の名目を手短に伝えてあげろ。あまりの時間を取りそうであれば、途中からヨウが割り込む」

 「しかし、ヨウ様。バベルのルールを破るまで罪人に気を遣う必要はありません。他の花に反感を買う事態になります」とアリスが懸念した強い懸念に捉われた様子で反論をした。「一度、これに関して議論をした上に決めることはいかがでしょうか」

 「君たちは、いつもそうやって都合がいい時にだけ民主主義を云々して、陽に逆らおうとする」首がないヨウが不機嫌な表情を浮かび、続いて語り述べた。「時の始まる前に何もないところから、絶大な存在である陽が、何故、不完全な被造物の一顰一笑いっぴんいっしょうに気を遣わねばならないのだ。アリスよ、古代から賢者の器を持った君なら、その理由を説明できるか?」

 絶対者の質問にアリスを含めて場内にいた日本の代表者たちは無言で一貫した。ヨウは、あれが大人のやり方だと思っている俺に向かって後ろから親指を上げた。まるで俺に今の場面を強いて見せつけるかのようだ。

 「ちょっとした余興よきょうに過ぎない。深くまで考えなくてもいい。問題はなりそうであれば普段通りアリスに処分を任せる」

 アリスは自ら尻尾しっぽを巻いてヨウの言葉に従った。「……各務有馬はバベルで禁忌タブーにした樹の一族について遺伝子情報を盗み、人体実験を行なった。更に樹の一族の遺伝子と各務家の卵子らんしを組み合わせて新しい花、青薔薇アオバナを生み出すことで花園の主人である陽様の名を汚す行為を犯した。犯罪の動機は——」

 「お見事だ。流石に元賢者の話術は巧みである。これで娘が何の罪を犯したかは、通りすがりの犬でも一目いちもく瞭然りょうぜんで分かるだろう」

 「お褒めに預かり光栄です」と、やむを得ず状況に照れ隠しに微笑みを顔にかける。

 「さて、炭咲の名を持つ花よ。君は今の話をどう思うか聞きたいのだが…、まだ考える余地が必要か?」

 「根本的な質問をしてもいいですか?」俺はアリスの話を聞いて思った。「一体、樹の一族とは何ですか?社会的犯罪を犯したと言うよりは、樹の一族に関わったから罪になった風に聞こえます」

 指摘された内容にヨウが答えた。「大元おおもとの罪目は拉致と人体実験、および殺人未遂みすいなどの犯罪類になるが、小さい花が言った通りに処罰対処になった原罪げんざいは『樹の一族に関わらないこと』を守らなかったからだ。君の質問に答えると樹の一族は陽の玉座を脅かす一族であった。まして、各務家の娘は陽の意志に逆らった一族と同じ道を歩んでしまった。どうだ、話の答えになったのか?」

 「ただそれだけの理由で今まで人々を処分して来ましたか?」呆気ない理由に反吐へどが出た。「結局、バベルがアリマを捕まえた理由は、合理的ではなく、単なる陽様のおおせのままに書いた規則に基ついている話になりますね」

 実に馬鹿馬鹿しい話だ、と素直に怒りを感じた。バベルは、基準にしてはならないもとを持って人を判断している。僕は法律ほうりつについて詳しく知らないが、あくまで人を処罰するためではなく、事前に犯罪を防いで社会と言うシステムを保つために存在すると思っていた。が、今日でその信念が打ち砕かれた。

 「口をつつしめ。陽様の眼前で無礼な口を利かないように注意しなさい」かっとなった各務家の当主が話に割り込んだ。

 「首を突っ込むな。これは陽様と俺の間の会話だ。テメェが口を挟む場ではないから、黙って見届けばいい」

 俺は手のひらを叩いて黒い木炭に赤い火を起こした。久しぶりに不合理な話を聞いて冷静な状態で胸が熱くなった。

 「話を戻すと、アリマがここに引き摺られて来た理由は、全部、陽様のお望みに応じなかった理由でしょうか」

 「ここは陽の花園、君たちは陽の花だ。陽の役目として、道を迷った花には適切な指導を、道を外れた花には道に戻れるように正しいしつけを付与している。時には美しい花を咲かせるために試練を授けるが、今回の件はそれとは関係ない。単純に、花が間違った道を歩み出して、純潔さを失ったせいだ」

 「あ、陽様の話はよォく理解できました」俺は歯を食いしばってお礼を言った。「思ったより人間的な思考回路を持っていて安心しました」

 「?それは、どう言う意味だ?」

 首がないヨウの姿を見て、最初は無意識的に全知全能な神の顔を想像していた。ところがあいにくなことに、今の発言を聞いて、あいつの顔がふと頭の中をよぎった。それで良い、と握り締めた拳に力を抜いた。

 「いいえ、何でもありません。答えてくれてありがとうございます」と礼儀正しく挨拶の言葉を渡す。「話が変わりますが、娘の罪が許される方法を教えてください」

 ヨウは腕を組んで俺のところに近寄った。「炭咲の名を持つ花よ、陽に聞きたいことはそれで終わりなのか?」

 「はい、他は大丈夫です」

 「…それで態度が急に変わったのか。なるほど、確かに一理はある」と首がないヨウが小さく呟きながら頷いた。「一つ、陽からも質問して良いか?」

 「どうぞ。オレが分かる範囲であれば何でも答えますよ」

 「陽と対面してどう思う。何を感じたか正直に言って欲しい」

 「それは初印象のことでしょうか」

 「初印象?」俺の問いにヨウのテンションが高くなった気がした。「良かろう。初印象だけではなく、その後の印象も、ぜひ聞かせてくれ」

 俺は思うままに話した。「最初は、天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそん的なナルシストで人智を超えた存在に見えました。今は、傍若無人ぼうじゃくぶじんな印象で、首なしの状態でご飯はどこから食べるのか気になっています」

 「小さな花は、陽が食事をする姿が見たいのか?」

 「いや、別に見たくはないです。ただの興味があるだけで済みました。良かったら地上に降りて来る際にファミマーの『大きな鮭はらみお結び』と牛乳をぜひ試してください。美味しいです」

 その話を聞いて、「アハハハハハ」と、ヨウは腹を抱えて大笑し、何度も手を打ち鳴らした。時ならぬ大笑に場内は図書館のように静かになった。ついでに言って置けば、俺は恐れることもなく、むしろ淡々としていた。だがそこには、ヨウに対するはっきりとした訳を掴んでいた。

 「愉快だ。実に愉快な小花コバナである。久しぶりに笑ったせいで顎が外れそうな気分がする」本当に楽しそうに感想をう。「アリスよ、君もそう思わないか?陽は最後にあの子がどんな花を咲かすかが楽しみになって来た」

 「誠に嬉しく存じます」と謙遜な心持ちで言葉を惜しむ。

 「そこでだ。娘の判決を陽が下したいが、アリスを含めて皆の意見を聞きたい。どうだ。百年ぶりに罪悪感を感じない判決の結果を味わえる時間を陽が再び授けてあげよう」

 初めてのお呼びに黙って状況を見届けていた皆が一斉に席から立ち上がった。たった一人を除いてヨウの提案に同意をする模様だった。

 「いや、いや。子供の遊び場でもあるまいし、自分勝手に有馬の処分を決めても良いですか?」と言いながら俺の方に指を差した。「おい、小僧。邪魔だ。罪人ならば罪人らしく席に戻って判決を待ちなさい」

 「各務の名を持つ花よ、邪魔をする者は君のことだ」

 またたく間にヨウが各務家の当主に移動してその指を折った。悲鳴を上げる時間もなく口が封じられ、気を失った。非常に過激かつ適切と思われる対応に息を殺して見守った。

 「当主様の言う通り、無茶なことはここで辞めましょう。陽様は炭咲さんが思うように人間らしさを持った方ではないです」

 ひたすら人のことを心配する娘の頭を冷めた手で優しく撫でてあげた。「大丈夫だ。俺が何とかする」

 「何とかって、はったりをかます相手が間違ったことを未だに気づかないですか?」と、そのようなこと言うものでないとでも言う怒った顔なのに涙ぐんでいた。「炭咲さんは誰にも望まなかったことを堂々と言い表してくれるから、まことに私を困らせます」

 「ステラの望みでもあるからね」

 「ネネは最後にどうでした?」慎ましい態度でステラの最後を言い出した。「何か言い残したことはない?私のこととか……」

 人によっては冷たいベットの上で死を迎えたと覚えるかも知らない。しかし俺と死の寸前で顔合わせしたステラは、とても元気そうな顔を愛しい笑みを見せてくれた。最後の最後まで、自ら妹と思うアリマの心配をしながら、闇の彼方へ長い旅に出た。

 「とても幸せな顔でアリマのことをよろしく頼むって云った。まあ、夢の中で聞いたことかも知らないけど」

 「……そうですか?また私は姉さまを…最後まで迷惑ばかりかけましたね」

 俺はもう一度、アリマの頭の上に手を乗せて心の底に沈めて置いた言葉を取り出して伝えた。「アリマは充分頑張った。それでいいんじゃない?具体的になにを頑張がんばったのかは知らないけど、アリマのおかげで、俺はステラと家族になり、ここ最近で一番幸せな日々を過ごしたわ。ステラもきっとそう思うよ」

 僕は柔らかい笑顔で、ステラの代わりに、よく気を配ってくれてありがとう、と礼を述べた。

 「……余計なお世話です」

 俺の褒め言葉を聞いてアリマはうつむいたまま、今まで我慢してきた涙をポロポロとこぼし始めた。俺は何気なくアリマの前に立って、人のかげにアリマを隠した。

 本人から家庭の事情は詳しく聞いてないし、あえて口にするつもりもないけれど、自己中心にしか物事ものごとを考えないわがまま坊ちゃんであった俺には、数日前には到底考えられぬ大それた仕草でアリマを慰めようとした。

 とある意味でオレは、ステラに感謝している。ステラがなかったら、ほんの子供ガキだったボクが、誰かの保護者パパになる機会は来なかったかも知らないし、子供むすめのために命を捨てれる覚悟の意味すら分からないままで先に寿命じゅみょうが尽きたかも知らない。

 「お父さん、僕が書いたもの見てください。この公式であれば問題を解けました」

 各務家の姉妹と共に暮らして、昔の自分を思い出した。わがままでもともと短気な性格であった。何かを判断をするよりは、ありのままのことを見て、ありままのことを口に出す。分からないことがあれば絶えずに質問をしてくる。注目されたい時には、ちょっとした悪戯心いたずらごころで、父親の気を引くこともした。その際は父親に怒られ、叩かれたけど嫌いにはならなかった。何でだろうと未だにも不思議に思っている。

 「私が、誰のためにそのプロジェクトに参加した知らないのか?」

 なんでこのタイミングに父親の言葉が思い浮かんだのか、僕は深く息を溜め込んで吐いた。頭では知ってても胸の奥にはまだ父親へに逆らいがたいもろさが内面に潜めて、僕が来ることを待ち構えている。認めたくないが、父親を認めようとする自分を否定できない気持ちが人を苦しませる。分かっている。分かっていても、まだ、僕には猶予ゆうよ期間が必要だった。

 「アリスよ、判決のことだが、陽の考えには、古典的なやり方に戻ることを提案したい」自分の席に戻ったヨウがアリスに話題を取り上げた。

 「と、おっしゃる通りであれば、いつの世代の事でしょうか」

 「陽が太初はじめに語った『追放』時代のことばおこないの話をしている」

 ヨウが出した話題に、場内の人々も動揺する動きは特に見当たらなかった。考えられる可能性としては、東京かあるいは日本と言う国からの追放があり得る。しかし追放それについて考える前に、太初を基準いつにするかを明確に知らないと、当の俺を含めて、この場に集まった人々がそれの意味を知る道理はない。

 「陽様の仰せのままに、降臨祭こうりんさいをご用意いたします」と申し付けられたアリスは天地が覆るように大きな呼吸を吹き出した。「バベルよ、此世このよ降臨こうりんされる太初のほのおを眠りから起きて迎え入りなさい」

 立っている地面が横に震え始め、揺れが激しくなると同時に石畳の地面が下に崩れ落ちた。わずか一分間で起きた崩壊は、俺の足先で止まった。大きくできた穴は塔の中心を通り抜けて、小さな羊雲ひつじぐも筋雲すじぐもそうをなしてぽつんと浮かんでいる東京上空が肉眼で見えた。吹き抜ける風の音が人の悲鳴のように耳に響いて聴こえる。

 更に全ての光が弱まり、辺りに黒い闇が広がり始めた。形なく、虚しく、闇が訪れ、何者かの息音が大気の渦を覆っていた。

 ヨウは「炎があれ」とわれた。すると一瞬の間に猛烈に燃え上がる太陽ほのおの塊がヨウの首の上に現れ、光と闇とを分かれた。続いて炎に右手を入れて左手を後ろに隠した状態で巨大なハサミを取り出した。カカシが使ったハサミよりも熱く、今でも火が付いて赤赤あかあかとしている。

 「炭咲の名を持つ花よ、陽の真の姿を見届けた感想はどうだ」

 強烈な光で目が遠くなりそうだ、と思うものの、目の前に現れた光に惑わされず云うべき話を口に出した。

 「俺たちを地上に追放するお考えでしょうか?」

 ヨウは答えた。「いいや、違う」

 そして、続きの代わりに真っ赤に熱せられた刃物俺の首に当てて追放の意味を告げた。「陽の庭から追放されることは、そのものを意味する」

 じゅくした果物を眺めるように、炎が風吹かぜふきに軽く揺らめいた。俺は、判然はんぜんした答えに奇妙な安堵感あんどかんに包まれた。素直に嬉しいと言いたいところの、今の有様をアリマに見せたくない気持ちが同時に存在した。

 「あの、父親の自分が身代わりになっても問題ないでしょうか」

 「小花よ、どう言う話だ?」感情を隠した太陽の塊が俺の返答に少し揺れ動いた。

 「追放のことです。アリマの代わりに俺が追放されることで娘が許されるかを聞きたいです」

 「君は、死ぬことがもはや怖くなくなったのか?」

 「まさか。七年前も今も死ぬことは怖いです。もしできることなら、死のさかずきを過ぎ去らせてください、と言いたいところです」僕は固唾かたずを飲んで話を続けた。「しかし、俺の望みのままにではアリマを罪から救えないから、ヨウの御心みこころに任せたいと思っています」

 返答を聞いたヨウは瞬くの間、沈黙を守った。既に、他のことは頭に入らなくてなった。ただただ、闇の中で輝く赤い炎だけが視界にいっぱいに占めていた。

 「何ですか、その理屈は。何で炭咲さんが私の代わりに死なないといけないですか?意味不明です」とアリマが裏返った声で叫び出した。「各務家の問題をあなたが背負う必要はないですよ。特に私を救うために自ら命を犠牲に見捨てるなんて、私としてはもっとも望ましくない選択です」

 「そんな顔をするな。全ては俺の計算通りだ」と言いつつ、後ろ向いてアリマと目を合わせた。「多分俺は、もうじき死ぬだろう。だから、ちょっとくらいはパパとしてカッコつけさせてくれよ」

 「病気のことであれば、ご心配無用ですわ。各務コーポレーションで積極的に支援してあげることを約束します」すぐにでも泣きそうな顔で俺に取り縋る。「だから、だから代わりに死ぬなんて言わないでください」

 俺は大丈夫だと首を横に振った。「ありがたい話だが、体のあちこちが壊れてバベルに来る前から薬がないと両足で立つことすら難しい状態になった」

 薬の効果が切れる時間が近づいたように手足が震えた。口の中もだいぶ枯れている。終わりが、すぐそこに来た。最後にアリマの顔を眺めた。言葉で説明できない何かが心の中に生じて、不思議な気持ちが肌に伝わった。

 「もっと早く君たちの父親になってあげれなくてごめんね」と笑顔で別れを告げた僕は足を引きずって巨大な穴の前に立った。

 ひざまずいて穴から見下ろした巨樹は小さな木の芽に見えた。俺の眼に映った世の中は悲劇で舌先に塩っぱい味がしたのに、高い所から眺める東京は平和に酔って溺れている。一生をかけて住んだ町も遠くからは、無数のフィギュアが並べられているようで小さく感じる。木に目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ残念な言葉を流す間に陽の光すじが、一寸いっすんきざみに地面を這いすすみ、壁龕アリスの上を通り過ぎて、俺がいるところまで寄りかかった。

 背中からヨウの気配を感じる。俺は思わず吐息といきを漏らし、目を瞑った。ここまで来て頭の一部では、アリマを一人だけ置き去りにすることが心配になり、自ら生の欠片を未練がましさが感じられた。

 さぞかし、あの子は俺を引き付いて来ようとするだろう。

 「アリマ!君は、炭咲家の娘だ。これからは俺の言うとおりに、いい子じゃなくて自分らしく生きろよ」

 脅迫らしき文を遺言として言い残して、俺は、穴の奥に吸い込まれるように落ちた。地面に落下させる平和的な処刑方法で、以外と優しい判決だと思った。が、遠くなる塔を見上げた瞬間、会議場の床に倒れた自分の体を見つけた。そうか、今落ちているのは俺の首だけだ、と呆気ないほど静かな死にひどく感服かんぷくした。

 世界がぐるぐる回る中、傷口から生まれた小さな火種が頭を巻き包み、目の前が白く変わった。筋肉が焼かれる音を耳元から遠ざけるまで火傷の痛みが人を酷く苦しめた。一秒でも早く一握りの灰になりたいと言う願望があるにしろ、時は跡形もなく地味に流れてゆく。

 呼吸が浅くなりつつ、意識がが半分ほど飛んだ頃に周りが静かになった。

 「た、タンサキさん?」

 青息吐息あおいきといきで聴こえるアリマの声に目が覚めた。変な話だけれど、地上に落ちたはずの俺が、謎の奇跡りゆうによって、穴に落ちる前の状態に戻った。勘違いでも、逆行ぎゃっこうでも、転生でもない。俺は、生身の状態で、アリマの目の前で生き返ったのだ。

 周りを振り向くと体が倒れていたと見られる床には大量の血が散らかれ、何かが転がって穴に落ちた痕跡が確かに残っていた。着ている服も皺の寄った患者服の袖に、血と汚物の交じり合った赤黒い染みも、さっきと同じ物であった。

 現状を把握するまでの約数十秒の間、場内に集まった人々の視線からも妙な変化を察した。同じ人が同じ場所で不思議な気流が混じり込んだ今の状況を、一人を除いて、不安な表情で見守っている。

 「本当におと——、炭咲さんですか?」

 耳を引き止めた枯れたアリマの声から耐え切れぬさびしさが胸に伝わった。意識を後ろに向けたら、俺と対面して号泣ごうきゅうしたアリマがひどく膨らんだ状態の目で僕を見上げていた。

 「——」

 可笑しい、と自分の喉を触りながら言葉が出ない原因を探った。すると首がある部分に形がない暖かい何かが指先にみた。これは、炎だ。視野に入った物は、確かに今まで見たこともない青い炎だった。

 そして何気なく見つめ直した自分の右腕には、炎に触れた部分から青い光を噴き出す火の粉が自然とえ上がり、気付けば木炭のからを徐々に失くして、乳児にゅうじの肌のような新しい肉芽にくがりあがっていた。 

 七年前も似たような炎を両手で触れた覚えがある。が、今はそれよりアリマとのコミュニケーションをできない問題が先だ。一旦、しばしば苦しみの身振りや手まねで自分自身が炭咲の千春であることを伝えて見た。

 「えッ?落ちて気づいたらここでした?ええッ?そう言えば木炭化も治っている。理由は……、炭咲さんも知らない。もしかしたら、頭が無くなることで身体のどこかに眠っていたトゲが新たに覚醒かくせいをした可能性がありますね」そこでアリマは意地悪い冗談を俺に投げた。「あッ、これで炭咲が大好きな鮭はらみお結びは食べれなくなりましたね」

 「——」と俺は絶望するジェスチャーを取った。

 「あははは、冗談ですよ。本当かどうかは実際試せないと分からないです。首がなくても陽様は人の言葉を喋れるみたいなんですが、お父さまはまだ鍛錬が必要そうですね」

 『今、俺のことをお父さんって言った?』との意味で驚くリアクションを返した。

 「えッ?あッ、すみません。失言でした。今の話は忘れてください」

 俺は人差し指をあげてもう一声を願った。

 「な、何をですか?私が呼び間違えたことにしつこく付き纏わないで貰えませんか?」と言いつつ、俺の手を押し退ける。「い、いやです。嫌ですってば!」

 それでも俺は諦めずに最後のお願いとして懇請こんせいした。

 「はあ、意外と意地悪い厭がらせがお好きなんですね。分かりました。でも、一回だけですよ?」

 俺は肯定の意味で炎を縦に振った。いつにもして真剣な表情でアリマの言葉に取り組んだ。

 「お帰りなさい、お父さま」

 大満足だ、と両手の親指を前に出した。その後もアリマの気が済むまで変な会話はしばらく続いた。炎に関する質問から記憶の話まであべこべ喋るアリマの姿は、間違いなく親に好かれたい子供の顔をしていた話をする中で時々、俺は炎に指二本で笑う絵文字を描いた。するとアリマも微笑を含んだ眼で、静かに僕を見てくれた。

 「罪人が謀反クーデターを起こして陽様から炎を盗んだ!やつを捕まえろ」

 騒騒ざわざわひとびとが騒いだ。クーデターなんて思いもしなかった、と言い訳しようとしたが、アリマがそれをさえぎった。

 「いけません。陽様がいなくなりました。冷静に考えてタイミングが悪すぎです。ここは一旦、大人しくした方がいいかと判断されます」

 自分ではさほど危険ではないと信じているのに、他人の目には俺がヨウの炎を奪ったように映るらしいのだ。なるほど俺は、今、ヨウと同じ首なしのバケモノであった。皆の顔には強い懸念けねんが表われている。アリマが返した表情は厳しかったが、落ち着いて見える。

 この状態を打ち破るには、俺の首の上に浮いてるこの炎をまず何とかしないといけなかった。

 『炎が問題であれば消せば済む話だ』

 俺は半信半疑ながら、まだ木炭化が進んでいる左腕に火を付け、首の代わりになった炎に赤い炎を放った。お互い違う二種類の炎は化学反応を起こしつつ、やがて一つに重なり合って形が大きくなった。

 重い。片手だと取り落としてしまいそうな気がして、左手でそっと握りしめた。これ以上は限界だ、と思った僕はどこかに混物ほのおを処理する方法を思案し始めた。が、素手と木炭うでで支えながら思い巡らすことはかなりきつく感じた。場内に炎を保管できる場所も道具もいない。穴の下に放り投げは言うまでもなく論外だ。

 中と下が駄目であれば、残った方向は上しかない。俺は掌に体の感覚を集中させて、天井へに打ち上げる想像を繰り返して行った。通常、事前練習が求められるけど、今回の件は一発いっぱつ勝負しょうぶで全てが決まる。できるかできないかより、やるかやらないかの意思の問題だ。

 『どうか、よろしく、お願いします!』

 炎が完全に俺の手から離れ、天井に穴を開けて勢いよく空高く上がった。夜明けの空に一筋の花火が高く打ち上がり、東京上空から雪雲ゆきくもに吸い込まれ、雪の粉と一緒に混ざって地上に降り出した。うすむらさきの炎をふくんだ雪は積もることなく、アスファルトの隙間に根を下ろしているものに細やかな温もりを与えた。

 枯れ衰えた一枚の花は、別のトゲが同じ根からまた新しく芽生えた。とある小さな花は、深い眠りから起きて雪びらが舞い散る夜空を見上げた。そして殆どの炎を空へ噴き出せた俺は、首の部分が顎から段々元の形を取り戻していた。意識が地上から元の体に戻る寸前に、巨樹の枝に一片の雲を落として、いつか東京に訪れる春のために、先に季節の痕跡を咲かせておいた。 

 「ただいま、アリマちゃん」

 俺は、いささか照れくさい面持おももちで挨拶をして、アリマの頭に右手を乗せた。が、燃え残った種火たねびがアリマの髪に移って、なすすべもなくぱっと白く燃やしてすぐ消えた。これで、髪型だけは俺と同じ色を持つようになった。

 二人の間に気まずい空気が流れ、アリマは複雑そうな表情を作って俺をじっと眺めていた。頭の中でやや現実逃避を考えた数十秒、アリマが呆れたような吐息をついた。

 「お父さま、『ちゃん』付けはお辞めください。恥ずかしいです」

 と恥ずかしがる声で俺に優しい剣突けんつくを食わした。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る