十一枚目:紫紺の牡丹は人を騙かす

 「炭咲さん、ご自宅にいらっしゃいますか?各務家の人です。お嬢様からの伝言を伝えるためにお尋ねしました」

 家に帰って数日が経った。いや、正直なところ今日が何日で何曜日かも知らないまま、暗い部屋の中に閉じこもって、ただただ時間を潰している。廃人はいじんのように、ましてや、ろくな食事や水分も取らずに布団を被って眠り続けた生活に慣れた頃、誰かが家に訪れた。

 「お願いします。話だけ聞いてください。もう最後かも知りません」

 体を動かす力もない僕は、返答もできない状態で、黙って相手の話に耳だけ傾けた。

 「まだ反応がないの?退いて、ウチが予備キーを持ってこれで開けるはずよ」

 「失礼ですが、そのキーはどこかからお持ちしたか先にお聞きしてもよろしいでしょうか」

 「これですか?一階にある宅配ボックスの中を見たら入っていましたので持って来ました」

 「犯罪ではありませんか。お嬢様に迷惑が掛かるような行為はお辞めください。困ります」

 「先生が教えてくれた方法です。だからご心配無用ですわ」

 すぐ近くからこひなさんの声が聞こえて、外から鍵穴に鍵を挿してドアノブを回す音が部屋の中に届いた。しかし、僕はドア一枚隔へだてた向こうが、外だというこ心許無こころもとなさに怯えていた。

 「炭咲くん!生きている?牡丹さん、早く車を用意して出発準備をしてください」

 なかば意識は朦朧としていたが、夢とも現ともつかない足音を耳にした。何かに苛立っているらしく乱暴な歩き方だった。そのうちに、暗黒の中に、白く光った人の形があらわれて来た。人の形は、どんどん明瞭度めいりょうどを加えていき、やがて椿つばき柄の着物を着た女の顔が網膜に投影された。その後、僕はあっさり気絶した。

 「——がないです。どう考えても、今起こさないともう間に合わないです。体の回復は、頃合いを見計らって、移動しながらでも問題ないでしょう」

 「無茶を言わないでください。香月さんの言うことを忘れました?いくら各務先生が緊急だとしても、炭咲くんは死にかけています。本当に死ぬか、死に損なうか、その境界線上に立っている人にお願いするなんて、酷いです」

 「あなた様は少し黙っていただけますか?今は、炭咲さんの保護者である香月さんとお話をしています」

 「はあ?なにそれ、気持ち悪い。保護者の資格はウチにもあるから、勝手に部外者扱いはやめてもらえます?人形がないからと言って、ウチを甘く見たら、痛い目に会わせますよ?」

 「話になりません。いつからあなた様が炭咲さんを代弁だいべんしたと言うのですか。ご家族を目の前にして、わがままにも程があります」

 「いつからって、炭咲くんが気になってからです!何か文句でもありますか?」

 周りがうるさい、と僕は目を瞑って考えた。時にはいい加減にしろと怒鳴りたくなったが、途中から会話を切りだすのが少し億劫おっくうにも思えた。

 「香月さんも、そうやって黙ってばかりいないで、何か言ってください」

 「あ、私ですか?いやァァ、正直に言うと二人の会話が面白くて何も考えていませんでした。すみません」と、香月さんは真面目で平凡なお愛想あいそより、気の利いた空世辞からせじで答えた。「ところでこひなちゃんは、具体的にハルくんのどこを見て好きになった?あの子って結構、人の情に厳しいから中々好きにならないんだよね」

 「この場に及んで恋話は少し道を外れたと思います、香月さん」

 「無理矢理に起こしてもお薬の影響で体に力も入らないと思いますが?あれこれ言っても、最後に決める人はハルくんです。私が止めようとしても、あの子が行きたがるし、逆の場合もあります。だから、今はこうして起きるまで待つのが最善です。以上、他に何かありますか?」

 「……いいえ、承知しました」

 不慣れな天井の下で目を覚ました僕は、慌てて頭を立て直した。右腕から痛みと共に痺れが伝わってくる。気がつくと僕は片腕にはリンゲル液の注射針が刺し込まれた状態で、謎の部屋に運ばれていた。カーテンで囲まれて周りに何も見えないが、向こう側から聞こえる話し声に大体のことが分かってきた。

 「すみません、誰か、ここがどこなのか、教えてもらえますか?」

 カラカラに渇いた喉から焼けたアスファルトに擦れるボックスのような声が出た。お水を探そうと体を動かすとカーテンを開けたこひなさんが泣きべそをかいた悲愴ひそうな顔で現れた。僕は何と言えばいいか迷ったが、泣きながら僕に抱きつくこひなさんを片腕で受け止めた。無事でよかった、とこひなさんが言った。

 「お初にお目にかかります。各務家に務めている牡丹ぼたん一華いちかと言います。大変恐れ入りますが、ただちに本家までお越しいただけますでしょうか」

 僕は咳払せきはらいをして聞いた。「本家の人が僕に何の要件ですか?」

 「移動しながら説明いたします。今はとにかく私の言うことを信じて動いていただけませんか?」

 横で話を聞いていたこひなさんは、事情も教えない人は信用できない、と言いつつ、強い拒絶反応きょひはんのうを示した。一理はあるのだが本家にいるステラのことが心配になって断れなかった。

 牡丹さんの話に机の前でコーヒーを飲んでいた香月さんが口を挟んだ。「今回は危なかった。これ以上、体を壊してまでトゲに頼ると、本当に死ぬよ」

 淡々とした言いぐさで自分の患者に死亡確定を告げる香月さんである。

 「しばらくは様子を見て、調子が良くなるまでは休もう」と、こひなさんの頬を苦い笑がかすめた。「ね、炭咲くん?各務家には他の人を送らせることもできるからさ」

 こひなさんの手がベットの上に置かれた僕の手の甲にそっと重ねられた。僕は「大丈夫です」と優しく言いあって上半身を起こして座った。

 「人間は、の栄養えいようらなくても、水と睡眠さえとっていれば二週間は生きられる。ハルくんの場合は、それよりはもっと長く耐えれるけど、今の状態はそのバランスが崩れて普段より弱くなっている。血液の中から巨樹の細胞がほぼ木炭されて、他の臓器まで損傷そんしょうを起こしている状態だ」香月さんが電子タバコを口から吸って鼻から煙を吐いた。

 「こうした懸念けねんがハルくんを躊躇ちゅうちょさせるとは思えないからはっきり言っておく。一度二度で体に負担が掛かっても死にはしない。けれども、再生のトゲが既に寿命を尽くした現状では、木炭に火をつける頻度数頻度すうが増えれば増えるほど、体は内側からくずれ落ちて、昔みたいには体が持たないと思う。今のハルくんは、スペアがない一本だけの燐寸マッチに火を起こし燃やし続けることと同じだ。実際、喉の奥に血痕や剥がれの跡が残っていたから、最近また大量の血を吐き出したり、倒れたりしたことが最低でも二、三回はあったと見られる。まあ、私がこうして厳しく現状をかたっても、本人がよく知っていると思うけどね。そうだろ、ハルくん?」

 確かに体の異常には薄々勘かんいているつもりだった。でも、今はそれところではない、と言いつつ僕は腕から針を抜き取った。新しく生じたあざは包帯をまいて出血と化膿かのうを防いだ。

 「申し訳ございませんが行くしかなさそうです」

 「はあ、炎を出す前にこれを飲みなさい」と香月さんは薬が入ったピルケースを軽く投げた。「せめて痛みで頭痛が酷くなるのは事前に防いだ方が動きやすいだろう。後から飲んだら効かないから、必ずトゲを出す前に飲みなさい」

 薬を受け取って、こひなさんの顔を伺った。怒ったような、心配するような曖昧な顔をしている。僕は別れる前に励ますための挨拶を伝えた。

 「こひなさんには色々すみません。会ってからずっと僕の世話を焼いてくれていて面目めんぼく次第しだいも無いです。帰ったら全部返しますのでもう少し待ってください」

 「もう待つだけの時間はうんざりだからウチも一緒に行く。問題ないですよね、牡丹さん」と同意を得る前にベットの上から体を起こした。

 「問題になることは特にありません。先に出て車を出しますの病院の地上駐車場でお待ちください」

 僕は水を一口含ふくんで喉の奥に飲み込んだ。「香月さん、行ってきます」

 香月さんは挨拶の代わりに手を振ってくれた。

 病院から出て僕は巨樹の北にある桜並濠さくらなみぼり区域くいきまで車で移動した。牡丹さんが行った通りに何かの事情があるみたいだが、頭がもやもやとして、途切れ途切れにその話を聞いた。出発する前に飲んだ薬の副作用に眠気があるみたいだ。背筋から冷や汗が流し続け、焼きごてを押しつけられた痛みの記憶が両腕を長く苦しめた。気がつくと、隣席に座っていたこひなさんの肩に頭を乗せていた。

 「——要するにネネ様をあの家から救出することが最終目的になります。私の説明に何か不明点などございますか?」

 ない、と短く返答してピルケースの中にある薬を一気に飲み込んだ。全部数えて六個だった。副作用も普段と違って六倍は強くなると思うが、一時的でも、ステラと再会することに当たって血を吐くようなイレギュラーは避けたかった。

 ステラの前では何があっても弱い姿は見せない。と、僕は極限きょくげん状態まで自分を追い込めてまで覚悟を決めた。

 「炭咲さん、本家に着きましたが体の具合はいかがでしょうか?」

 浅い眠りで眠気が残った目を擦りながら、俺はぼんやりと窓ガラスの外を眺めた。そこには自分がいる場所がヨーロッパだと勘違いするほどの、一種異様いっしゅいような雰囲気をかもし出す光景が広がっていた。

 敷地しきちに入ってから池や天然石が並べられ、また植栽が植えらレタ閑静な別荘地に建てられた豪邸は、今の時代をはるかに超えて孫まで住めるような威厳を保つ一軒家だった。つ木々が生い茂る森の中に格調かくちょうあるデザインで設計された庭園には、数え切れない規模の植物が植えられていて、圧倒的な風景に言葉を失った。

 そして、突然、一発の銃声が豪邸ごうていなかから聴こえた。

 「お嬢様が動き始めたようです。急ぎましょう。道案内をしますので、私の後ろについてきてください」

 駐車場から豪邸までは階段で繋がっていて、走って上がると玄関までまた小さい庭がまた現れた。しばらくは人の手が触れてないように枯れた花と木の畑が形だけ残っている。僕たちは死の影が長々と伸びた庭を通り、大理石で建てられた各務家の豪邸に到着した。

 牡丹さんは豪邸のドアに耳を傾いて軽くノックをした。

 「牡丹です。例の保護者と一緒に戻りました」と中にいる誰かに向かって小さくささやいた。「中の状況はいかがですか?」

 「当主様はまだ三回に留まったいる。君たちは、台所の裏門が開いているからそこから中に入りなさい。ご令嬢れいじょう様は南の廊下から階段を上がってすぐある部屋に隠れている」

 「ご協力に感謝します。報酬は、仕事が終わった時に支払われる予定です」

 「万が一、当主様に気づかれた時には、私は君たちのことを全面的に否定するつもりだ」と、謎の声は二度軽くノックをしてから話を終えた。

 「裏門は反対側にありますのでここからまた走る必要があります。お手数おかけしますが、またよろしくお願いします」

 裏門まで走りながら前方に見える巨樹に目を取られた。かつて江戸川区でも遠くから見えた巨樹を、ここまで近くの距離から見る機会は相当少ない。この時期は痩せた木の枝が地面に網のような影を落としている。でも、春が過ぎて夏になると東京都全域を超えて、日本列島を覆い隠す勢いで樹の枝を限りなく伸ばす。それが原因となり、巨樹の下にある街は陽が当たらないため、春から夏の季節には、バベルが定期的に陽射ひざしを与えに地上の近くまで降りてくる。普通の日差ひざしと何が違うかは写真でもよく分からない。目には見えなくても確かにそこにある空気みたいに、巨樹の下にいる人間は、ごく普通に陽が当たる街で毎日を過ごし続ける。

 僕は、たまにこうして巨樹を見晴みはらしていると、巨樹の影が濃くなる印象を受けた。だが、その黒い影が足元に数滴、したたり落ちる街にいる間は、自然に周りに同期されている僕がいる。まるで、人が海の中を自由に泳げるように、未知なる存在への恐怖と説明できない自由に手なづけられ、身体は都外にいても魂は巨樹あそこに縛られて生きている感覚が、確かにある。

 「申し訳ございませんが、こひな様は炭咲さんが戻るまでここでお待ちください。三人が一緒に屋敷内をうろついても、当主様に相次あいついで発覚される恐れがあります」と話した牡丹さんは懐から鍵を一つこひなさんに任した。「これは庭にある倉庫の鍵です。お嬢様がよく使った新吉原まで通じる扉があります。私と炭咲さんが三十分以内に出ない時は、この鍵を使って一人で先に逃げてください」

 こひなさんを外に待機させて、僕は牡丹さんと一緒に豪邸の中に潜り込んだ。台所に足を踏み出した時、温もりは一脈も感じられないほど空気が冷たく荒々しかった。一日二日だけではなく、一年以上は食事の準備を行なっていないように見える。台所から抜け出て正面にある階段を上がって二階に向かった。

 あれは一体何だ、と思ってちらりと廊下の方を向かうと、頭だけ残った獣の標本ひょうほんが列に並べて壁側に剥製はくせいされていた。これほどの常識じょうしきはずれの趣味を実現できる時点で狂気きょうきしか感じない。

 「先先代せんせんだいの思いを引き継いだ趣味です。ここから廊下の端っこまでは当主様の叔父様が狩に出かけて戦利品せんりひんとして持ち帰った動物たちです」と牡丹さんは眉をしかめた。「今の当主様は、アレを含めて二つだけです」

 それを聞いた僕は一ヶ所に視線が留まった。「当主が初めて作ったモノはあの人形ですか?意外と派手はでなモノがお好きな人みたいですね」

 人形は全裸の姿で白い肌が花の色に染まるようにガラスの棺の中に収めていた。黄色の髪色にエキゾチックな異国いこく情緒じょうちょな顔立ちが特に印象的である。御伽おとぎばなしの中に出る白雪姫が眠りに落ちた時を再現しているようだった。よく観れば、こひなさんが着用する人形とは若干の違いがあるが、きよらかで目鼻立ちの整った顔がアリマさんのモデルによく似ている。けだしアレは、各務コーポレーションが最初に造ったプロトタイプ機の可能性もある。

 「やはり素人しろうとの目にもそう見えますか」牡丹さんはしばらく間をおいてから、かろうじて話を切り出した。「アレは、……当主様の奥様です。二十年前にお亡くなりなった以来、ずっとあの場で屋敷を見守っています」

 思わぬ真実に息が詰まった。正気ではない、と思った時に二度目の銃声が屋敷内にとどろいた。僕はアレを観た後、なおさらステラの身元が心配になってきた。

 「牡丹さん」胸の底から湧き上がる感情に口が勝手に動いた。「ステラの母親は、誰ですか?」

 「ステラ?あ、すみません。確かに末井スエイ様のことを『ステラ』と呼んでいましたよね——」と泰然たいぜんとした口調で名前を述べる牡丹さんの顔からぎこちない笑みが消えた。「嗚呼ああ、これはお嬢様に怒られますね」

 「テメェらは、人をどこまで馬鹿にする気だった?ふざけるのも程がある。言え、ステラはどこの施設から連れて来た?あの小さい子に何をやらせた?」

 怒りが体を震わせた。僕は、熱くなった血が首筋に吹きかかるのを感じながら、弱くなった腕で牡丹さんの胸ぐらを掴み取って、後の壁に押し付けた。僕が直面した臭い真実から隠された真相しんそうを究明するためだった。

 「落ち着いてください。ここで止まって話ても、時間が流れるだけで、状況は何も変わりません。ステラと言いましたっけ?あの子を助けるには今が最適です。急がないと間に合います」

 僕はよこつらを張り飛ばしたい気持ちを抑えて、目の前にいる図々しいやつにこう告げた。「……ステラはオレが保護者として連れて行きます。将来的にも、各務家に関わったすべての人間は、個別的にステラに連絡は禁止です。会いに来ることも一切禁止します。アリマさんも、例外ではありません。俺の話を何の意味か理解できましたか?」

 僕の要求を聞いて、牡丹さんは肯定するような表情を顔に出した。この人はだいぶ悪質な大人だ、と僕は後から思った。こひなさんと香月さんの前には出せなかった陰険いんけんな目つきだった。余裕がある態度が気に入らなくても、ステラを探すまでは我慢だ。

 それにしても、ステラが抱いたアリマさんへの愛情に偽りはつゆほども感じられなかった。特殊な教育や洗脳を受けた可能性はあるが、二人とも目と鼻がそっくりだった。血縁けつえん関係でないと、数百人から数万人に一人の確率でしか存在しないドッペルゲンガーでも探し出して家族に入れた話になる。

 もっと時間があったら良かった、と僕はカッコ悪い後悔に追われて、他にも大事な何かを見逃しているような妄想に取り憑かれた。しかしそれもまた、今この場で交わす話ではなかった。

 「末井ステラ様は当主の書斎にあるセーフルームに隠れています。ドアのロックは中から解除しないと外の人間は入れない仕組みになっています」

 だから僕が必要なのか、と思いつつ、廊下の端っこにある書斎のドアを開けて中を察した。床には棚から落ちた本や額縁が散らかされている。人の気配はない。安全を確保した後から中に忍び込み、セーフルームと見られるドアの前に立った。部屋の中に入ってすぐ、空気中に漂う火薬の臭いで不愉快な気分がした。鼻をつまんでドアの周りを見澄ますと、壁や天井のあちこちに無数の銃痕があった。床には少量の血痕と十回を超えて使用された多くのから薬莢やっきょうも落ちている。酷い有様ありさまだった。

 開けないドアに向かって銃を撃ちまくり、ドアから跳ね返った銃弾で傷を負ったように見られる。使用された銃は確認するまでもなく、散弾銃ショットガン類である。室内ではもっとも大勢おおぜいの人を殺せる殺傷能力を持つ武器なのだ。それを子供に向けて使った各務家の当主に対して、僕は、初めて父親あいつ以外の人間に殺意をたくわえた。ステラを何だと思っているのだ、と反問したい気持ちもあった。

 「弾切れを待ってから脱出は難しいですか?」

 僕の質問に牡丹さんは素早く答えを返した。「却下です。当主様は常にアシスタントを同行させて狩りに出かけます。今日も例外ではありません」

 僕はため息を飲み込みながら、次の対策を考えた。「だと言っても、相手が銃を持っている間には下手に子供を連れて動くのはとても危険です。屋敷内に秘密通路はないですか?」

 「その問題についてはお嬢様の方で手を打っております。あまり信用できないと思いますが、末井様が信じるお嬢様を信じてください」

 どこかのアニメから聞いた覚えがあるセリフに違和感を感じる。

 僕は訳もなく背後から急せかされて、鋼鉄の扉にノックをした。「ステラ、僕が来た。ドアを開けなさい」

 「何をやっているのですか、炭咲さん」牡丹さんは真顔で僕を見つめた。「やけに子供が怖がるような言い方はお辞めください」

 注意された部分を訂正して、今度は優しい声でドアの隙間に囁いた。「ステラちゃん、ドアを開けてください。僕、炭咲だよ」

 「…あれですか、末井様と仲が悪かったりしますか?それともコミュニケーション能力が足りない人ですか?お嬢様からは炭咲さんは子供の扱いが上手い方だとお聞きしましたが、今の発言で少し疑わしくなりました」

 唖然とした表情で僕を睨める牡丹さんは一言を言いえた。「そう言えば、姉さまが好きなあだ名で呼んでみてください、とお嬢様から伝言を預かっています。何か思い浮かぶことでもあります?」

 「あだ名って、特に何も——」と言ったきり、ぷつりと黙った。

 あだ名よりステラが僕から聞きたがる呼び方があることを思い出した。普段は恥ずかしいから自分の口では出せなかった言葉を、僕は優しい声で言い表した。

 「ステラ、遅くなってごめんなさい。ステラが大好きなパパが向かいに来たよ。もう安心してドアを開けてくれない?」

 丁寧な態度にステラが応じてくれた。開かれたドアの奥から涼しい空気が流れ込まれ、同時に、ステラが僕の懐に飛びかかった。僕は体のバランスを崩し、そのまま床の上に尻もちをついてしまった。それから、ステラの泣き声を聞いた。

 「パパあァあ、ステラ寂しかったの」

 僕は泣いているステラを胸に抱いて、とんとんと軽く叩きながら褒めた。肌が外にいた僕より冷たかったが、風邪気味の熱はなさそうだ。

 「ステラ、可愛い写真もいっぱい撮るから!パパが嫌いなことはしないから!前よりずっといい子にするから、ステラを一人にしないで、パパ」

 僕は、ステラに何も言えなかった。こんな風に言われたら、何と言い返せば良いか分からなかった。

 「お父さん、一人は寂しい。僕も一緒に連れて行って。もっと頑張るから僕を捨てないでよ」

 施設に任されることを分かった日が思い出した。アスファルト道の上で父親の足にしがみついて、一生懸命に謝り続けた。中々許されないから、最後はありもしない言い訳を告白して父親の興味を引いた。本当は、僕のせいではなく、あいつにあるのに、幼い僕は捨てられた理由を自分から探した。

 「もういい、もういいよ。ステラ、君は今でも充分、いい子だ」

 「本当に?じゃあ、ステラのことを置いて行かないの?」

 「勿論だ。今日は、パパがステラの言う通りにするから、帰り道に何か欲しい物があったら教えてね」

 「本当の本当に?もうステラ、ここ来ない?」

 「本当の本当だ。ここはもう二度と来ない。パパが約束する」

 「やった!ありがとう、パパ。優しいパパが世界で一番好き!」と言った後、ステラが部屋の中を見回した。「ネネも一緒に帰っていい?」

 その質問に僕はしばらく躊躇ためらった。理由はどうであれ、世間が偽物にせものだと言っても、ステラには本物の兄弟姉妹関係だった。僕がそれを知った上に二人の間に真実を打ち明ける資格はない、と名残なごりしさに濡れたステラの瞳を見て、僕は口を閉じた。

 「はい、ロック解除しました。はい、アレも外に出て身柄を確保しました。どこに連れて行きましょうか、当主様?」

 自分の耳を疑って後ろを振り返ると牡丹さんの片手に携帯電話が持たされていた。通話相手は、各務家の当主だった。最初からあの人は、当主との取引き上に僕を利用した模様だ。

 「今からそちらに向かいます」牡丹さんは電話を切って僕に手を伸ばした。「と、言うことで一緒に来ていただけますか、炭咲くん」

 後から気付いたとしても自力で迷路のような豪邸を逃げ出す方法は、事実上皆無かいむひとしいことをよく知っている。だからなのか、あの図々しいつらを見る度に僕の腹を立たせた。

 僕はステラが見えない角度で牡丹さんの腹部を強く殴った。「ステラに指一本でも傷つけたら、テメェから灰にしてやる」

 「…承知しました。一旦、私について来てください。当主様が外でお待ちしております」

 他に選択肢がなかった僕は、ステラを背負って大人しく各務家の当主がいる場所まで移動した。独りで待っているこひなさんにはまた悪いことをしたかも知らない、と僕は心の中からお詫びの祈りを捧げた。



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