十二枚目:花は天の階段をそっと歩く

 牡丹さんが連れて行ったところには銃を杖にした中年男性が待っていた。細い体で目の下に青いクマがあるとても疲れた印象を持つ人だ。初印象はごく一般的な現代の社会人に近い顔立ちである男が、散弾銃で人をおどかしている。ここはアメリカではなく日本だ。かりの名目でも人に銃を向かうことはまずあり得ない話だと思うが、事実、各務家の当主はやっている。撃たれたら即時、体の一部が八つ裂きにされる。

 「愛しい末井スエイよ。ようやく再会できて、ワシはとても嬉しい」

 中二病に近い一人称で堂々と自分自身を名乗る男にまた驚いた。嫌な予感がする、とステラの顔を手で隠した。

 「で、お前らは誰だ?またあの女に雇われた邪魔者か?電話で俺と話をした者は何奴どいつだ?おい、そこの君。お前が答えろ」

 牡丹さんはヘラヘラ笑って上の当主の顔色を窺がった。「お待たせしました。当主様と電話をした人は私でございます。連絡用で使用した携帯を持っていますので直接電話していただければお分かりになると思います」

 当主はいぶかしそうに顔をしかめて、持っていた携帯でどこかへ電話を掛けた。すると、牡丹さんの携帯から着信音が流れた。

 「はい、もしもし、牡丹です。ご確認ありがとうございます」

 彼は、笑顔でぜわしく鳴り続ける携帯を当主が見えるように前に出した。腹の立つほど厚かましいあの嘲笑ちょうしょうは当主の神経を逆撫さかなでしたが、ぐっと感情を押し殺しているのが見て取れた。気持ち悪いと感じるのが当然だ。隣で見届けている僕でさえ、五臓六腑ごぞうろっぷがとろけて行くようである。しかし当主は、ここへやってきた彼にまだ要件が残っていた。

 「実にくだらない面だ。俺の末井はそこに残して置いて、さっさと消えろ。今なら打たずに見逃してあげる」

 「取引の条件をお忘れになられましたか?末井様の引渡しではなく交換です。見る限りアリマ様は一緒ではないようですが、お嬢様はどこにいら——」

 その時、突然、耳をろうするような発砲音はっぽうおんが起きた。血が逆流するような激しい憤りが全身を熱くした。アスファルトの地面がぽこんとへこみ、壊れた破片が足元に飛んできた。

 「十を数える間に消えないと、次はお前らの顔面がんめんにぶち込む。いちさん…」

 「一旦、落ち着いて話を聞いてください。流石に二年ほど各務家に勤めた私でも、当主様が素直に取引に応じないことくらいは既にお見通ししていました」

 こういう新しいはったり的な態度にも反応せずに、当主は、引き続き数字だけを数えた。牡丹さんは一回深くため息をついて先生のように当主が何を見逃したかを丁寧に説明してあげた。

 「七日前にガーデンズ学園で発生した爆発事件テロの真犯人がまだ掴まれていないことをご存知でしょうか」

 「…ななはちきゅう

 「犯人は、傷を追ってもすぐ回復をして、さらに刺激を与える場合は、半径二百メートル以内にいつものは灰になるまで燃やすらしいです」続いて僕の肩に左手を置いて強い言い方で告げた。「紹介しましょう。真犯人の炭咲千春さんです。銃に打たれる瞬間、ここはガーデンズ学園で起きた惨劇が再現されます。それでも問題ないと言うのであれば、そのまま撃っても構いません」

 と言いながら腕の包帯を外して枯れた黒い木炭を当主に見せた。すんでに、僕は片手を乗っ取られ、ステラを手放すところだったが、さいわいなことに、片方だけでもステラの体を支える気力はあったため落としたりはしなかった。

 「しっかり持ち上げてください。その子の安全が私たちの身の安全に繋がっています」

 「巫山戯ふざけるな。勝手に僕の腕を掴めたのはテメェじゃないか。灰にするぞ」

 「細々したぐちは後にしても良いですか?今は、空気を読んで手前にいる当主様から目を離さないで欲しいです。ある意味で、あなた様と似た人ですから注意しないとこの場で死人が出ます」

 死ぬの方はテメェだ、と声を消して口の形で喋った。これ以上は牡丹さんに振り回されないと決めて、ぱっと彼の手を払いのけた。アリマさんがどうなろうとも、すべては自ら招いた結果なのだから僕には関係ない話だった。

 「アリマ様は、自らを犠牲にして末井様をこの家から救おうとしています」牡丹さんが急いでアリマさんの話を持ち出して、僕を呼び止めた。「明日、バベルの委員会アゴラが開かれます。お嬢様はその場に当主様を出席させる計画を立てました。ですが、炭咲さんの協力がないとアリマ様の計画は水の泡になります。仮に、もし強行してここから逃げたとしても、当主様は二人を探し出すために人を雇うでしょう。それでも大丈夫ですか?各務家とのくされ縁を断ち切るチャンスを自ら蹴り飛ばしても良いのですか?」

 「盗人ぬすっと猛猛たけだけしいにも程があります。だったらどうしろって言うんですか?最初から騙さずに助けを求めたら、その『計画』に僕も協力したと思えなかったんですか?」

 「その点に関しては申し訳がないです。今日の償いは後でお嬢様の分まで私が全てお返しします。だからどうか、アリマ様を助けることに手を貸して下さい」

 僕は懐に抱かれたステラをじっと眺めた。まだアリマさんのことを完璧に信用はできない。が、ステラにはまだアリマの存在が必要だった。深く考えるほどの事柄ではない。今はステラの求めを満たせることだけを考えれば、迷わず済む。僕は完全に決意を固ませて牡丹さんと手を握った。

 「街を騒がせた噂の罪人がお前だったのか——」遠巻とおまきに見ていた当主が銃を下ろして声をかけてきた。「あの女が俺に反旗はんきひるがえった時は、いよいよおのれの無能さに頭が可笑おかしくなったと思ったが、こうしてふだを隠していたなんて予想もつかなかった」

 牡丹さんは話を聞いても無口を一貫した。当主の扱いには随分ずいぶん慣れた格好である。それを見た僕もただ相手の方を睨め付け、口から何も出さなかった。

 「生意気な女だ。最後まで俺をあざむこうとしている」と、鋭く舌打ちと共に当主は、一応銃を下ろした。「きょうがさめた。俺があの女を連れて来るまで、先に庭の渡橋わたりばしで待ちなさい。お前との取引はあの場で行う。話は以上だ」

 嵐のような時間を通り抜けて、休む暇もなく、先に当主が指定した約束の場所に三人は動いた。途中から、ぎこちないが、ステラが元気を取り戻してなんとか自分の足で歩こうとした。不安はあった。でも、ステラを信じてあげることも大事だと牡丹さんに言われて、僕は半歩はんぽうしろからステラの歩みを、気をみながら見守ってあげた。

 当主が話した庭は、屋敷から五分ほど離れた場所にあった。まだ春が訪れていないはずなのに、新緑しんりょくくるめく輝いて、庭の入口から甘い匂いがあたり一面に漂っている。フローラルな香りが、そよ風に吹かれ、衣服にんでいる火薬の臭いと混ざり合い、僕の肺を徐々に埋め込む。こうして、穏やかな雰囲気に心の不安を消してやり、やがて僕たちは静かな庭への誘いに心を乗っ取られた。

 奇妙な空気を醸し出す狭い入口にを出て次へ次へと歩むと、陰気いんきくさ通路つうろが現れた。緑の迷路みちは複雑で太い木で覆われて、一歩間違えて踏み出した瞬間、僕は未知の危険に満ちた土地に取りかこまれた。たちまち、ステラは打ち興じて、わざと大きな靴を引きり、柔らかなくきを手で触り、前へ進んだ。この道はきっと、人々を不安がらせる何かがある。僕はそう思ってステラから目を離さなかった。

 「ネネが、あそこへ来るの」と、ステラが千編一律せんぺんいちりつの森道を一切の迷いなく、アリマさんの居場所に向かって進んだ。

 庭の中心部に辿り着くと、いかにも冷たい冷たい感じでみずうみに近い大きな池が見渡すかぎり広がった。凍った池には今朝降った雪が溜り、冬風が池の面を渡ってきし雜木林ざふきばやしに吹いている。その奥に建てられた赤い橋の以外は、今まで通ってきた場所と全く異なる殺風景なほど、何も置かれていない場所である。

 「パパ、あれを見て」

 ステラが指刺した方向そらには一機の小型ヘリが庭を飛び越えて、空気を斬る駆動音くどうおんに混じり、池に向かってきた。それを見た牡丹さんが、身を乗り出して注意を喚起かんきしてくれたが、吹き下ろし風に音も言葉も一緒に飛ばされた。

 「けがらわしい愚民ぐみんどもめ、究極に美しい俺の末井を渡しなさい。それがあなたたち下々の者どもの仕事である」

 ヘリから吹きつける強風が静まり、中二病っぽいセリフを語る人影が橋の上に降りて来た。約束通りにアリマさんと一緒に来た各務家の当主だった。計らずも僕は、父親あいつ以外の親はまともな思考ができる大人だっと思った。が、あれを見ると体だけ歳を取ったただのガキと差異がない気がする。

 愚民って、まるで自分がどこかの王様であるような言い方だ。と、池から離れた上空に留まってヘリを見上げながら僕は考えた。

 「ボタンさん?、あんたが何でここにいるのよ。姉さまと一緒に炭咲さんの所に避難しろって言ってたじゃない」

 明らかに当主との取引をたくんだ人は牡丹さんである。怒られても当然だ。僕は非常に不快な顔をしかめて彼を睨め付けた。非難をこともしない本人ボタンは反対側にいる当主に向かって大きな声で要求を叫んだ。

 「お嬢様が元気そうで何よりです。約束通り、橋の真ん中で二人を交換します」と言った後、僕の耳元にあることを囁いた。「間もなく天空から塔が敷地内に降りてきます。当主の注意は私が引きますので、その内にお嬢様と一緒に橋を渡ってください」

 無理だと言い返す前にステラの手を握って橋を渡り出した。ステラも何の抵抗もなく牡丹さんと一緒に歩いている。まただ、と僕は苦しく胸辺りをぎゅっと掴めた。また独り取り残される感覚が、心臓の奥に刻まれていたあの日の無力さを再び蘇らせて僕をさいなんだ。

 僕は橋の前で立ったまま、向こうで話が無事終わることをそわそわしながら見守った。万が一の事故が生じた時は、走って当主を阻止する想像もした。

 「炭咲さん、今です!二人を連れてこの場から離れるのです」

 牡丹さんが非常に差し迫った声で人を呼び起こした。いつの間にか赤橋あかはしの真ん中では男二人が互いの体をぶっつけ合ってあらそっていた。アリマさんとステラは近くでじっと動いていない。僕は後から状況をつかんで子供たちがいるところまで走り掛かった。

 「ステラ、アリマさん。そこから離れなさい」

 急に池の周りに大きな影が垂れて、周りが暗くなったと思い、僕は空を仰ぎ見た。頭の上で彷徨いたヘリが何かによって爆発し、各務家の庭に巣墜落ついらくした。燃え上がるヘリの残骸から始まった火災が、枯れた木の枝に火の粉が広がり、庭は炎の収穫祭が始まった。池の辺りは水があって火から安全だったけど、周りは再び、あの地獄のような阿鼻叫喚あびきょうかんの夜に投げ込まれていた。

 ステラを探さないと、僕はそれだけ考えて赤橋の中心に駆け込んだ。

 「お前ら、俺を騙し上がってただで済むと思ったか?」

 激発げきはつされた銃声が耳を引き裂く。音がした橋の中心には、赤く滲む血の香煙こうえんがまつわり、牡丹さんが左胸にあかはなを咲かして底に倒れていた。僕は早めに当主から銃を奪って投げ捨てた。二度と銃などは使えないように木炭で潰し折った。

 「おやおや、各務一家を通報した娘とその対処になる小僧こぞうが、揃いも揃って何をしているんだい?通報の内容を読んである程度は予想したが、ましてここまでやってくれるとは期待はしていなかった」お水を含んだ声で何者かが言葉を語り上げた。「それにしてもだ。陽様の花園ガーデン模作もさくできるとは、たかが知れていた野蛮やばんな虫けらとは大違いだ。褒めてあげる」

 「ボタンさん、気をしっかりして。死んじゃダメだよ」

 何が起きているのだ、と僕はいきなり出現した謎の者とアリマさんの間で動向を探った。どこか見覚えがある印象がある。焦がされた家の壁にオレンジ色の火炎の中から見た顔が、手前にいる存在とかち合って記憶の混乱を起こした。

 「テメェが何でここにいるんだ」僕は緊張のあまりどもった。「何で、ここにいるんだよ!」

 僕は、倒れた人の前で泣いている人を見て息を一つ呑んだ時の目から、ただならぬ気配を感じをうに覚えている。七年前に庭師と一緒に家に訪れた仲間の中に奇妙な笑い声で僕を見下ろしたカカシがいた。服は昔より派手になってもあの声は、十死一生の日に戻っても一生は忘れられないだろう。

 「仕事だ。カカシAとB。各務家の娘の身柄を確保しろ。急げ、急げ。次のアゴラに議題をあげないと陽様から怒鳴れられるぞ」

 僕の記憶の中で生きていたカカシも、確かに学園で逢ったカカシより人間らしい表情を持ったカカシだった。今日は他のカカシに命令を出しているが、元々は命令を受ける方で力仕事を任された。服も高級ブランドのスーツを着て顔には似合わない片眼鏡モノクルをかけている。カカシでも出世をするようだ。

 意思を持っていない二体のカカシがアリマさんを捕まえた。

 「放してください。まだ、まだあの人に何も言えなかったです」

 「ネネを虐めるないの!」

 泣きながらも牡丹さんから離れないようにする格好がさぞ哀れに映る。その隣のステラは泣き出しそうな顔でカカシの足を引っ張った。僕は、意識を離した牡丹さんの鼻先に耳を傾けた。呼吸音が乱れているけどまだ生きている。病院に間に合わなければ助けるいのちだ。

 「た、助けてください。あの女が俺を殺すために人を雇いました」

 当主が折れた掌を揃えてカカシに命乞いをする。生き残るためであれば、靴先でさえ精精舌で舐める気が満満まんまんだ。

 「各務家の小僧よ、陽様から授けてもらった服に指一本も触れるな。病気が移る」と、言った後にモノクルを服で拭いた。「そうやって、急かさなくても次は君の番だ」

 「俺は無関係です。あの女が全ての元凶げんきょうです」

 「不運ふうん、通報者とその否定者ひていしゃは一旦、バベルに監禁することが原則だ。それに、君はあの娘の保護者である父親の立場としても一緒に行く義務がある」

 「血、違います。あいつは各務家の娘ではありません。元々は新吉原で連れてきたノバナで出身地も知らないただ雑種ざっしゅに過ぎません。また——」

 「また?」

 「樹の一族の研究もあの女が勝手にやり起こしたことで、俺は反対しました。信じてください」

 話の展開が早過ぎて脳が追いついていかない状況の中、カカシと目が合った。あれは、嫌な予感がする。

 「じゃあ、証明してもらえる?君が樹の一族と無関係であることを、今この場で証明できるのか?まあ、君の娘だと名乗った人物はあの娘一人しかいないから殺しはしない。ただ、今の話は、直接バベルに通報が入ったケースを調査するためにお出まししたカカシの特権として、君に弁論べんろんする時間だと思えばいい」

 当主はカカシの話を聞いてから何かを考え込むように呆然とした。そして、僕はその呆然とした視線が幼いステラに向かっている真意しんいを悟り、立ち上って一気に足を動かした。

 「要するに、問題になる末井を処分したら済む話ですか?」

 一抹いちまつの躊躇なく落ちていた銃を拾い、指を引き金にかけた。さっきは、当主の指ではなく銃そのものを壊しておくべきだった、と後悔が波になって心の底に寄せて来る。

 寸分すんぷんの差にステラのなげきと僕の人影が一つになった。

 「パパ?」

 僕が事前に体を飛び出したおかげで、銃弾からステラを守れた。一発の銃声と二発の銃声の間にできた零点の時間差に、崩れた姿勢しせいを保つ時間は充分あった。最初の一発目は腕に当たり、次は背中に命中した。傷口から熱苦しい痛みが大量の血に流れ出て、橋の上にった水溜りを作った。

 「ステラ、大丈夫?怪我していない?」

 「ステラ怖い。ここ、嫌だ。ネネと一緒に家に帰りたいの」

 良かった。怪我はなさそうだ。ステラを安心させるために頭を撫でようとした時、自分の右腕が手首まで壊れていることを後から気付いた。薬を一気に飲んだせいで、痛みと共に脳の神経が麻痺まひして感覚自体が無くなったみたいだ。

 「パパも大丈夫?痛くない?」

 僕は言葉の代わりにステラの頭を左肘ひじに力を乗せて撫でてあげた。完全無欠かんぜんむけつと考えられていたこの体にもついに限界が来ている。すべてを防御するはずの木炭がそうではなかったを七年ぶりに直面して、僕は片手だけでもマシでよかったと心から感謝した。

 「炭咲さん、後ろです!」

 と呼び出されて振り向くとそこには、まだ銃を手放ししていない当主が、壊した左手で下を支えて、もう一発を装填そうてんした銃口をここに向けていた。弾切れにならないのかよ、と問うには薄汚うすきたない当主の笑みに口が凍ってしまった。

 「俺の勝ちだ」

 背中で銃弾を防ぐつもりでステラを抱きしめた。再生力がなくなっても一人の子供くらいは、皮が剥かれて血みどろの生身の背中で守れると思った。だが、それは自分だけの傲慢ごうまんに満ちた勘違いだった。

 「ダメ!——」

 銃に撃たれた直後、僕はステラを抱いた状態で橋の上に倒れた。地面に手をついて立ち上がろうとしたが、腰がくだけたように下半身に力が入らなかった。また銃声が聞こえた。

 灰色はいいろの腕が銃弾をはじきとばし、冷え切った鋭い破片になった木炭がステラの胸に食いこむのを見届ける僕にとって、その数秒間は恐ろしく長かった。横たわった状態でステラの顔を察すると笑顔を描いていた。今回も無事にステラを守ったと思って僕は、いまや完全に無防備になった体に疲労感がかるにつれて、視界が徐々にんできた。

 「パパ、ネネと仲直りしてね。本当はね、ネネもステラと一緒に優しいパパが好きなんだ」

 「へえェ、それは知らなかったな。アリマさんがステラには本音を言った?」

 「ステラも知らなかったの。でもね、この間、パパと出会えた時の話を聞かせたら、私も優しいパパが欲しいと言ってた。ネネ、めっちゃ可愛い顔をしてた」

 「本当か?信じられない。冷酷で冷静なアリマさんに可愛いイメージは想像し難いわ」

 「でしょう?ネネもステラみたいに笑えるの」

 なぜか自然にステラとの会話が始まり、家族アリマの話で雰囲気が盛り上がった。親子関係は、何かの行き違いで明日どうなってるか分からない。個人と個人の関係と似ているが、家族は特に特異性を持っている。しかし僕は、今の世の中の親子関係というものをずっと冷ややかな目で見てきた。個々の親子関係は千差万別せんさばんべつの一つとして同じものはないと言うのに、自分には父親に捨てられたひがみからなのかも知れない。

 「パパに一つお願いがあるの」ステラが柔らかい微笑を浮かべる。「ネネのことを大事にすること。何があっても守ってあげること。悲しい時も嬉しい時も一緒にいること」

 「それは、父親みたいにか?無理だ、それは」

 「どうして?」とステラが輝く瞳をして僕を見上げた。「ネネもパパの娘なの。忘れた?」

 「僕は、実の父親でもあるまいし、お金も社会的地位もない弱者カギだ。カギが子供の面倒を見てどうする。もっとちゃんとした大人にまかして世話を見てあげないと」

 「じゃあ、パパはいつパパになれるの?」

 「それは……、僕も分からないことだ。今より歳をとって大人になったら自然になれると思う」

 「えええ、それってパパが大嫌いな人たちと同じでしょ?パパもそうなりたいの?」

 言われてみればそうだった。僕が話した大人おとなはただ歳だけを取ってなれる存在おとなではない。それは、もっと、責任感を保って子供を大事にしてくれる人のことを意味する。夢と現実の間に挟んで大事な何かを失った大人は、ステラが話した優しい人からは程遠いものだった。

 「そしたらね、パパがなってあげてよ。パパならできるの」

 「僕が?」

 「うん、パパは今も優しいし、責任を持った立派な大人なの。ネネも言ってたから、きっとなれる。ステラが応援する」ステラは元気な声で言った。「ステラは世界で一番優しいパパが一番大好き」

 僕はステラの告白を聞いてすぐ目を覚ました。白い息を吐きながら、辺りを見回す。静かな部屋の中にベッドサイドモニターと点滴二本、そして小さな加湿器が置いてある。各務家の庭ではなく別の場所に見える。隣にはもう一つのベットが置かれていたけど、空席で僕一人だけ部屋を使っている模様だ。

 呼吸マスクを外して吸った空気は冷たいミントの味がした。無理をしてまで体を動かせようとする度に、自ら脳を針で刺すような頭痛が強くなった。また、下半身から何の感触も伝わらない。確かにある体の一部が、他人のように感じる。頭のんかでは自分の体だと認識しても、へそから足指までの主導権を失った。

 取り敢えず別の病室にいるステラを捜すためにここから出られる方法を考えた。

 「ス…ミ…マセ」

 声がない状態で仕方なくナースコールを押した。少し待っていると看護師さんが病室のドアを開けて僕と目が合った。何か書くものが欲しいとジェスチャーしたが、先生を呼び掛けに消えた。

 歩けないことで困っている刹那せつなに、ベットの横に車椅子くるまいすを発見した。使ったことがないモノに慣れるまで時間がかかった。適当にタイヤを回して前進と後進を覚えた後に病院の廊下に出た。

 外側はやけに静かだった。窓側から眺めるなかは夜空に綿雪わたゆきが降り続けている。僕は車椅子を動かして、同じ階の病室に訪れてステラがいるか覗き見た。

 「その部屋は空室です。誰かお探しでしょうか」

 とある医者が中性的な声質せいしつで僕を呼びかけた。銀髪の珍しい容貌ようぼうを持った人だった。僕は軽く頭を下げて挨拶をした。声が出ないから直接説明するには限界があり、ステラの高さを見計らってジェスチャーで示した。これくらいの身長を持った子供を探している、と言うつもりだった。

 「一緒に入院したお子さんをお探しでしたか」表情を読めないほど疲れた顔を持っている。「……案内します。少し歩きますので車椅子は私が後ろで押します」

 徹夜てつやの疲れが染みついた様子に申し訳ないと思ってもう一度かるく頭を下げて感謝を込めた。

 「お礼は大丈夫です。あくまで仕事ですから」

 名札に「銀」の一文字が書いてある。誰もいない病院を通り過ぎてエレベーターを呼んだ。しばらく時間が経ち、エレベーターが地上九階に止まって扉が開いた。中に人は乗っていない。銀さんは地上一階のボタンを押した後に、車椅子が動かないように壁側に固定してくれた。

 一階に到着するまで一分もかからなかった。

 エレベーターの扉が開かれると、人々の泣き声の木霊こだまが空間を圧倒して響いた。ある時は切なさが染み付いた声が、ある声は怒りが籠って蝸牛カタツムリを重く叩いた。人の嘆きが呼吸をするたびに聴こえてくる。僕の心臓がそれに動揺し、頭まで血が上った。

 「お子様は、一番奥の霊安室れいあんしつにいます」

 そのとき、奥の霊安室の扉が開き、白衣を着た小柄な中年女性が出てきた。僕より、まだ背が低く、赤縁あかぶちメガネをかけて、後ろ髪を綺麗に結んでいた。香月さんだった。僕は自らの力で車椅子を動かして廊下の上を移動した。何か言われたが、無視した。先に、確かめないといけないことがある。

 扉は鈍い音を外側に反響させて開かれた。僕は霊安室の中に入って扉を閉めると、真ん中に置いてあるベットに光が差し入った。閉ざされた部屋に、蘞辛えがらっぽい線香せんこうの匂いが身体を包み込む。親しい死の匂いに僕は心臓を刃物でえぐられた苦痛を感じた。

 その痛みに吐き気が出た。抑えるために体を伏せいた時にバランスが崩れて地面に転んだ。ありえない、と思いつつ、ベットまで両腕を地べたについて四つん這いになって行った。って、いて、息を殺して、心が壊れるのをかろうじてこらえた。立てない脚の代わりに上半身の力だけで体を起こし、白いシートで被せた何かを自分の目で確かめた。

 「ああ、ああ、ああ」

 も無く涙がこぼれ出して、音を立てて自分の胸を壊れた腕て叩き続けた。喉から形を失ったこえが行き先を忘れたタクシーのように部屋の中を彷徨う。僕は再度ベットの上に寝ているステラの遺体に向き合って、体を反って吠えたけた。左腕が壊れるまで地面を叩き込んだ。

 「炭咲くん、炭咲くん。君のせいじゃないよ、だから、自分を責めないで——」

 僕の世界は、もう一度壊れた。尽きぬ思いに血涙を止め得ず、もどかしい過去の面影は跡さえも残さなかった。そして、ベットに寝っているステラを見つめる眼には絶叫ぜっきょうの涙が溢れ、悔しい気持ちを抑えきれない心臓からの鼓動は耳元に喚いて僕を苦しめた。

 見る目も構わず、ただ泣き叫んだ僕を、後ろから誰かが抱きしめてくれた。人の温もりが体内に伝わってくる。また永遠に冬の季節に閉じ込められたステラを思い出し、またあの夜と同じく、一人だけ生き残った自分自身の運命を恨んだ。どうして同じ試練を僕に授けたかを反問したかった。

 「ナ…ゼ、ナゼ…ボク…、ダケ」枯れた声は僕の意思と関係なく錆が入ったように千切れて聞こえる。

 「炭咲くんのせいではない。ステラちゃんもきっとそう思うよ」

 この声は、こひなさんだ。各務家にも一緒に行ってくれて、今も隣にいてくれている。花園大学医学部附属病院からステラを捜しに一人で父親の会社に向かった当日、僕は二度とこひなさんに会えないと思った。独りの人生に慣れた僕が他人と関わって知り合い、すぐ別れることは日常茶飯にちじょうさはんであった。しかしながら、ステラに導かれてきずなで結ばれたこひなさんとの因縁は、不思議なことにまだ続いている。

 「早く起きろよ、このバカ野郎。起きて、自分がやらかした結果にちゃんと向き合いなさい」と、香月さんが僕の首筋を掴んで僕を無理矢理に起き上がらせた。

 「ち、ちょっと、悲しんでいる人に何をしているのですか?その手を離してください」

 「これはハルくんと俺の間の問題だ。家族でもない部外者きみは黙って話を聞いていればいい」

 「はあ?何それ、キモッ。ウチはステラと炭咲くんの命を助けた恩人だし、三人で過ごした思い出もあるから部外者ではないと思うよ?それと、ウチに指図を出す資格なんてあなたにある?一番大事な時に役に立たなかった人は他でもなく医者であるあなたでしょうが。人を散々待たせてステラも助けなかったあなたにも責任はあるから、一旦、炭咲くんに謝りなさい」

 「どの口が言う。責任を云々する君はあの場で何ができた?結局、ステラは死んで各務家の使用人は意識不明のままで寝ている。首謀者しゅぼうしゃである各務アリマはバベルに逮捕されて、各務家の戸籍こせきからも否定された状態だし、多分、あの子一人で全ての罪を背負って明日のアゴラで処刑されるだろう」

 こひなさんは話を聞いて情報の真偽しんぎのほどを見定めた。「嘘…でしょう。もしかして各務家の当主は自分のために身内みうちの先生を捨てたわけ?それに処刑って、まだ有罪の判決が何かの勘違いじゃない?普通は判決はんけつ期日きじつはほぼ一か月に指定され、求刑きゅうけい通り、死刑判決が言い渡されるのが筋合いでしょう」

 「詳しい事情は知らんが、ステラの遺体をバベルの方から回収する連絡が病院長の宛てに連絡が届いている。この場合、翌日の朝五時に予定されているアゴラで罪人を起訴きそするためが多い」

 「ありえない。それは、絶対おかしいわ。早く止めに行かな——」

 「君が行ってどうする。ただの新吉原で人形かりの姿に隠れて夜の仕事をするノバナの証言でアゴラの結果がくつがえるとはとても思えない。更に、君は参加できる資格すらないだろ。各務家の娘は、残念ながらもうお終いだ」

 「あなた、本当に炭咲くんの親戚なの?全然、似ていないけど。人の命をそう簡単に諦めないで。先生は何としても新吉原ウチらの力で助けてみせる」

 二人の会話は隣の部屋にたたえる足音や話声と混じり合い、ひびきそうな深い寂寞せきばくの底に沈んだ。怒りも、悲しみも、哀れみも、互いの感情におかしていく間に、僕は冷静さを保った。

 「コウヅキサン、イマナンジデスカ?」と、頑張って言葉を喋った。「ボクに、クスリをクダさい」

 枯れた声と元の声が混ざって聞こえる言葉に誰も聞き取れる人はなかった。何か書くものが必要だとジェスチャーで伝えたら、こひなさんが自分のスマホを貸してくれた。画面が割れた古いスマホだった。

 「薬?君もいい加減にしなさい。あるとしても、ハルくんの体はもう通常の薬は効かないから使う意味がない。今は医師による専門的な診断と通院治療を受ける時期だよ」

 僕はスマホを下に置いて三本しか残っていない腕で文字を入力した。『樹の一族プロジェクトで開発している新薬を僕に注入して欲しいです』

 「…はあ。その話、誰から聞いた?」香月さんが頭に手を当てて激しいため息をついた。「まだ臨床実験も行っていないし、実際、まだ治験ちけんの段階を踏んでいない全く新しい薬だ。リスクが大き過ぎる」

 具体的な話は知らなかった。ただ自分がもう一度立ち起きる力を手に入れれる方法があれば、何だって構わいと思って言った話だった。

 『それを使えば、炎を出せますか?』

 「炭咲くん、何を考えているの?薬を貰って何をするつもりなの?」こひなさんが心配げな面持ちで僕の顔を真っ直ぐに見た。「まさか、その体を持って外を歩くつもりではないよね?違うよね?」

 僕はベットに体を寄せて座った。『アリマさんを助ける』

 それを読んだこひなさんから右頬を叩かれた。血の味が口の中で広がる。痛みはしなかった。

 『痛いじゃないか』と嘘をついて相手に見せる。

 「香月さんの言うとおり、いい加減にしてよ。どんだけ人に心配をかけたら気が済むの?先生はウチらに任して炭咲くんは自分の健康だけを考えなさいよ」

 香月さんが怒った。怒ったけど泣いている。他人のせいではなく他人のために怒る人顔は、久しぶりに見た。僕は、包帯を巻いた左腕でこひなさんの涙を拭いてあげた。

 『アリマさんと一緒に帰って来る。帰ったら三人で映画でも見に行こう』と書き残して偽りもない約束と共にスマホをこひなさんに渡した。

 その後、こひなさんの肩を借りて車椅子に座った。向こうのベットにまだ静かにステラが寝ている。今でも寝床ねどこから起きて僕へ駆け込むような気がした。僕はステラに別れの手を振って霊安室を出た。

 僕は、この一週間の間、違和感で満ちた日々を過ごした。が、振り返ってみるとあの時に感じた気持ちは、生まれてから初めて味わう感情の塊であり、幸せであることを自認した。全てはステラのおかげだ。ステラが起こした事件と出会いが、まったく偶然をくり重ねて僕をここまで導いてくれたのだ。でも、ここからは、僕の意思で前へ進む出番だ。

 ステラは僕の娘であり、僕はステラのパパだ。そしてアリマはステラの妹であり、ステラはアリマのネネだ。姉妹しまいそろって世間の汚れが染み付いた大人たちに振り回され、一人は死の直前まで一緒にいて、もう一人はまだ周りから脅かされている。唯一アリマの無罪を証言してくれる牡丹さんは意識不明の重体となった。各務家の戸籍から名前が消され、各務家に否定されている。実際的にアリマの味方になれる人物は、僕しか残っていない。強いて言えば、僕は、アリマを救うために必要ひっす不可欠ふかけつこまなのだ。

 個人的には自分の大切な人々の遺志いしを引き継ぐためにもある。子供むすめが危険な目に遭った時は、親が身代わりになって守ってあげる。妹の優しいパパになってあげる。二人が見せてくれたそれぞれの教えを、今度は僕が自分の娘を実践じっせんする順番が回って来た。

 ステラが繋いでくれた因縁を見逃さない、と決めて心臓むねに手を乗せて目を瞑った。アリマを無事に連れて来ることを小さく呟きながら、約束の祈りをステラに伝えた。今度は、絶対救って見せる。そう思いながら明日に向かって今日を準備する僕がいた。

 

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